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2021年6月17日木曜日

 新居ヴァサンティ  末吉先生と沖縄の暮らし       

 末吉先生と沖縄の暮らし     新居ヴァサンティ


 初めての日本

末吉先生に1985年、ドーシ事務所で初めて会った。「Okinawa is not Japan.」と言われて、日本の歴史を十分知らない私は驚いたことがあった。インドから初めて出て、新居と一緒に那覇にたどり着いたのは19866月末だった。ムンバイより暑かった。先生のおかげで事務所からすぐ海の向こうの両親と連絡が取れて、無事日本に着いたことを知らせることができた。思い掛けないスピードで、はっきりと会話ができる環境に圧倒される私を見て、

 先生は「This is Japan!」と言って笑った。先生のこの言葉は後々自分の中でよく繰り返したものだった。

 先生に挨拶した後すぐ、私たちは東京へ飛んで一年余り東京の建築設計・コンサルタント事務所でお世話になった。私にとって初めての外国での暮らしだった。日本語、漢字、木造建築、日本の会社や和風空間のしきたりに戸惑いや驚きがたくさんあった。その後、新居と一緒にもう一度沖縄で先生、後藤さんやご家族に三年間、大変お世話になった。沖縄の将来を考えながら建築を通して地域と人々のアイデンティティの意識を高める先生の地域つくりに感銘する。地域に向き合い、建築家の役割を考えるという姿勢は、私にとって貴重な経験だった。日本に暮らすアジア人として、沖縄での暮らしは自分のルーツを探るきっかけにもなった。

 

建築ジャーナリスト平良敬一さんと末吉先生。私がいた時の事務所

1989年、北田英治さん撮影

 

 先生の言葉が漢字勉強を後押し

毎日、東京の通勤時間の片道50分は日本語を勉強し、事務所の会話で言葉を耳になら

せ、帰りに英字新聞を読み、家でテレビのニュースを日本語で見ていた。この繰り返し

で日本語の会話を自流で学んだが、2000字の漢字勉強の恐ろしい壁をこえる意欲はわかなかった。

又吉家のプロジェクトを訳してインドの建築雑誌に紹介された。それ以外に石嶺中学校

に関しての文章を翻訳する時も先生の言葉の力に感動して、それが漢字の勉強     から逃げていた私の後押しとなった。全然足りないが、その頃の毎日一時間の漢字勉強が今までの生活の支えになっている。

ジェスチャーいっぱいの先生のビビッドな言葉や面白い話の中の知らない単語を必死に書き込んで、後で調べると単語が増え、建築、日本や社会文化のいろいろな要素の理解や矛盾を深めることができた。英語で翻訳されていた日本文学も紹介していただいたのが大変ありがたかった。

深く印象に残った「1フィート」の映画も知り合いのインドの映画監督夫婦パトワルダ

 
1フィート映画」をインドに送った時の沖縄の新聞記事

ンさんに送ったことがあった。インドの映画の図書館に保管されています。先生の時々優しくないユーモアが、「自分」を自覚し、活かす大切さも意識させられた。沖縄に行く途中で会った先輩の伊東さんの励ましによって理解ができたと思い、感謝している。

先生は私にインドのことを「なんでやん?」と、いろいろ聞いてくれた。はっきりした答えがほとんど持っていなかった私は機会を見つけて、十分ではないが、母国のことを勉強してきた。ヴァラナシ―や仏教遺産も見てきた。子供にインドのことを伝えることでその意識はもう一歩深まった。長男は東工大で建築を学び、インドのジャイプルをテーマに修士設計した。今はインドのプロジェクトをすることを目指して、日建設計でグローバルデザイン部に務めている。次男は東京外大国際社会学部で南アジアを専攻したことで、インドの現在情報に触れることができる。先生の視野の影響が二世代以上にわたっていると思う。

子供二人と四人で2013年に沖縄を訪ねた時、新居は途中で徳島の現場に戻ることになった。先生は私が運転するレンタカーに乗ってくれなかったので、自分で子供とひめゆりの塔などを回ったが、説明は十分できなかった。その後次男は高校修学旅行で、もう一度沖縄へ訪ねる機会ができた。「一回訪ねただけで沖縄のことが全く理解できなかった。二回目でなんとかなった。」と言ってくれた。

1997年に先生と伊東さんが徳島を訪ねてくれた時


 2013年に那覇の学校を案内して頂いた先生、長男壮真、次男宇大と

 

 自身のルーツを意識

南インドのケーララ州出身の私は転勤家族だった為、ケーララに暮らす機会がなかった。沖縄での暮らしは貴重で、自分のルーツを探る良いきっかけになった。母はヴァスコダガマがインドに入った町、コジコード出身だ。夏休みに祖父を訪ねた時、道路に並ぶ高級住宅の高い壁の両側又は鉄扉に不思議なイギリス風のライオンを沢山見かけたことがあった。

沖縄のシーサのことを調べると歴史的な繋がりが見えてきた。仏教の教えを広げるためにアショーカ王がインドのいろいろな地域に建てた石柱とその上に座る獅子(サンスクリト語で「シンハ」)を作るためにペルシアから石職人を呼びよせたそうだ。日本の神社にも

