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2021年9月6日月曜日

布野修司 カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)

 【インフォーマル居住地×臨地調査・研究・実践】

 カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)

Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)

 

布野修司1)

Shuji FUNO

 1)日本大学客員教授(funoshuji0810@gmail.com

 Visiting Professor, College of Industrial Technology, Nihon University, Dr. Eng.

 

I wrote my dissertation titled "Study on Transformation of Living Environment and Its Improvement Method in Indonesia-Methodological Consideration on Housing Planning Theory" in 1987 and summarized the essence for the general public as “The World of Kampung”in 1991, and then 30 years later, and all the lessons learned in the last 40 years are summarized in this year's "Surabaya Southeast Asian City Origin, Formation, Transformation, Reincarnation. -Kampon as Cosmos- "(Kyoto University Academic Press). This book is a financial statement (answer) related to the author's criticism of architectural planning, which originated in architectural planning. This article is a few comments based on this book in terms of informal settlements. 

カンポン,カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP,インヴォリューション ,都市村落

Kampung, Kampung Improvement Program(KIP), InvolutionUrban Village

1. はじめに 

建築計画学研究を出自とする筆者は,やがて自らの研究ごとを「都市組織研究」と呼ぶようになるのであるが,その基本としてきたのは臨地調査Field Surveyである。そして,その実施に当たっては以下のような心得を常に意識し,協働者と共有してきたつもりである。 

歩く,見る,聞く―臨地調査心得七ヶ条

1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び,快感がなければならない。

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 3 臨地調査において必要なのは,現場の臨機応変の知恵であり,判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また,「直感」である。新たな「発見」によって,また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

5 臨地調査における経験を,可能な限り伝達可能なメディア(言葉,スケッチ,写真,ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

6 臨地調査において目指すのは,ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって,臨地調査は,その根拠を獲得することができる。

 

. 『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』

東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクト「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(19781982年)でジャカルタの「カンポン」を訪れた19791月以来,文化遺産国際協力コンソーシアムJCIC-Heritageの「スラウェシ島地震復興と文化遺産調査」(20201月)まで,筆者のインドネシア行は28回に及ぶ。中でも度々訪れることになったのは,東ジャワ州の州都スラバヤである(23回)。

『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)を書いて,そのエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界ージャワの庶民生活誌』を上梓したのが1991年,それからさらに30年,この40年に経験し学んだことの全てをまとめたのが『スラバヤ スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生コスモスとしてのカンポン』(京都大学学術出版会,2021)である。

新著は,建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。

19791月,はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い,戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら,ここで求められているのは日本と同じ解答ではない,と直感した。以降,別の解答を求めて、毎年のように通い,臨地調査を継続することになった。

何故,スラバヤかについては,最初のインドネシア調査行で,バンドンの建築研究所のD. スミンタルジャ[1]を尋ね,そこでたまたまバンドン工科大学 ITB に集中講義にきていたスラバヤ工科大学ITSのジョハン・シラスという巨人に出会ったことが決定的である。その時手渡された論文[2]に刺激されて,スラバヤの「カンポン」を臨地調査の対象地に定め,再びシラスに会いに行ったのが18822月である。J.シラスはスラバヤ中を案内してくれて、「カンポン」という都市のなかのムラ的な共同体のあり方,その相互扶助に基づいた居住環境整備KIPについて説明してくれた。

この間の共同作業,ルスン(積層住宅)モデルの開発,スラバヤ・エコハウスの建設,クリーン&グリーンKIPの新たな展開などは新著に譲るが,つくづく思うのは,研究=実践なるものの原点は現場(フィールド)であり,それを支える諸関係の束ということである。

臨地調査の遂行に当たっては,相互理解が不可欠である。冒頭に掲げた心得の「2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。」ということである。J.シラスのグループと長期にわたる関係を維持できたことは,実に幸運であった。

 

3. カンポンとコンパウンド

最初にジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタのグロドックGlodok地区の「カンポン」を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた。「カンポン」研究の出発点にあるのはこの「感動」である。

「カンポン」はもとより「スラム」ではないし,「インフォーマル・セツルメント」などではない。人間居住(ヒューマン・セツルメント)のひとつの魅力ある形態である。「カンポン」は,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモンという意味である。興味深いことは,都市の居住地がカンポンと(ムラ)呼ばれることである。インドネシアの行政村はデサdesaである。カンポンそしてデサ,クルラハンなどインドネシアにおける村落共同体に関わる概念をめぐる議論は新著に譲るが,デサが,デサ的要素を残しながら都市において再統合されたものが「カンポン」である。

『カンポンの世界』を書いた時には,スラバヤのカンポン以外の視点はなかった。しかし,椎野若菜氏に論文(椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」:居住に関する人類学用語の歴史的考察」『社会人類学年報』262000年)を送って頂いて,「カンポン」が「コンパウンドcompound」の語源であることを知った。

