2021年10月6日水曜日

布野修司:ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会

『都市美』第2号 河出書房新社 2021年9月30日 

ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会

布野修司

 

 はじめに

 『記憶と沈黙』(谷尾晶子(2003))の「訳者まえがき」に「その鮮烈な問題意識と実にロジカルな論の組み立てに感銘を受けた。とりわけポストメモリーという概念に大きな衝撃を受けた。」と書いた。そして,「ポストメモリー論として深めるべきは「第二次世界大戦」の「記憶と沈黙」である。訳者としても,ヒロシマ・ナガサキとフクシマ,大東亜共栄圏と地域コミュニティなど,建築などをめぐって本格的に考えてみようと思う。」とつい筆が滑った。この一行を見逃さなかった編集部から,『記憶と沈黙』をどう読んだのか,ポストメモリーと美術に関する論考への応答」を書くようにとの依頼である。正直,困った。「そのうちに,時間をかけて」という程度の決意だったからである。

 しかし,何らかの応答は必要だと思う。歴史、記憶,ポストメモリー,そして沈黙という概念をもとに、日本の近い過去がいかに抑圧され,沈黙させられてきたかを問い,「第二次世界大戦」をテーマとするアーティストの作品(実践)の意味を明らかにする『記憶と沈黙』の議論は,今日の名古屋トリエンナーレの「表現の不自由展」をめぐる議論にそのまま接続している。『記憶と沈黙』は,国家権力による「歴史」の隠蔽,「記憶」の抑圧とコントロール,「沈黙」化を鋭く指摘するが,それは「慰安婦問題」「徴用工問題」などまさに現在起こっていることである。とりわけ,安倍政権誕生以降,意識的戦略的な、「歴史」の操作(歴史修正主義),「記憶」の抹殺,「暗黙の強制」(忖度),水面下の「検閲」は、ますますエスカレートしつつあるのである。

 日本国家が隠蔽し,抑圧し,コントロールしようとするのは「15年戦争期」の「歴史」とその「記憶」である。その「手法」は,情報伝達技術の発達によるメディア環境の変化によって,より巧妙に,より複雑に不可視化されているけれど,「15年戦争期」の暴力的で露骨な「手法」と基本的には同じである。権力(「特高」(1928))による言論弾圧、検閲、過酷な尋問、そしてその監視網を支えたのは、身近なコミュニティにおける密告、相互監視のシステムである。ここでは,その総力戦体制=大政翼賛体制を支えた「町内会」と「隣組」の「歴史」と「記憶」について考えてみたい。『記憶と沈黙』の「自己と他人が融合なく共存する 母体としてのポストメモリー」という規定と『都市美』創刊第1号の特集「コミュニティ権―国家権力に対抗する権力」に触発されてのことである。

 

 1 「第二次世界大戦」の記憶―ポストメモリーとメタメモリー

 戦後生まれの筆者もまた「第二次世界大戦」を知らない。父母や祖父母の体験を通じて断片的な情報を知るに過ぎない。ただ,1979年以降,東南アジア各地を歩いてきて,しばしば,「第二次世界大戦」の「記憶」に出会ってきた。ジャワの山中でインタビュー中の農夫が「ラジオ体操」を演じて見せてくれたり,ベチャ(輪タク,リキシャー)の運転手が突然「海ゆかば」[i]を歌い出したり,日本人だというと「勤労奉仕」とか「憲兵隊」という漢字を書いてみせられたりした経験がある。「歴史」の「記憶」を突きつけられれば,当然,「歴史」について学ぶ。つい最近も,台風ヨランダで大きな被害を受けたレイテ島に復興支援に出掛けた際に(2015),再上陸するマッカーサー司令官たちの銅像(図A)を見て,否応なく「第二次世界大戦」の最終局面を思った。そして,大岡昇平の『レイテ戦記』(1971)を読んだ。「ポストメモリー」とは,さまざまな媒体を通して「追体験」することで,その記憶を自らのものとして獲得し,内面化してゆくことによって生成する記憶である(谷尾晶子『記憶と沈黙』)。

 図A レイテ島タクロバンの海岸に設置されたマッカーサー再上陸の銅像。筆者撮影 

 ヤマトホテル

 この40年間、筆者が臨地調査のフィールドにしてきたのは,スラバヤ(東ジャワ)の「カンポンkampung(都市村落)」(後述)である。ジャワ占領の口火をきったのは,スラバヤ沖海戦(1945226日)である。スラバヤを第48師団が攻略したのは,日本軍がジャワ全島を制圧する前日(38日)である。スラバヤには第16軍第14独立守備隊(4個独立守備大隊)が配備された。街のここそこに日本の「記憶」が埋め込まれている。