見かける門の両側に立つ獅子、一頭は口を開けてサンスクリト語の最初の母音「あ」を言い、

写真52001年にコジコードで必死に探して見つけた屋上の獅子

 

もう一頭が口を閉じてサンスクリト語の最後の母音の「アム」を言っている。門でお釈迦の教えすべてを語り、内部を守っている現しだと。その後コジコードの町を訪ねた時、屋根のシーサを子供と一緒に見つけた。

 沖縄のいくつかの方言で母を「アッマ」と呼ぶと先生に教えられた。自分の母を「アッマ」と呼んでいるので、びっくりしたことがあった。学習院大学の大野晋先生によると昔、稲作と一緒に南インドのタミル語が日本に渡ってきたそうだ。沖縄の方言に昔の日本語が結構残っているから「アッマ」の言葉もあると先生に教えられた。

ケーララ州に船の競争の「ハーリ」と同じ行事が毎年8月頃に行われる。向うの船は蛇の形に飾られていて、沖縄の方は竜で、文化の違いが現わされて面白い。私がこのような繋がりを見つけることを先生が「バッチャのジャパジャパジャポロジー」と笑っていた。あるいきさつで私は「バッチャ」と呼ばれるようになっていた。覚えにくい上に言いにくい名前だが、職人の集まりに新居と私は、「兄さん(新居)、ばあさん(ヴァサンティ)、皆家族やん!」と場面を盛り上げた先生の機転に驚かされたことがあった。

ケーララにはガジュマル、ハイビスカス、水牛や芭蕉布もあり、苦瓜、冬瓜や4時の花が懐かしかった。沖縄の暖かい気候と優しい人になじみ、思い掛けなくタクシーの運転手に与那原出身の人と間違えられたこともあった。

 

 沖縄の暮らしがインドから徳島への心準備に

インドの生活から引き継いだ「人間は大きいな自然循環の一部だ」という環境意識は那覇

 

8月頃に行うケーララ州の船の競争が(写真上)沖縄の「ハーリ」(写真下)に似ている。

 の暮らしで深めることができた。先生が柳川へ見学に行く予定が、与儀のお母様がなくなられたことによって、代わりに新居と私が行くことになった。貴重な機会を得させて頂いた。柳川で石井式合併浄化槽と設計をされた石井勲先生に出会った。その後、那覇で久茂地川を活かす活動の一部として、スタジオジブリの最初の映画「柳川」も見ることができた。川を中心とする地域づくりの物語に大変感動した。

徳島で石井式合併浄化槽の設置を自分達の家から始め、設計した六軒の住宅で使わせていただいた。道路を通りかかる人も含め、浄化槽の再生水で沢山の人々を喜ばせるビオトープも自宅以外4軒に実現できた。これが徳島の吉野川の可動堰建設反対の活動につながった。林業、漁業、農業、酪農に関わっている地域の住民から具体的に学んだ自然の循環的仕組みや働きを私たちの設計に取り込む要素にし、住まい手が生活や庭空間から地域までその意識や感性を育てるような努力を続けている。

琉球新報に順番で書いていた新聞の記事に新居が川の話、私は樹木の話を書いた。今、両方の課題が私たちの仕事の原点となった。地域の木材を活かす大切さが伝統木造の循環的な知恵からダイナミックな軸組の理解まで道を広げた。地域に根差した、身心から再生できる木造空間を作り続けたいと思う。再生住宅の「丈六の家」を完成した時、日本建築士会連合会の「建築士」に書いた記事を先生に送った。電話で先生はその方向で続けるようにと、私達にとっては大変励まされる言葉を頂いたことを今も覚えている。

 

「デザインする」とはどういうことか?

日本建築学会の四国支部徳島支所長であった新居が2010年に徳島でシンポジウム「Back to the future from Asia-アジアの視座から地域建築の将来を照らす」を催した。末吉先生が皆さんに大変印象的な講演をして頂いた。その時、高校生の長男の壮真が先生に車のデザインを学びたいと相談したことがあった。「車の時代が終わった。」と一言で済ませた返事にショックを受けた。壮真は今建築の道を楽しんで歩んでいる。その講演会で先生は自分が「ウキウキした建築空間を作りたくない。考えるための静かな空間を作りたい。」と言ってくださった。


           日本建築学会のイベントのポスター、表と裏

  その言葉が気になっていた。2014年に新居がJIA四国・中国支部環境×建築連続セミナー実行委員会委員長として環境セミナーシリーズを催したことがある。沖縄と北海道地域の気候によっての建築事情を四国の建築家に披露する機会ができた。先生が四国を訪ねた時、私がデザインするとはどう言うことかと尋ねることができた。「ちょうど時が来ると全部わかるようになる。それには執念が必要だ。」と先生が答えた。

インドで牛や樹木と身近な暮らしだったが、那覇の末吉事務所で猫と共同生活はその状況をもっと肉体的に経験できた。今徳島で親が残してくれた庭を整理しながら修景している。指導して頂いている福岡の84歳の元気な庭師の先生から樹木一本一本の存在や生命を意識して、大切に扱わないといけないと教わっている。