コンパウンドの語源がカンポンであるということは,カンポンについて考えることが,世界中の「ムラ」,少なくとも,大英帝国が植民地とした地域の「ムラ」について考えることに繋がるということである。発展途上地域の植民都市研究を開始するのは,コンパウンド=カンポン起源説に導かれてのことであった。

 

4. RTと隣組

 そしてまた,太平洋戦争時の日本軍政期から独立後の脱植民地期にかけてのカンポンの住民組織ルクン・タタンガrukun tetanggaRT(エル・テー):隣組)と日本の町内会システムが深く結びついていることは,とりわけ日本人にとって考究すべき大きなテーマである。

日本(内務省)は,大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために大衆動員の施策として,「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し(19409月),隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織する。そして,町村の末端としての住民組織を直接掌握するこの隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれるのである。

日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」が出されるのである。

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された(倉沢愛子『日本占領下のジャワの農村の変容』1992)。

 

5. 開発独裁とカンポン

日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として,存続する。すなわち,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たした。ただ,フォーマルな政府機関とはみなされない。

1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されるが,基本的には,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからである。RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものである。そして,大きな変化として導入されるのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。1983年に,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定として内務大臣決定(Peraturan Menteri Dalam Negari No.7/1983)(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれることになるのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになる。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

6 インヴォリューション

「インヴォリューション」(内向進化)とは,もともと人類学者A.ゴールデンワイザーが,未開社会でよくみられるある特定の文化型=「ある確たる型を形成したにもかかわらず,安定もしなければ新しい型へ転換することもなく,むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」を説明するために用いた概念である[3]。A.ゴールデンワイザーが比喩として用いたのは,基本的様式は極限に達し,細部の加工,名人芸的な技巧のみによる装飾の細密化を行う「マオリ族の装飾的な芸術」や高さを競って石造建築技術の限界を実現した後は細部の装飾化,その豊かさの表現に向かった「後期ゴシック様式」である。

このカルチュラル・インヴォリューションの概念を,農業生産に適用したのがC.ギアツのアグリカルチュラル・インヴォリューションである。平たく言えば,「一定の耕地面積において,労働投入量を増加させることだけで,農業生産量を増加させていくシステム,技術革新なき変化のパターン」「労働集約化のみによって生産を増加させていく,農業の内向的発展」がインヴォリューションである。19世紀のジャワの農業生産はまさにこの「インヴォリューション」という概念によって捉えられると提起したのが『農業のインヴォリューション』(Geertz 1963)である。

アグリカルチュラル・インヴォリューションに対してアーバン・インヴォリューションという概念が提出される[4]。都市への大量流入人口が,雇用機会のないままに,第3次産業のみに従事し,仕事を細分化することによって貧困を分かち合う,そうした現象をアーバン・インヴォリューションと呼ぶのである。確かに都市の生産力そのものはさして上昇しないにも関わらず,一貫して増加し続ける人々が生活していくためには,都市サーヴィス部門における仕事の数を増やし,限られたペイを分け合うことが必要となる。結果として,大量の都市貧困者が生み出される。

発展途上国の大都市の人口が急激に増加するのは,第二次世界大戦後,1960年代から70年代にかけてのことである。アーバン・インヴォリューションと呼びうる過程が共通にみられたのは,その人口爆発の過程においてである。都市への流入人口の受け皿になったが,いわゆるインフォーマル・セクターである。都市貧困層の生活を支える生業の形態は実にさまざまである。しかし,そのほとんどは,サーヴィス業,小売業に集中し,また必ずしも一般的な産業分類には含まれないものが多い。いわゆる,インフォーマル・セクターに従事するものがほとんどである。都市インフォーマル・セクターの存在にはじめて注目したILOに依れば(ILO,"Employment, Incomes and Equity: A Strategy for Increasing Productive Employment in Kenya", Geneva,1972),その特徴は以下のようである。すなわち,

 a.新規参入が容易であること, b.現地の資源を利用していること,c.家族経営が中心であること,d.小規模であること, e.労働集約的で技術水準が低いこと,f.労働者の技能が正規学校教育の外側で得られていること, g.市場が公的な制約を受けることなく競争的であること,である。

 

7 W.R.スプラットマンKIP

KIPの歴史はオランダ植民地期に遡る。オランダ語で,文字通りカンポン改善(カンポンフェアベタリングkampongverbetering)という。

 バタヴィア(1905年)に続いてスラバヤに自治体が設けられるのは1906年である。自治体は,独自の法律と選挙による議会に基づいて設置され,オランダ人理事(レヘント)とジャワ人首長(ブパティ)からなる市政府によって運営されたが,基本的に,全てを決定するのは,オランダ植民地政府の内務部(Binnenlands Bestuur)であった。自治体は,法と秩序の維持,道路,運河,橋梁など基本的なインフラストラクチャーの建設を主な役割とした。