 クンバン・ジュプンKembang Jepunという名のジャラン(通り)がある。「日本の花」という意味である。かつて,歓楽街として,居酒屋,料理屋が建ち並び,床屋,行商人,街娼が溢れた通りである[ii]日本占領期には,日本領事館と三井物産,三菱商事,東洋綿花など主要な日本企業のオフィスが並んでいた。繁華街のトゥンジュンガン通り(図B)には、千代田百貨店[iii]、三星商店,トミ時計店などがあった。オラニエホテル[iv]はヤマトホテルとなり、向かいの電力会社ビルには海軍本部が置かれた。ヤマトホテルはインドネシア独立の発火点となる「国旗掲揚事件」が起こったのがヤマトホテルである。マジャパヒトホテルと名を変えたそのホテルのロビーには、オランダ国旗(三色旗)の青の部分を引きちぎってインドネシアの紅白旗としたその時の情景を描いた大きな油絵と写真が今も掲げられている(図C①②)。1945917日のその事件はインドネシアで広く記憶されている。

B 1930年代のトゥンジュンガン通り :Diessen, J.R. van (2004) , “Soerabaja 1900 - 1950. Havens, marine, stadsbeeld / Port, Navy, Townscape”, Asia Maio


C ヤマトホテルの「国旗掲揚事件」を描いた絵と写真 :筆者撮影 

 クロノポリティックス

 戦争の記憶は,占領した国と占領された国,戦勝国と敗戦国では異なる。アメリカにとって「第二次世界大戦」は,「パール・ハーバー」に始まり「ヒロシマ・ナガサキ」に終わる「悪に対する正義」の戦いである。「第二次世界大戦」はナチスのポーランド侵攻(193991日)に始まるが,それぞれ開戦日と名称は異なる。ソ連ではナチス侵攻(1941622日)を開戦日として「大祖国戦争」と呼ぶが,フィンランドでは「継続戦争」と呼ぶ。日本では,1931年の満州事変以降を「一五年戦争」期とし,1937年以降を「日中戦争」,真珠湾攻撃以降を「大東亜戦争」あるいは「太平洋戦争」とするが,中国は「抗日戦争」(2015年以降「世界反ファシズム戦争」)である。

 キャロル・グラック[v]2019)は,「第二次世界大戦」は,「戦争のヘプタゴン(七角形)」という複雑な「グローバルな幾何学」によって争われたという。「ヘプタゴン」とは,独,米,英,ソ連,中国,日本,そして東南アジアの欧米植民地諸国である。それぞれの国は、それぞれのストーリーによって「共通の記憶」すなわちネイション(国家,国民)の物語を形成してきた。キャロル・グラックが,「戦争の記憶」が作られる4つの領域として挙げるのは,①オフィシャルな領域(国立博物館,教科書),②ポピュラーな領域(写真/映画/テレビ/IT,大衆文化,記憶の活動家Memory Activist),③個人の記憶,④メタメモリー(記憶についての論争,クロノポリティクス)である。そして、「戦争の記憶」、そのネイションの物語は変化しうる、という。日本における歴史修正主義者による「自虐史観」批判がその例である。日本では,「国民は指導者のせいで被害者になった,国民は悲劇的な戦争に巻き込まれたのであって責任はない」というのが一つのストーリーである。しかし,そこには,戦争に反対したひともいたという話も,国のために戦って死んだ兵士の話も抜け落ちている、一国の中でさえ「一つのストーリー」はあり得ないと、キャロル・グラックはいう。ネイションの物語は,国内で問題となるだけでなく,国家間ではさらに大きな問題となる。「歴史認識」の違いは論争を生み、しばしば政治問題化する。ますます混迷を深める今日の日韓問題がそれを示している。ホロコースト・アウシュビッツ,ヒロシマ・ナガサキは,人類史を左右する,世界共通のトランス・ナショナルな記憶である。しかし,勝者と敗者の物語(「白黒物語」(キャロル・グラック))は揺らぐことはない。アメリカのいいなりの戦後日本がそれを示している(白井聡(2013,2018))。

 「グローバルな幾何学」によって引き起こされた戦争の記憶をめぐるクロノポリティックス,ナショナリズムが衝突するメタメモリーの場所では決着することはない。

 

 マトリックス

 ポストメモリーという記憶の場所は,筆者の理解では、キャロル・グラックが記憶の領域としてあげる①~④によって形成されるナショナルな記憶の上層、すなわちメタメモリー(クロノポリティックス)のレヴェルではなく,その深層すなわちナショナリズムに回収されないレヴェルに設定される。『記憶と沈黙』は,ポストメモリーとともに「マトリックス(母体)」(ブラチャ・リヒテンベルク・エッティンゲル)という概念に注目している。「マトリックス」とは,「自己と他者が融合せずに共存する象徴的な空間」である。そこで「共に出現する「私」と未知の「私」の間の出会いが起こる」場所であり、「それぞれが他人を同化も拒絶もせず,彼らのエネルギーは融合でも反発でもなく,連帯あるいは近接の範囲内での距離の継続的な再調整」を行う場である。ポストメモリーという記憶の場所は、「マトリックス」であることにおいて「世界共通の記憶の場所」となりうるのである。