最近緑や木材を飾りとしての扱い、物の本質を追及していない流行の建築を見ると先生がその道を避けるように指導するだろうと心から実感する。




写真上:2013JIA四国・中国支部主催セミナーシリーズのイベントポスター、表と裏

写真下:2014JIA四国・中国支部主催のセミナーシリーズのイベントポスター、表と裏

建築は思想である -関大末吉研・インド・沖縄・徳島からの思念            新居照和

 末吉栄三先生遺稿集寄稿文                                             2021/01/18

建築は思想である

-関大末吉研・インド・沖縄・徳島からの思念

                                   新居照和

 末吉先生が突然他界されてから2年が経とうとしています。人生は安易でないからか、師の言説や存在が昨日のように生きています。建築家を天職にすることの先生の励ましによって、その後も人生の師や友人に出会ってきたことを思い起こします。尊い縁をいただいた末吉先生をはじめ多くの師、諸先輩、友人たち、家族に感謝します。同時にそれに対して自身の生きる迫力の不甲斐なさを自覚し、精一杯生かせていただかねばと思うこの頃です。

 

 学ぶ歓びを知る

 高校までは自主的に勉強することに疎遠であった者が、大学入試時に東京に向かう飛行機で不思議な出会い方をした徳島大学の添田喬先生(後に学長になられた)から大学で学ぶ刺激を与えて下さり、学生生活をなんとなくは過ごせなかった。大学三年の頃、友人がいた末吉研究室を訪ねた。

 末吉先生に出会ってから、学ぶことがとても面白くなり、向学心が芽生えた。建築を通して見る世界は広く大きく、時や場所を超えて生きる歓びが共有でき、生きがいのある仕事だという気持ちの高ぶりを持った。建築学科七期生の私たちにとって、末吉研究室の諸先輩は沖縄問題を核に社会問題意識が高く、学び実践活動をされていた。その環境は熱気があった。

 

原初に出会う

 師に出会うということは、師が築かれてきた知が、自身の成長のプロセスで、精神、思考に刻まれること。壁に当たった時、人生の選択、自身の羅針盤を考える時、出会ってきた師の言葉が思い起こされる。

 自身の中に一貫して残っている末吉先生が発してきた「建築は思想だ」という言葉とその姿勢がある。自身の仕事に向き合う時、何を考え、果たしてどれほど考えているのか、そして建築が、空間がどのような思想を発しているのか問わねばなるまい。

 「思想とは」追い込まれた時にどう行動するかに表れると言われていたと思う。困難、壁に向き合った時どの道を選択するか、どの行動を選ぶかと聞かされたように思う。さらに以下の言葉が脳裏に残っている。

・「人は瞬間瞬間を、選択している」 

・「人を観る時、その人の最高のところを評価すること」

・「地域を担うという気構え」

時々自己に問いかけている。

さらに研究室で語られていた言葉を思い出す。

・「深く掘り下げていくほど、裾が広がるものだ」

・「自身の成長に応じて相応の人に出会う。」異性の話だったが、自己を問うことになる。

・「毛沢東の実践論」という著作について触れ、内容は記憶にないが実践の大切さを語る。

 

ユーラシア建築・都市見学の旅

 1978年末吉研究室でユーラシア大陸の建築や都市を見る旅に出ようと盛り上がった。庶民が初めて国外に容易に出られるチャンスを得、世界の様々な建築とその文化は、人類と未来への遺産であるという認識が実感する時代を迎えていた。建築に歩みたいものは見る必要があると、先生が焚付け、元気な研究室の仲間と、23か月から横山君の2年という様々な旅に出た。当時小田実著の「なんでも見てやろう」に励まされていた。

 車が購入できる額、車と比べれば一生の糧になると、なんの躊躇もなく両親に旅費をせびった。あちこち寄るので分厚い航空券とトラベラーズチェックを腹巻きに入れて、行かせてもらった。カメラは先生の推薦で全員ニコンFMだったように思う。

 初の海外、パリに降り立つ。都市や風景、公共交通機関のかっこよさ。市民社会と市民生活意識、ヨーロッパの様々な街や地域の美しい風景、ゴシック、ルネサンスの歴史建築、近代建築遺産等。日本は経済発展し調子に乗った雰囲気が流れる世相に見えて、文化意識のレベルの違いに圧倒された。

 ローマから、エジプトに渡り、西アジアに。トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、そして南アジアへ。ヨーロッパをしのぐその大きな文明遺産に感動した。建築が歴史を語ってくれる。建築の中に見るすごい技術や人間の構想力。世界史が西洋史である矛盾。歴史は、現代文明覇者のストーリーであることを実感した。日本が欧米しか見ていない恥ずかしさも感じた。