20世紀に入って,急速な都市化によってさまざまな問題が出現する。過密化し,上下水道のない,またごみ処理を欠いた不衛生な居住環境のために,しばしばペスト,コレラ,マラリアなどの伝染病が発生した。オランダ領インドで最も人口の多かったスラバヤは,最も不衛生な都市であり,20世紀に入って,1900年,1902年,1908年とたて続けに伝染病が発生している。そして,1918年のスペイン風邪の発生は極めて大規模なものであった。スラバヤ市がカンポン改善に乗り出す背景にあるのは居住環境の悪化による衛生問題である。

1920年代半ばまで,植民地政府もスラバヤ市も,基本的にカンポンには手をつけていない。基本的には間接統治であり,カンポンの自治は認めてきた。スラバヤ市政府は,1925年からカンポン改善実施していった。具体的には,下水道,水浴・トイレ施設,ごみ処理施設を改善し,メーター付きの水道設備を設置する。そして,道路の舗装を行う。基本的に,1960年代末以降に行われるKIPと同じである。ただ,オランダ人居住区に疫病や火災の発生などの影響が危惧される場合に限って,カンポンの改善を行わうのが前提であった。

独立後約20 年は ,カンポン対してほ とんど何の施策も行われない。ただ,50年代半ば以降 ,スラバヤにおいては,カンポンの居住者による自発的な改善活動が行われ,それを市当局が支援する試みがなされている。

カンポンの居住環境改善について逸早くカンポン改善に取り組んだのはスラバヤである。それまでのカンポン改善への補助施策の延長として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給し,カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するプロジェクトを開始するのである。1968年に,開始されたそのプロジェクトは,スラバヤ出身の作曲家に因んでW.R.スプラットマンKIPと呼ばれた。

こうして,自治体ベースで開始されたKIP ,やがて国家的政策となる。そして,世界銀行の融資が開始されるの は,1974年である。世界銀行による融資はまずジャ カルタに対して行わ れ (Urban I 7476 76 年からはスラバヤにおいても行われた ( Urban 7779 )。「ワールドバンクKIPは遅れてやってきた」のであった。

 

8 リスマとクリーン&グリーンKIP

スハルト退陣後の2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono2002-10),トゥリ・リスマハリーニ(2010-20152016-)と闘争民主党DPI-P(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)の市長が市政を担う。トゥリ・リスマハリーニ,愛称リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,シラスの弟子である。

 リスマ市長は,20109月に就任すると,「1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市」をヴィジョンとして,積極的な施策を展開してきた。

 とりわけ興味深いのはクリーン&グリーンKIPである。

それ以前のKIPの進化といっていいが,①緑化,②生ゴミのコンポスト化,③ゴミの分別収集と廃棄物のリサイクル,④廃棄物利用の工芸品の製造を柱にしている。特にアーバン・ファーミングという緑化施策がいい。また、カンポンの経済的自立を目指してスモール・ビジネス事業を展開する。

 スラバヤ市31 のすべてのクチャマタンでさまざまな施設や人を対象にセミナーが実施され,各カンポンに,環境問題に関心があり,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとし 住民の意欲向上や環境改善を手助けするためにフォローを行う役割を与え,配置している。また,廃棄物管理システムの規模拡大をはかるため,地元NGO団体や婦人団体PKKと連携し,RWが廃棄物管理システムを基に独自にはじめたコミュニティベースでのプログラムを支援する仕組みを新たにつくっている 

リスマの施策は,日本でも展開できるのではと思う。それが経験交流であり,相互学習である。まずは、自らが依拠する地域コミュニティを問う、それが基本である。

筆者は、この間、京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)、近江環人(コミュニティアーキテクト)地域再生学座などを展開してきたが、この間、スラバヤとJ.シラスに学んできたこと、それに応答し、それに匹敵する運動を展開し得たかどうかについては甚だ疑わしい。

 



[1] 建築史家:Djauhari Sumintardja1981),著作に“Kompendium Sejarah Arsitektur Jilid I”, Bandung: Yayasan Lembaga Penyelidikan Masalah Bangunan など。

[2] Silas, Johan1979, ‘Housing priorities of the marginal settlers in Surabaya’, unpublished manuscript, Faculty of Architecture, ITS,Surabaya

[3] A.ゴールデンワイザー Alexander Goldenweiser:""Loose Ends of a Theory on the Individual Patterns and Involution in Primitive Society",in R.Lowie(ed.),Essays in Anthropology Presented to A.L.Kroeber,Berkley,University of California,1936

[4] W.R.Armstrong and T.G.McGee,Revolutionary Change and the Third World City:A Theory of Urban Involution,Civilizations,1968H.D.Evers,Urbanization and Urban Conflict in Southeast Asia,Asian Survey,1975