 

 2 大東亜共栄圏と隣組

 「大東亜共栄圏」という用語が初めて公表されるのは,松岡洋右(18801946)外務大臣の談話である(1940年の81日)。一般に流布していたのは「東亜新秩序」という言葉である。松岡が「大東亜共栄圏」構想を打ち上げた裏には,日独伊三国同盟締結(同年927日)に先だって,ドイツ勝利を想定した戦後の講和会議において,ドイツによる植民地再編の対象から東南アジア地域を除外させるねらいがあったとされる(河西晃佑(2012,2016))。「大東亜共栄圏」は、当初、何の実体もない「想像の共同体」(B.アンダーソン)にすぎなかった。

 

 「八紘一宇」「亜細亜解放」

 「大東亜共栄圏」とは,中核に東亜共栄圏(「日満支」)を置き,それを東南アジアの英仏蘭の植民地(泰を除く)へ拡大結合するというものである(「帝国外交方針要綱」(同年928日)[vi]。注目すべきは仏印,蘭印の独立が想定されていたことである。もちろん,松岡洋右のいう南方独立は,「「手段としての独立」(独立を支援した後保護国として組み込む)であって,欧米の植民地支配からの「解放」を目的としたわけではない。しかし、「大東亜共栄圏」は,以降,公式の用語として,政策文書などに頻繁に用いられる。そして,「八紘一宇」「亜細亜解放」といったスローガンとともに,新聞や総合雑誌などのメディアで盛んに取り上げられることになる。

 空疎(不明)で根拠を持たない構想のみの「大東亜共栄圏」は,総力戦体制(国家総動員法(1939年))=大政翼賛体制(大政翼賛会(1940年))によって遂行された「大東亜戦争」の過程で「日本占領」という過酷な実体が付与されていくことになった。

 

 相互監視システムとしての隣組

 「大東亜共栄圏」という「想像の共同体」を実現するための「大東亜戦争」の総力戦体制=大政翼賛体制を支える社会の基礎単位として整備されたのが,町内会,部落会,そして隣組である。町内会,部落会が日本各地で整備され始めるのは日中戦争開戦(1937)頃からであるが,公的な隣保制度として位置づけられるのは,19409月の内務大臣訓令第17号「部落会町内会等整備ニ関スル」によってである。住民を基礎とする地域的組織として,また市町村の補助的下部組織として,市街地には町内会,村落には部落会を組織する,また,従属組織として10戸前後を単位として隣保班(隣組)を置くというものである。1943年には,法改正が行われ,市区町村長は,町内会,部落会及びその連合会の長に事務の一部を援助させることができるとされ,市区町村の従属組織となる。この訓令第17号は「隣組強化法」ともいわれるが,隣組を単位として,住民動員,物資の供出,統制物の配給,防空活動などを行わせる一方,思想統制や相互監視を行うものであった。

 

 五人組制度

 戦後,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、この隣組制度は、総力戦体制,体制翼賛体制を支えた「支配と強制」の装置となったという理由で禁止される(ポツダム政令第15号、1947年)。その際にGHQがまとめた『日本における隣保制度―隣組の予備的研究』[vii]1948)の分析は実に興味深い。日本の社会が血縁的な紐帯から徐々に解放され,非血縁的で地縁的な集団,すなわち隣保組織が発展してくるが,そのプロトタイプとなるのは「結」と「講」である。大宝律令・養老律令の規定する五人組制度は,1.相互扶助機能,2.連帯責任機能,3.秩序維持(命令伝達)の3つを機能とした。五人組制度は,平安時代半ばには消滅するが,室町時代末期から江戸時代初期にかけて幕藩体制を維持する制度として復活し,全国津々浦々に浸透していく。幕藩体制の五人組は,日常生活のほとんど全ての領域を覆い,1.公序良俗の維持,2.宗教の統制,3.年貢納入の保証,4.勤勉貯蓄の奨励,5.相互扶助,6.道徳教育の機能をもった。 明治維新によって,この隣保組織は,戸籍制度の法制化(1872),市制・町村制の施行(1888)などによって解体されるが,日露戦争(190405)頃から五人組復活の動きが現れ,昭和恐慌後の農村経済攻勢運動,そして日中戦争勃発とともに,戦時体制に組み込まれることになるのである(吉原直樹(2000))。

 共同体をめぐっては,『都市美』創刊第1号の特集が示すように多くの議論が積み重ねられてきている。確認すべきは,基本的に,共同体が内部構成員の保護(相互扶助機能)と内部構成員の統制(支配強制機能)の二重の機能をもっていることである。