 エジプト、西アジアではアメリカ合衆国に対してとても厳しく見ていることを知る。戦車の地響きの音、銃口が向けられる。戒厳令が引かれたイラン革命の真ただ中を、外国人が引き上げている最中、無邪気に入国して行った貴重な経験。アフガニスタン、オアシス都市の破壊された巨大仏跡バーミアン、パキスタン。乾燥しきった陸路でカイバール峠から緑が広がる大地インドに入る。貧困を目の当たりにする。植民地でどれほどまで搾取されてきたかがわかる。インドは豊かな緑の大地であった。首都デリーに着いてから一人旅が始まった。現代的感覚ではなかなか理解できない偉大な建築遺産が横たわっていた。

 日本に近づいたと感じたネパール。カトマンドゥに向かって、満員バスで屋根に乗せられポカラへ山中移動。その日は電気のない山村に泊まる。カトマンドゥで、川岸で死体が焼かれ、川に流される光景。人間は大地の一部だ。ルイス・カーン国会議事堂のバングラデッシュへ、旅行バッグだけがバンコックに行く事故。タイに着いて、3ヶ月あまりの旅を終えて帰国。偉大な大地、都市、土地の風景と建築空間に感動し、文明の大きさ、建築や都市の力、時間を超えた本物の建築を知る。

 当時ゼミで名著ルイス・マンフォードの文明論やギーディオンの近代建築などを読んでいたが、実感できなく難しかった。帰国してから、内容がわかること、わかること。生き生きと想像できるようになった。新聞の世界情勢にも関心が行くようになった喜び感を覚えている。先生の指導のもと、その実経験でヨーロッパ近代建築をテーマにした修士論文「近代建築集合住宅計画思想の研究」を書き上げることができた。今思えば我が身の力では大きなタイトルでナイーブな論文だが、近代建築、さらに現代建築を考える上で、今なお自身の思考の礎になっている。修士課程修了と同時に先生は沖縄に帰られ、私たち同期は関大末吉研最後の学生になった。

 

自立的思考に立つ機会

 旅行前、先生のインド留学の提案に共感し、修士課程修了後インドで学ぼうと決めていた。インドから留学依頼の返事が届かなかったので、末吉先生がこの旅の帰りに、インド・アーメダバードまで一緒に旅してドーシ先生に会ってくださるということで、頼っていた。ところがインドに着くなり、大学に早く帰らなければならないと突然先生は私に別れを告げた。自分一人で留学交渉ができると思っていなかったが、選択の余地はなかった。ドーシ先生が設立した建築学校、アーメダバードのschool of architectureがどこにあるのか、デリーの日本大使館に行って学校探しから始めた。大使館は協力してくれたが見つからず、そこからインド一人旅が始まった。不安だったがアーメダバードに行けばなんとかなると。今から振り返ると、自らの進路を見出していくのは当たり前。しっかりしなければならない出発点であった。ジャイプル、ウダイプルからアーメダバードへ、ドーシ事務所にたどり着いた。夕暮れ多忙なドーシさんに片言の英語で会えた時、今から打ち合わせがあるところに連れて行ってあげると、一緒にリキシャーに乗った。訪ねたお宅はル・コルビュジェが設計したショーダン邸であった。

 

インド留学へ

 末吉研究室でのゼミに夢中になり、週末は先生、同僚とあちこち建築見学をしていた。大学院生であったが、職に就くことは考えられず、学ぶことに興味津々であった。「他大学に進学する選択肢もあるが、建築家になりたいなら、大学の研究室のようなところで型に入って窮屈になるのではなく、海外に出て、原初的経験をすることだ。今の年齢、感性や想像力を養うことが一番大事である」と言われた。

 「日本人は欧米ばかり見ているが、第三世界と言われているところに身を置くこと。幸い費用は欧米留学のようにかからない。痛みを負った非西洋世界の観点から世界を観ること。アジアがいい。日本人はアジアに属しながらアジアを知らない。インドは素晴らしい建築・文化遺産と大きな矛盾を抱える大国。アーメダバードは建築を学ぶにおいてとてもいい環境で、ル・コルビュジェの弟子B.V.ドーシさんがクリエイティブな建築大学を創っている。この都市には20世紀巨匠のル・コルビュジェの4つの作品とルイス・カーンのインド経営大学がある。世界中から建築家や歴史家、学生が訪れている。」

 インドのことはほとんど知らなかったし、言葉も準備していなかったが、とてもワクワクする話であった。その後どのようにして両親を説得したか覚えていないが、修士課程修了後、ビザがなかなか下りず、その間沖縄に帰られた末吉先生の事務所にお世話になって、197911月、アーメダバードの建築大学のキャンパスに立っていた。いつだったか、「建築家は言葉を知らなくても眼さえあれば大丈夫」「美しいと感じた時、なぜそう感じるのかそこから分析し、考えよ」インドに発つ前の先生の言葉が残っている。

 

七年間のインド遊学

 最初の1年は酷暑と苦手な辛い食事で大変だったが、不慣れで言葉は不自由でもインドから学びたいという気持ちが助けたのか、キャンパスで多くの友達ができた。あちこちから人が集まる自由な雰囲気が漂うキャンパスで、教職員も寛容で放任的であった。インドは放置された(手がつけられていない)すごい建築遺産があちこちにあり、学生たちは休暇になれば、学校からバスが出て建築や集落の実測調査に出た。研究生だったので、積極的に参加した。