 

 3 「大東亜建設記念造営計画」とKIP

 

  大東亜建築様式と建築新体制

第二次世界大戦と建築」,15年戦争期における建築と建築家については,同時代建築研究会編(1981)『一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室)や「運動としての建築―昭和建築についての覚書」(『建築文化』197511月号)「国家とポスト・モダニズム」(『建築文化』19844月号)(『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』(彰国社,1998)所収)といった論考で,「戦前戦後の連続非連続」の問題を中心にそれなりに考えてきた。詳細はそれらに譲るが、一般的に議論されてきたのは,日本ファシズム様式としての「帝冠(併合)様式」(下田菊太郎)あるいは「大東亜建築様式」の問題であり,象徴的に問題とされてきたのは,丹下健三の「大東亜建設記念造営計画」(1942)(図D)である[viii]

D 丹下健三の「大東亜建設記念造営計画」(1942):『建築雑誌』194212月号

 「大東亜共栄圏」構想が,紙の上の構想のままであったとすれば,「大東亜建築様式」をめぐる議論も「空疎」なままで終わったかもしれない。しかし,実際に「大東亜共栄圏」の「建設」という名の下に「大東亜戦争」という「破壊」が行われたのであった。「建築新体制促進同志会」が結成されたのは19409月である。建築界も全体として翼賛体制に巻き込まれた。従軍した建築家,技師も数知れないし,文化工作のために「南方徴用」された建築家たちもいる。しかし,作家・文化人たちの夥しい「回想」に比すると,建築家たちの行動はほとんど明らかにされていない。

 

 カンポンの海

 東南アジアの欧米植民地では,その後の独立戦争,さらには冷戦構造下におけるヴェトナム戦争など混乱が続いた。スラバヤは,シンガポール,マニラとともに徹底的な破壊を受けた数少ない東南アジアの都市である。インドネシアでは,日本の敗戦から独立戦争,さらに930事件(1965)へ,混乱が続いた。加えて,爆発的な人口増加があり,ジャカルタ,スラバヤといった大都市は,農村から大量に流入してくる人々が形成するカンポン(都市村落)で埋め尽くされることになった。1930年代の都市基盤のままであり,上下水道や電気の供給もないカンポンの居住環境は劣悪そのままに放置されてきた。そうした中で,カンポンの住民たちは,自主的に自分たちの居住環境を改善する試みを始める。そして,それを自治体が支援する動きが開始される。カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)と呼ばれる。

 このKIPは,基本的には,自治体は,上下水道を整備し,歩道を舗装し,公共トイレを設置するなど最小限の住環境整備をするだけで,住宅の建設は居住者に委せ,清掃,ゴミの収集,緑化,維持管理はカンポンの自主的な相互扶助活動に委ねるというものである。この自治体ベースで開始されたKIPは,公的な住宅供給が効果をあげないなかで,都市貧困層の生活要求に対する最も成功したアプローチの例として評価され,世銀や国連などの関心を集め,国家的政策にひきあげられていく。

 

 不法占拠地域

 イスラーム圏のすぐれた建築を表彰する第1回アガ・カーンAga Khan賞(1980)を受賞したのがこのKIPである。『カンポンの世界』(布野修司(1991))の冒頭に書いたけれど,この選定にはひとりの日本の高名な建築家が審査員として加わっていた。KIPは,結果的には全員一致で選ばれるのだけれど,その建築家はひとりだけ反対したのだと,いくつかの場所でその時のことを繰り返し述べている。

 「スクオッターというのは,不法占拠地域という意味です。難民とか,職がなくて都会に出てきた人が,その土地が誰に属していようとおかまいなく集団で丘やら原っぱを占拠し,そこに勝手に家を建てることによってできた村や町をいいます。そこには初めは電気もなければ水道もない。それを徐々に改良していって,道もでき,汚い水を流す開渠もでき,水も電気も引いてきて,さらに全体のコミュニティーセンターになるような施設も造る。こうしてできた村の例をいくつか挙げて,これにも賞をやってほしいというわけですよ。建築賞という名前がついているんですから,ある程度の文化性がないと困るんじゃないかと私は主張したんです。」

 カンポンのコミュニティそしてKIPには文化性がないかのような発言をした建築家とは,「大東亜建設記念造営計画」コンペで一等入選した丹下健三そのひとである。

 

 4 開発独裁とRWRT

 

 カンポンとコンパウンド

 「カンポン」は,マレー(インドネシア,マレーシア)語で,「ムラ」を意味する。「カンポン」は一般的に用いられる。「カンポンガン」というと「イナカモン」というニュアンスである。興味深いのは,大都市の居住地もカンポンという言葉が用いられることである。英語には「アーバン・ヴィレッジ」と訳される。C.ギアツ(C. Geertz1965))によれば,「共同体的」性格を色濃く残してきたデサが,都市において再統合されたものがカンポンである[ix]

 「カンポン」の生活を支えているのはゴトン・ロヨンgotong royongであり、ルクンrukunである。ゴトン・ロヨンは相互扶助、ルクンは調和あるいは和合、いずれもジャワ人の最高の価値意識とされる。ゴトン・ロヨンはインドネシアの国家的スローガンである。インドネシアの都市の行政単位クルラハンkelurahan)は,ルクン・ワルガRWrukun warga)-ルクン・タタンガRTrukun tetangga)からなるが、タタンガは「隣人」,ワルガは「住民」である。このカンポンという言葉が英語のコンパウンドの語源だとする有力な説がある[x]。興味深い説については省かざるを得ないが、オックスフォード英語辞典OED[xi]はそう説明している。大英帝国が植民地とした地域では,村落は一般的にコンパウンドと呼ばれる。「カンポン」について考えることは、おそらく、世界中の「ムラ」について考えることになる。示唆的なのは,「強制収容所」のような「囲い地」もコンパウンドと呼ばれることである。

 

 Tonarigumi, Aza, Joukai

 日本軍政下のジャワに,日本の隣保制度が持ち込まれるのは,太平洋戦争末期のことである。全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することが発表されたのは1944111日である。その「隣保制度組織要綱」[xii]には,隣組tonarigumi,字aza,常会joukaiなど日本語がそのまま用いられている。日本の隣保制度(19409月の内務大臣訓令第17号)のほぼコピーである[xiii]「郷土防衛,経済統制等の組織および実践単位とし,地方行政下部組織として軍政の浸透を計るものもので,ジャワ古来の隣保相互扶助の精神(ゴトン・ロヨン)に基き住民の互助共済その他の共同任務の遂行を期する」ことを目的とし,「デッサ内の全戸を分ち概ね十戸乃至二十戸の戸数を以って一隣組とする,隣組に組長を置くがその選任は実践的人物を第一とする,隣組は毎月一回以上の常会を開く。さらに字(カンポン)に字常会を設け毎月一回以上の常会を開く,字常会は字長および隣組長その他字内の有識者をもって構成する」というのである[xiv]

 太平洋戦争末期,わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在のRW/RTの起源である。しかし,その隣組制度が今日にまで存続しているのは何故なのか。現在のRW/RTは,戦時体制下のそれと同じものと存続してきているのか。一方,日本の隣組-町内会制度は,戦後改革の過程で,果たして解体されたのか。戦後も存続してきた町内会と戦時体制下のそれとはどう違うのか。

 インドネシアにおいて隣組が辿った経緯は以下のようである(Sullivan, John(1992))。 日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字は,ルクン・カンポンルクン・カンポンRKとして存続する。RKは,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たす隣保組織として存続するのである。ただ,RT,RKは社会組織として政府の援助と保護を受け,政府を補助するがインフォーマルであった。1960年にRT/RWに関する地方行政法が施行されるが,そこでも,RT/RKは,政府や政党からは独立した住民組織とされた。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の「新体制」においてである。

 

 930事件

 大統領に就任したスハルトは,外交方針を親米・親マレーシア・反共路線に転換し,インドネシアを国連に復帰させるとともに,東南アジア諸国連合ASEANを創設し(1967),事務局をジャカルタに置いて,近隣諸国との協調路線を採る。一方,内に対しては,強権的な独裁体制を敷く。ムシャワラ(話合い)とムファカット(全会一致)をモットーとする「パンチャシラ民主主義」は,スハルトの開発独裁を支える巧妙な仕組みに結びついていた。民主主義をうたいながら,ゴルカルGolkar(ゴロンガン・カリヤ Golongan Karya職能集団)[xv]という政府が支援する大政翼賛的な以外には,2つの野党(インドネシア民主党と開発統一党)しか許可しなかった。9.30事件の大量虐殺の「記憶」[xvi]を背景として,東チモール,アチェなどの独立運動を軍によって制圧し,民主化運動の活動家を拉致,換金,拷問,虐殺してきた。また,体制に批判的なマスコミについても徹底的に弾圧を行った。

 スハルトの「新体制」において,RT/RKは次第に独立性を失っていくが,制度上の画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。ルクン・ワルガが導入されたのはこの時である。そして、1983年の内務大臣決定によってRT/RWは,完全に国家体制の機関として組み込まれることになる。 

 RTが独立後も自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,開発独裁体制の成立過程で,RW/RTは国家体制の中に組み込まれることになる。生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンと化した「カンポン」の隣保組織の特性は,内部に対する相互扶助規制と外部に対する内部統制の共同体の二重規制そのものである。