 近年、突然その頃の友人たちと日本で再会できたり、建築活動のコミュニケーションができるようになった。40年近く経っての再会。当時は日本に国際電話をするには都市の中央郵便局に行ってかけざるをえない遠い国だった。現在インドは著しく経済発展をし、日本との物価格差も相当なくなった。当時18の建築の大学しかなかったのが、都市も拡大し今は500校近くある。ICTの発達で、お世話になった家族の関係者や多くの友人と再会できるようになった。さらに子供同士の二世代交流も始まっている。

 

 留学当初2年ぐらい、わからないことが多くて何もできなかった。しかしいつも刺激的で何かがあると強く感じていた。途中、二度帰国したが、1979年から1986年まで7年間過ごした。一回目はA型肝炎を患い徳島大学病院に数ヶ月入院した。少し回復してから末吉先生を訪ね琉球大学でインド建築のことを喋った。

 

 1年目は建築大学(CEPT)のキャンパスに居て精力的に旅に出た。2年目からはドーシ先生の研究所(SANGATH)に籍を置いた。インドに再入国した4年目からは再びキャンパスで、画家サグラ先生のもとで絵を描き始めた。ドーシ研究所で滞在許可を得ているにもかかわらず、変な日本人だと暖かく見守ってくれた。警察が私の身元を尋ねに来るようになった。2年後キャンパスで個展を開いていただき、新設の大学院美術科(KANORIA CENTER FOR ARTS)に籍をおいた。初代校長はドーシ先生であった。「修了証書に頼らない実力を備える場所だ」と言われていた。 

 

留学中、末吉先生、後藤尚美さんが訪ねて下さる。ルイス・カーン設計のインド経営大学学生寮の前で。


ドーシ先生が開催スピーチをして下さって、キャンパスの視覚芸術センターで作品展を開く。

 

インドの二人の師

 当時のCEPTは大きな樹木の下にあるドーシ先生が設計したシンプルだが素晴らしい理念のある学び舎とキャンパスで、学生数は数百人もいなかった。ドーシ先生を始めルイス・カーンの弟子やドイツのフライオットーのスタッフなど著名な事務所の人も教えていた。ペンシルベニア大学やスイス連邦工科大学など海外からの短期留学生や世界的に著名な建築家や歴史家が時々訪れていた。本で見る歴史批評家のデニス・シャープ、ウイリアム・カーティスやケネス・フランプトンがひょっこりキャンパスに現れていた。そうした環境の中で言葉を操れない一番不自由な私を拾っていただいたのが、キャンパスにいる二人の巨匠、ドーシさんとサグラさんだった。

 お二人はインド独立闘争の目撃者でもあり、その精神を持たれていることを感じていた。ドーシ先生は実質七年間のインド滞在の引受人になってくれた。サグラ先生は親しい友達のように扱ってくれ、師の傍で絵画の創作活動をしながら、様々な事を教えていただき、眼と思考の訓練をした。

 ドーシ先生はインドの現代建築教育の礎を作った一人と言える。ル・コルビュジェとルイス・カーンの師弟関係で身近に接した世界で唯一の生存者かもしれない。インドの文化、伝統や地域性を掘り下げ継承しつつ、独立後の進むべき建築を模索し、地域から国家までのスケールの建築や都市の設計をしていた。2018年、建築のノーベル賞と言われるプリッツカー賞をインドで初めて受賞した。インド帰郷時はよくアーメダバードに寄って家族でドーシ先生宅にお邪魔し、いつも歓待していただいてきた。現在93歳。最近お会いしたのは90歳の時で、お元気で、相変わらず気さくで、目は鋭く、話はハッとさせられる。

 インドに来て2年頃、徳島大学の添田先生がインド国鉄との研究プロジェクトで来印し、親から滞在費を持ってきていただいた。デリーでスリ集団にかかりその金を盗まれてしまった。その事態の重たさに途方に暮れていた時、ドーシ先生は「志を持てば諦めてはいけない。途中で諦めれば、次はその半分で諦める。最後は怖くて何もできなくなる」と諭され、住宅団地の比較研究していた研究所から設計スタジオに移りなさい。研究ビザで給料はいただけなかったが、設計スタッフとして非公式に給料をいただくようになる。バンガロールのインド経営大学やマドヤプラデッシュ州の電力公社の設計に従事させていただいた。そっと住宅の設計案を求められた時は嬉しかった。数年前、緑に覆われ大地に馴染んだ二度目のインド経営大学を訪ね、感慨深く回遊した。



サグラ先生と一緒に毎日絵を描くことに没頭していた。アトリエは、School of architectureのオープン・ベイスメントの教室だった。

  その後、無理がたたったのかA型肝炎を患うことになる。一時帰国して半年後、アーメダバードに帰ってきた。事務所に復帰する前にかねてからインドから訴えてくるものを絵にしようと、旧市街に出て絵を描き始めた。キャンパスでサグラ先生に見ていただいた時から、「もっと描け」とおだてられ、次第と絵を描く手ほどきを受けるようになった。サグラさんはキャンパスのオープン・ベイスメントでいつも絵画に打ち込みながら、ついでに学生たちを教えていた。そこに様々な学生、卒業生、教師、事業家も寄ってきて、サグラさんを囲んでいた。サグラさんはその人たちを私のモデルになってもらい、(その人たちは犠牲になり)「指に脳みそができるほどの枚数を描け」と、楽しい修行が始まった。そこを通りかかったドーシ先生が「Niiは何をしているのか?」となったが、それから暖かく見守ってくれるようになった。サグラさんは、芸術やインドの歴史、社会を語ってくれる一方、「自然から学べ」と常に言っていた。作品だけではなく、迫力と魅力ある人間性、会話も人を惹きつけていたが、ずっと師のそばにいるとその創造への格闘、唸りというか、創作への苦闘を感じていた。その後、一緒にあちこち旅もして、風景を読み、それぞれの土地の自然や建築を観察し、絵にしていった。

 

 ニューデリーの国立現代美術館を訪ねた時、サグラさんの作品の特別コーナーがあった。迫力ある眼と風貌のサグラさんは2014年他界した。以下、思い出されるサグラさんの言葉を列記したい。

・「ピカソの絵をピカソ以上に綺麗に描けても価値がない。人類が作ってきた美術の歴史に新しく1ページを増やすこと。芸術はそこに価値がある」 

・「達していくと次第と孤独になるが、時間や場所を超えた人との会話が始まる」 

・大家族を支え、大変な人生であると語られた時、「Life is hard, but I love life

・ロダンの言葉を引用して、「Live Like a King. Think like God. Work like a Slave.」 

・「考える人間は大都市から離れ、自分の時間を持っている」

・「一生懸命作ったいいキャベツは、都会で売って価値を持つ」

・「ジャンプするには棒が必要。しかしもっと高く飛ぶには棒を離さなければならない。その棒の役割が先生だ。」

 

私たちの結婚

 ヴァサンティとは、彼女がドーシ先生の事務所に就職した1980年頃に出会った。1985年、両親にインドを旅行しないかと誘い、ヴァサンティと一緒に一ヶ月間、4人でインドを旅した。早朝ボンベイに着いた時、両親は目に入るあちこちのスラムにショックを受けたが、半月後は「動物たちも生き生きしているインドは面白い。日本に帰りたくない」と母が微笑んでいた。その足でヴァサンティの親が住むバンガロールに行って、両家が会い結婚をした。

 そこに至るまでには支えてくださった方々と奇遇な縁があった。インドに来て2年ぐらい経った頃、この街で初めて日本人に出会った。東京大学でインド哲学を研究されている船津和幸さんとピアニストの恵美子さんご夫婦が留学で来られた。この土地に馴染むことに精力を使っていたので、お会いした時には日本語がスムーズに出てこなくなっていた。苗字も珍しい(徳島以外では)し、最初は日本人でないと思われていたらしい。その後とても親しくなり、兄姉のようにお世話になって、仲人にもなっていただいた。両親との旅は船津さんのアイデアだが、もう一人の立役者に医学者のラディウム・ダルワディさんがいた。

 キャンパスで知り合っていた写真家ダルワディさんの奥様で、アジアから初の助教授として日本の大学に一年間赴任された。その大学が、徳島大学医学部であった。建設業を廃業して農業をしていた両親は生まれて初めて美しいサリーをまとうラブリーなインド女性に会った。田んぼまで来てくれたそうだ。そこでインド旅行を勧められたのだ。ヴァサンティの家族や親戚は高学歴で、日本大使経験者や欧米にもいて、日本人と結婚するのはさほど抵抗感はなかったらしい。しかし田舎の両親にとってはインドに来るまでは大変なことだったようだ。今思えば、両家の親はすごい。

 アーメダバードで知り合った日本人といえばもう一人、弟分がいる。伊勢崎賢治さんで、早稲田大学吉阪隆正研究室の最後の学生で、スラムでソーシャルワークを学ぼうとアーメダバードにやってきた。タフな彼も最初は夏の酷暑に参っていて、キャンパスで一緒に過ごした。その後、彼はインド最大のスラム、ボンベイのダラビーに入っていった。伊勢崎さんは海外のNGOや国連などを渡り歩き紛争調停人として活躍され、現在、東京外大教授をしている。偶然次男がお世話になることになった。

 

帰国し、日本で生きる

 インドから学ぼうと向き合ってきたが美術科を修了し転機がきた。先に帰国された船津和幸・恵美子さんから、私たち二人を雇ってくださると東京都心にある建築設計・コンサルタント事務所を紹介していただいた。ヴァサンティは日本語を全く知らなかった。船津さんご親族からも親身な暮らし支援をいただいた。深夜終電を降りて行列になるタクシー乗り場に走る日も続いたが、日本で生きていくための、ビジネス地での貴重な経験となった。

 