 強力な政権基盤を維持することによって,スハルトは,630年の長きにわたって大統領の座に留まることになる。その間,工業化を推進し,経済発展をもたらすことに成功するが,政権の長期化とともに腐敗が堆積し崩壊する(19985月)。

 こうして,「町内会」「隣組」が総力戦体制に組み込まれ、崩壊していく過程は,開発独裁が成立し、崩壊していく過程として、繰り返されたのである。

 

 おわりに 

  山本理顕さんの『権力の空間/空間の権力 個人と国家の<あいだ>を設計せよ』(2010)『地域社会権モデル』(2015)そして「コミュニティ権」の提唱(『都市美』創刊1号)には,かねてから共感してきた。『裸の建築家-タウンアーキテクト論』(2000)を書いて,「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」や「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」を立ち上げ,それなりに実験的試みも行ってきた。理顕さんとは,国交省の「コミュニティ・アーキテクト制」に関わる施策立案に一緒に関わったこともある。

 根底で問われているのは,日本において「地域」とは何か,「コミュニティ」とは何か,である。すなわち,国家と個人の間に「地域社会圏」「コミュニティ権」を確立するその集団的主体をどう構築するか,どこに可能性を見出すか,ということである。

 戦後,GHQによって解体された「町内会」は,サンフランシスコ講和条約の締結による「ポツダム政令15号」の失効によって復活する。その後の日本の「町内会」をめぐる議論には深入りできないが,戦前戦後で「断絶」したという評価がある一方基本的役割は「連続」しているという評価がある。一般的に指摘されるのは「町内会」の空洞化であり,地域社会の衰退である。阪神淡路大震災以降,特定非営利活動促進法(1998年3月)の成立もあって,NPOやボランタリー・アソシエーションが様々な活動を展開し地方自治体に対しても一定の役割を果たしつつある。いずれにせよ,期待されるのは「ナショナリズム」「排外主義」を強いる「国家権力」の「下位組織」として回収されない「地域共同体(コミュニティ)」(地域社会圏,Local Republic,・・・)を再構築する様々な試みである。


E リスマ市長とクリーン&グリーンKIP運動 筆者撮影

 スラバヤのカンポンとKIPについては紙数を割けなかったけれど,実に生き生きとしたまちづくりが行われている。率いるのは,トゥリ・リスマハリーニTri Rismaharini1961年生まれ,在職:2010-20152016-)(図E)である。トゥリ・リスマハリーニ市長,愛称リスマは,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,筆者が長年共同してきたJ.シラス(1936~)[xvii]の弟子である。リスマ市長は,20109月に就任すると,地域密着型経済の実現,環境に優しい活気のある都市(クリーン&グリーン・カンポン)を宣言,積極的な施策を展開してきた。興味深いのは,31すべてのクチャマタン(地区)で様々なセミナーを実施し,取り組みに意欲的な市民をファシリテータとして各カンポンに配置,環境コンテストを開催するなど,カンポンの自主的な取り組みを推進していることである。コンポスト、雨水利用の浄化装置の設置、アーバーン・ファーミングと呼ぶ緑化、廃棄物利用のドレス、玩具の製作、・・・日本でもすぐにでも取り組みたいアイディアがある(図F①②③④)。



F コンポスト 雨水浄化 緑化 リサイクル

 国家の制度に回収されない、自律的なコミュニティを確立していくためには,国境を越えた経験交流を基礎にしたネットワーク構築がひとつの大きな力になる。フォーチュン』誌(20153月)は,「世界の最も偉大な指導者50人」挙げる中で,「直面している問題について正直に語り,市民を鼓舞する市長」として、米ミシガン州デトロイト市で財政破綻からの立て直しを図るマイク・ダガン市長とともにリスマ市長を24位に選んでいる。

参照文献

安達宏昭(2002)『戦前期日本と東南アジアー資源獲得の視点からー』吉川弘文館

安達宏昭(2012)『「大東亜共栄圏」の経済構想―圏内産業と大東亜建設審議会―』吉川弘文館

B.アンダーソン(1987)『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳,Libro

大塚久雄(1955)『共同体の基礎理論』

河西晃佑(2012)『帝国日本の拡張と崩壊「大東亜共栄圏」への歴史的展開』法政大学出版局

河西晃佑(2016)『大東亜共栄圏 帝国日本の南方体験』講談社選書メチエ

倉沢愛子(2012)『資源の戦争 「大東亜共栄圏」の人流・物流』岩波書店

キャロル・グラック(2019)『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義―学生との対話―』(講談社現代新書)

白井聡(2013)『永続敗戦論 戦後日本の核心』太田出版

白井聡(2018)『国体論 菊と星条旗』集英社

吉原直樹(2000)『アジアの地域住民組織』お茶の水書房

布野修司(1991)『カンポンの世界』パルコ出版

Geertz, Clifford1965, “The Social History of an Indonesian Town", M.I.T. Press

Sullivan, John(1992), “Local Government and Community in Jawa: An Urban Case Study”, Oxford University Press