再び末吉研究室で

 恵まれた師匠に支えられてきたので、自らが建築の道を歩まなければという思いがあった。二人は沖縄の末吉研究室で三年間お世話になる。ヴァサンティには、東京、沖縄、徳島と暮らし、日本を理解するいい経験となった。

当初、末吉先生からは「新居の成果はヴァサンティを連れてきたこと。私たちは難民だ」と揶揄された。インドでは学生身分で、エリート教育環境だったが、日本で実務や社会経験がほとんどない私たちが生きていくのは大変だと覚悟していた。先生の言葉は的を得ていた。

 石嶺中学校が完成したばかりで、沖縄を背負う力作を体験した。現場経験をしたいという焦りはあった。三年間学校建築や集合住宅等、設計従事させていただいたが、現場の縁はなかった。先生が初めて沖縄で住宅設計された頃、「リンゴ箱の板でコンクリート型枠を作る程度の理解しかなかったが、独学で勉強していった。現場の経験をしていなくても勉強すればできる」と言われた。

 印象に残る光景がある。石嶺中学校に森を作ろうと寄贈した苗木に水をやりに、運転手になって先生と二人で通っていた。雨が降りそうな時でも水をやりに行くことに幾分抵抗感をもった。しかし校長先生に会い、現場に立った時、戦争で首里のこの丘(本島全域だが)には樹木が一本もなかった光景が想像でき、想いを感じた。

 末吉先生は昔から「地域で頑張ること」を言われていた。東京での生活後は、意識さえもてば日本のどこでも頑張れると感じていた。一ヶ月受験勉強の休みをいただき一級建築士を取得した後、ヴァサンティは馴染んだ沖縄から新しい地に、私は郷里徳島に帰った。

 

徳島で頑張る

 処女作はアルプスの有明山と関係性を持つ高台の家で、信州大学に赴任した船津ご夫妻とご両親の二世帯住宅だった。寒冷地でかつ木造住宅は初めてだった。先輩の伊東真一さんや構造家北風幸祥さんの支援をいただき、インド留学時代建築家毛綱毅曠さんに知り合い紹介していただいた建設会社の地元下請け工務店さんが他業者の半額までコスト調節していただいて、実現した。施主の期待に応えるためにも、専門誌住宅建築に掲載していただいた。2000年新築2作目からも5作まとめて山や水、地域環境を意識した「循環型の住まいづくり」という40ページの特集を住宅建築が組んでくださった。徳島では全国誌の住宅建築に掲載されたからといって仕事がくるわけではなかったが、ふとしたご縁があって、一作一作妥協せず、師に恥じないよう精一杯頑張らせていただいた。

 その後も専門誌が少なくなる時代まで、少ない仕事数の割には、様々な本に掲載され、応募を積極的にする余裕はなかったが建築賞もいただいた。2009年鹿島出版会から「名作再生住宅」という本が出て、三作紹介された時、時代はスクラップ&ビルトからストックが意識され始めたと感じた。作品受賞は日本建築家協会環境建築賞優秀賞、 日本建築学会作品選集、そしてアルカシア(アジア建築家評議会)建築賞を香港でいただいたのが、印象深い。拙作についてはよろしければ新居建築研究所のHPをご覧ください。

 京都大学にいた布野修司先生が2002年から2年間日本建築学会建築雑誌の編集委員長になられ、編集委員に呼んでいただいた。特集「インドの建築世界」を組ませていただき励みになった。2002年エクスナレッジ社から出た「ル・コルビュジェ」の本に、インドの作品をヴァサンティと15ページ書かせていただいた。

 徳島に住み始めた頃、添田先生宅に夫婦でご挨拶に伺った。「死に物狂いで頑張って、ふつう」と優しく言われたのが印象に残る。

地域で暮らす中で

 地域に根ざし、建築を考えることは、地域の問題、課題に向き合うことで、その向こうに普遍的なテーマが横たわっている。木材生産地である徳島の山の問題、生活排水と地域の水環境を意識した設計への取り組み。地場の木材の生命力とそれを組む架構の力で、地域の風景や時間との関係性をつくり存在感ある生活空間を生み出すことを意識してきた。

 1998年頃から徳島県の吉野川で、長良川河口の可動堰を上回る巨大可動堰のダム建設計画を住民が知るようになった。長良川可動堰を住民有志と見学した時、ヘドロがたまりシジミがいなくなった川と、川に人が近寄れない近代的構造に衝撃を受けた。大河が山と海を繋ぐ自然の循環を阻害される構造に危機感を持ち、多くの有志と川とその自然の仕組み、歴史や文化、河川工学等を勉強し、住民活動をしていくようになった。崇高で稀有なリーダー、姫野雅義さんを中心に疑問を持つ多くの住民・市民が働きかけた吉野川第十堰住民投票が、2000年徳島市で実現した。巨大国家事業に対し歴史上初めて建設にストップがかかった。特筆すべきこの住民運動は、建設反対運動ではなかった。住民が国に情報公開を求め、出来うる限り勉強し、政党色を排し、圧力や障害を越え住民の意思で賛否を決めるものだった。次世代に地域の自然の価値をと、志を継承する若者たちを中心に、川遊びを通じて子どもたちに今なお環境学習を行っている。

 2017年日本建築家協会の全国大会が徳島で開催された。テーマは「建築家と土着」で、防災、環境、AIの3つのシンポジウムが核であった。その環境シンポを担わせていただいた。日本を七地域に分けるとはいえ画一化する国の省エネ法施策に対して、日本の多様性とその可能性があることを地域から発信しようした。吉野川流域の中・上流域に200あまり分布する傾斜地集落の環境の成り立ち調査を事例にし、次世代の環境建築を考えることを求めた。この調査は東工大で建築を学んでいた長男がこの地域の集落に関心を持ち行動していたことから始まった。小さい時から祖父母と田畑にでて遊び、吉野川の川遊び教室に行っていたのが、郷土や自然を思うことにつながっているようで嬉しい。

 

若い世代と接する

 非常勤講師の縁もいただき、四国大学で30年、国立阿南高専で10年続き、若者と接している。台湾の中原大学から3年間、4名の長期インターン生が来た。学生の主体性と国際性に感心した。昨年は京都大学地球環境学舎からインターン院生が来て、問題意識を育んだ。それぞれ2ヶ月程の期間、土着のポテンシャルを活かした教育支援をすると同時に元気をもらった。学生たち、事務所から独立していった四人、時々来る短期インターン生を含め若い世代に接する時、これまで世話になってきた師や友人に対し未熟なりにも恩返しのようなつもりで、様々な興味をもたせ、志を励ませるようつき合ってきた。子育て、会計、設計作業に限らず、スタッフやインターン生と食を共にし、英語が母国語と同じのヴァサンティの力は大きい。若者は彼女の料理を手伝い、自宅や地場の食材を使う料理を楽しむようにしている。長期インターン生は一回若者の実家の家庭料理を披露している。

 20年近く前、四国大学で学費と生活費稼ぎで朝方までアルバイトをする元気な元体操選手の中国人留学生、趙冲君がいた。授業で世界遺産級の世界の感動する建築を紹介していたら、ぐいぐいと授業を受けるようになった。将来はシェフと言っていた彼が大学院に進学したいと来た。滋賀県立大学に赴任された布野修司先生に相談したら、受験ができ受け入れてくださった。生活科学科に在籍していた彼は、授業についていくのに大変だっただろうが、布野先生が中国の都市や建築の調査研究を精力的にされていた時期で、博士号を取得するに至った。現在は中国国立福州大学で准教授をしている。彼の大学で行われた建築国際会議があって私たちは招待され、傾斜地集落調査にはドローンを持って応援にきてくれた。現在中国南部と東南アジアの集落調査をしながら、日本と中国の建築文化交流を頑張っている。

 

地域から新たに発信する

 読み返すと時代は大きく変貌していることを改めて感じる。19708090年半ばまでは、それなりの大変さはあっても、恵まれた時代の中にいたかもしれない。ずいぶん楽天的だったと映る拡大的成長期の余韻が残る時代から、徳島県では毎年7000人以上人口が減り続けている人口縮減と高齢化が進み、グローバル化による経済変動と一次産業を始め地域衰退が顕著になっている。世界的には大都市に人口が集中し、環境問題とともに、植民地にされてきた国々の経済は著しく発展し、人口も増え豊かさが拡がる一方、年ごと気候変動の影響は世界各地に深刻な災害をもたらし、コロナ禍でパンダミックにあえいでいる。

 日本建築学会の作品選集選定委員や日本建築家協会の環境会議委員を務め、アルカシア(アジア建築家評議会)のグリーン・サステナブル建築委員会委員で活動していると、日常業務を超えた問題や課題が垣間見えて、危機感が増幅する。

 環境危機の時代と言われ、災害、食料、格差貧困等、今後問題はますます大きくなるだろうと予測されている。どのような世を生きていくか選択が突きつけられ、新たな構想力が問われてくるだろう。ビジネスの規範がSDGsやグリーン・エコノミー、あるいは循環的成長というパラダイムシフトが強く求められている。建築においては、さらなる耐震性、脱炭素化とグリーン建築、レジリエンス、空気環境といった設計、技術課題は否応なく求められてきている。

 これまで多くのご縁や支援をいただいてきた。経験は想像力の源泉になったはずだ。キャンパスでサグラ師は「What is your sword ? −あなたの刃(闘う武器)は何か」と絵を前に語っていた。絵が描けず絵筆が止まってしまう時、「You know everything」意味深に前に進めとよく励まされた。数年前だったか、ドーシさん宅で「その土地、時代で何ができるか考えよ。ル・コルビュジェもルイス・カーンもそうであった」と語られた。インプットからもう一歩足元を掘り下げ、力強いアウトプットへ、年齢的にも正念場が来ている。パートナーと共に、「人と自然の豊かな関係性を再構築する」という問題意識と行動に磨きをかけ、建築言語としての「空間や場所に、これからの時代に対し、人が生きる新たな構想力のある世界観を生み出せるか」建築に没頭することに努めたい。