 



[i] 信時清作曲。歌詞「海行かば,水漬く屍,山行かば,草生す屍,大君の辺にしこそ死なめ,かへりみはせじ,長閑には死なじ」は,大伴家持の長歌(『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」)から採られている。政府が,1937年の国民精神総動員強調週間を制定した際にそのテーマ曲としてNHKが製作した。「太平洋戦争」開戦後は,大本営発表が「玉砕」を伝える際に冒頭曲として流された。

[ii] 日本人が「南方」あるいは「南洋」と呼ばれた東南アジア各地に移住を始めたのは明治初期のことであり,最初は「からゆきさん」と呼ばれた女性たちの渡航があり,その女性たちの周辺で雑業(料理屋・貸席,理髪・髪結い,呉服,雑貨,売薬業など)を営む人びとの渡航が続いた。

[iii] スカルノのインドネシア独立宣言起草(1945)に前田精海軍少将とともに立ち会うことになる西嶋重忠が、一高時代に「左翼文献を読んだだけで」「特高」に逮捕され(1930)、ジャワに渡って(1937)最初に務めたのが千代田百貨店である。

[iv] オラニエ・ホテルは,1910年に,ルーカス・マーティン・サーキーズLucas Martin Sarkiesによって建てられた。イラン出身のアルメニア人であるサーキーズ4兄弟(図SF4㉘)(マーティン,アリエフArief)の長男マーティンの次男である[iv]。一族は東南アジアのホテル王として知られるようになるが,次男ティグランTigranがペナンのE&OホテルThe Eastern & Oriental Hotel1880),長男マーティンはシンガポールのラッフルズホテル(1887年),三男アラスクAraskはビルマのストランド・ホテルThe Strand1901年)を建設している。

[v] キャロル・グラックCarol N. Gluck1941年シカゴ生まれ。日本近代史専攻の歴史学者。コロンビア大学ジョージ・サンソム講座教授。1977年,博士号取得(コロンビア大学)。Japan's modern myths: ideology in the late Meiji period, Princeton University Press, 1985.『歴史で考える』(梅崎透訳,岩波書店, 2007),姜尚中,テッサ・モーリ・スズキ,比根屋照夫,岩崎奈緒子,タカシ・フジタニ, ハリー・ハルトゥーニアン『日本はどこへ行くのか(日本の歴史25)』講談社,2003年,講談社学術文庫, 2010年。

[vi] 大東亜共栄圏の確立/1)日満支三国を中心とし,仏印,蘭印,海峡植民地,英領「マレー」,泰,比律賓,英領「ボルネオ」,ビルマ等を含む地域の政治,経済文化の結合地帯を構成す/(イ)仏印 蘭印 先つ広汎なる経済協定(資源分配,共栄圏内部及外部に対する貿易の調整,為替及通貨協定等を含む)の締結に付努力するとともに独立の承認相互援助条約締結等政治的提携を策す/(ロ)秦 政治経済軍事に亘り相互援助提携強化を計る/2)共栄圏外に属する諸国に対しては我共栄圏建設を認め之に協力する様あらゆる工作を為す。

[vii] GHQ/SCAP, CIE, A Preliminary Study of the Neighborhood Associations of Japan, AR-301-05-A-5, 1948。「隣保組織の歴史的背景」(第1章)を幕藩体制下の「五人組」,さらには大宝律令(701年),養老律令(718年)が規定する「五人組制度」まで遡って振り返った上で,「1930年代以降における隣保組織の国家統制」(第2章)そして「東京都の隣保組織」(第3章)を具体的に検証したうえで,「隣保組織の解体」(第4章)を結論づけている。(吉原直樹(2000))。

[viii] 「大東亜建設記念造営計画」そして日本ファシズム様式としての「帝冠(併合)様式」「日本建築様式」という規定をめぐっては,井上章一の批判的提起がある(「ファシズムの空間と象徴」ⅠⅡ『京都大学人文学報』19821983。『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日新書,1995)。この井上の提起については,上に挙げた論考などで議論したから繰り返さないが,その規定について書かれた文書がないから,「帝冠様式」は強制力をもっていたわけではなく,少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではない,と済ますわけにはいかない。戦時体制下で行われた建築競技設計(コンペティション)の多くは「日本建築様式」であること,「日本趣味を旨とする」ことを求めた。日本的表現の問題,国民建築様式の問題が,建築家にファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは,まさに『記憶と沈黙』が問おうとする問題である。井上章一のいうように,「帝冠様式」は,上から与えられた,あるいは強制した様式としてではなく,大衆レヴェルに支えられ,下から生み出された様式すなわち「キッチュ」といっていい。丸山眞男は,ドイツ,イタリアのファシズムが「下からのファシズム」であるのに対して,日本ファシズムは「上からのファシズム」であることを指摘するが,国家権力が下から生み出されたものを体制維持のために利用することはむしろ一般的である。「伝統的」な建築の屋根の形態は,世界中至る所で,民族や地域のアイデンティティのシンボルとして用いられているのである。問題は,「帝冠様式」あるいは「大東亜建築様式」の建築が具体的に建設されていったことであり,その他の建築表現が消えていったことである。建築家が「沈黙化」させられていったことである。ナチスはこの問題もまた決して過去の歴史に属する問題ではない。自治体の景観条例や公共建築のコンペの規定を繰り返し問われている問題である。

[ix] インドネシアでは都市をコタkotaという。サンスクリット語のコタkoetaからの転訛で,元来は城壁に囲まれた場所を意味した。コタ(都市)に対するのはデサdesa(農村)である。デサも,コタ同様,サンスクリット語デシャdeshaに由来し,もともとは「地方」を意味した。

[x] 椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』262000年。

[xi] コンパウンドには通常2つの意味がある。第1義は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」,第2義は,「囲われた場所」である。OED(オックスフォード英語辞典)は,コンパウンド(第2義)は,マレー農村を意味するカンポンがインド英語Anglo-Indian Englishを経て伝わったとしているのである。その意味は,(1)囲い込み(enclosure,囲い込まれた空間,あるいは,(2)村(village),バタヴィアにおける「中国人のカンポン」のような,ある特定の民族(nationality)によって占められた町(town)の地区である。

[xii] 「隣保制度組織要綱」(Azas-azas oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOONo.35-2604))は,隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民相互間の対立摩擦の削除をおこない,民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持,存続をはかるための,行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単一組織」と規定する。要綱(『KANPOONo.35-2604)は,第1条「目的」,第2条「組織」,第3条「活動」,第4条「費用」,第5条「字常会」,第6条「上部組織との関係および監視」,第7条「地区」,第8条「説明その他」,「第9条公地にある字常会および隣組について」からなる(吉原直樹(2000))

[xiii] この詳細については、小林和夫(2000)「インドネシアの住民組織RTRWの淵源―日本占領期ジャワにおける隣組・字常会の導入―」(『総合都市研究』第71号、2000年)がある。

[xiv] 軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。19444月末の調査に拠れば,ジャワ全域の住戸数は8967320戸,隣組数は508745組,字常会数は6477764,832),区の総数は19498であった。隣組は平均17.6戸,区(デサ)は平均33字常会ということになる。隣組はジャワの隅々にまでつくられたことになる。

[xv] その起源はスカルノ政権末期に遡る。スカルノは,政治的安定を欠いた独立後の政局を安定させるべく「指導される民主主義」を唱えてトップダウンの体制を整えるが,インドネシア共産党PKIの組織拡大を警戒した国軍は,PKIに対抗する職業別集団を組織化し,その調整機関として,ゴルカル共同事務局Sekber Golkarを発足させたのがその起源である。スハルトによる新体制とともに,ゴルカルは政権を支持する政治団体となる。政党・ゴルカル法は,各政党の支部組織の設置基準を,首都,一級自治体(州),二級自治体(県)レヴェルの3段階に限定した。そのため,ゴルカル以外の政党は,郡・村レヴェルでの組織浸透をはかることができず,末端のRW,RTレヴェルの住民組織は集票マシーンと化した。

[xvi] 本稿では触れる余裕はなかったのであるが,「9.30事件」(1965年)の「記憶」は「沈黙化」されたままである。倉沢愛子(2014)『9.30世界を震撼させた日』が,時を経て真相に迫る。筆者も,スラバヤのカリ・マス川に当時多数の死体が浮いていたという話を目撃者から聞いたことがある。しかし,その「記憶」は大っぴらに語られることはない。また,インドネシア独立戦争における残留日本人兵の存在とその活動については様々に証言されるが[xvi],日本とインドネシアの「共通の記憶」となりえていない。

 「大東亜共栄圏」における「第二次世界大戦」の「記憶」も脱植民地化を果たして独立した東南アジア諸国でそれぞれ異なっている。ほとんど大きな戦闘を伴うことなく占領されたインドネシアと空爆や激戦で国土を蹂躙されたフィリピンで「反日」感情に差があることは当然である。

[xvii] Johan Silas 1936年~,サマリンダ(カリマンタン)生まれ。バンドン工科大学卒業。1965年スラバヤ工科大学講師,1992年教授,現在,スラバヤ工科大学榮譽教授。この間,国際連合人間居住計画UN-Habitatやアガ・カーン財団など数々の賞を受賞し,世界中の人間居住に関する施策,活動,調査研究に関わるインドネシアの第一人者である。

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