2021年6月17日木曜日

 新居ヴァサンティ  末吉先生と沖縄の暮らし       

 末吉先生と沖縄の暮らし     新居ヴァサンティ


 初めての日本

末吉先生に1985年、ドーシ事務所で初めて会った。「Okinawa is not Japan.」と言われて、日本の歴史を十分知らない私は驚いたことがあった。インドから初めて出て、新居と一緒に那覇にたどり着いたのは19866月末だった。ムンバイより暑かった。先生のおかげで事務所からすぐ海の向こうの両親と連絡が取れて、無事日本に着いたことを知らせることができた。思い掛けないスピードで、はっきりと会話ができる環境に圧倒される私を見て、

 先生は「This is Japan!」と言って笑った。先生のこの言葉は後々自分の中でよく繰り返したものだった。

 先生に挨拶した後すぐ、私たちは東京へ飛んで一年余り東京の建築設計・コンサルタント事務所でお世話になった。私にとって初めての外国での暮らしだった。日本語、漢字、木造建築、日本の会社や和風空間のしきたりに戸惑いや驚きがたくさんあった。その後、新居と一緒にもう一度沖縄で先生、後藤さんやご家族に三年間、大変お世話になった。沖縄の将来を考えながら建築を通して地域と人々のアイデンティティの意識を高める先生の地域つくりに感銘する。地域に向き合い、建築家の役割を考えるという姿勢は、私にとって貴重な経験だった。日本に暮らすアジア人として、沖縄での暮らしは自分のルーツを探るきっかけにもなった。

 

建築ジャーナリスト平良敬一さんと末吉先生。私がいた時の事務所

1989年、北田英治さん撮影

 

 先生の言葉が漢字勉強を後押し

毎日、東京の通勤時間の片道50分は日本語を勉強し、事務所の会話で言葉を耳になら

せ、帰りに英字新聞を読み、家でテレビのニュースを日本語で見ていた。この繰り返し

で日本語の会話を自流で学んだが、2000字の漢字勉強の恐ろしい壁をこえる意欲はわかなかった。

又吉家のプロジェクトを訳してインドの建築雑誌に紹介された。それ以外に石嶺中学校

に関しての文章を翻訳する時も先生の言葉の力に感動して、それが漢字の勉強     から逃げていた私の後押しとなった。全然足りないが、その頃の毎日一時間の漢字勉強が今までの生活の支えになっている。

ジェスチャーいっぱいの先生のビビッドな言葉や面白い話の中の知らない単語を必死に書き込んで、後で調べると単語が増え、建築、日本や社会文化のいろいろな要素の理解や矛盾を深めることができた。英語で翻訳されていた日本文学も紹介していただいたのが大変ありがたかった。

深く印象に残った「1フィート」の映画も知り合いのインドの映画監督夫婦パトワルダ

 
1フィート映画」をインドに送った時の沖縄の新聞記事

ンさんに送ったことがあった。インドの映画の図書館に保管されています。先生の時々優しくないユーモアが、「自分」を自覚し、活かす大切さも意識させられた。沖縄に行く途中で会った先輩の伊東さんの励ましによって理解ができたと思い、感謝している。

先生は私にインドのことを「なんでやん?」と、いろいろ聞いてくれた。はっきりした答えがほとんど持っていなかった私は機会を見つけて、十分ではないが、母国のことを勉強してきた。ヴァラナシ―や仏教遺産も見てきた。子供にインドのことを伝えることでその意識はもう一歩深まった。長男は東工大で建築を学び、インドのジャイプルをテーマに修士設計した。今はインドのプロジェクトをすることを目指して、日建設計でグローバルデザイン部に務めている。次男は東京外大国際社会学部で南アジアを専攻したことで、インドの現在情報に触れることができる。先生の視野の影響が二世代以上にわたっていると思う。

子供二人と四人で2013年に沖縄を訪ねた時、新居は途中で徳島の現場に戻ることになった。先生は私が運転するレンタカーに乗ってくれなかったので、自分で子供とひめゆりの塔などを回ったが、説明は十分できなかった。その後次男は高校修学旅行で、もう一度沖縄へ訪ねる機会ができた。「一回訪ねただけで沖縄のことが全く理解できなかった。二回目でなんとかなった。」と言ってくれた。

1997年に先生と伊東さんが徳島を訪ねてくれた時


 2013年に那覇の学校を案内して頂いた先生、長男壮真、次男宇大と

 

 自身のルーツを意識

南インドのケーララ州出身の私は転勤家族だった為、ケーララに暮らす機会がなかった。沖縄での暮らしは貴重で、自分のルーツを探る良いきっかけになった。母はヴァスコダガマがインドに入った町、コジコード出身だ。夏休みに祖父を訪ねた時、道路に並ぶ高級住宅の高い壁の両側又は鉄扉に不思議なイギリス風のライオンを沢山見かけたことがあった。

沖縄のシーサのことを調べると歴史的な繋がりが見えてきた。仏教の教えを広げるためにアショーカ王がインドのいろいろな地域に建てた石柱とその上に座る獅子(サンスクリト語で「シンハ」)を作るためにペルシアから石職人を呼びよせたそうだ。日本の神社にも

見かける門の両側に立つ獅子、一頭は口を開けてサンスクリト語の最初の母音「あ」を言い、

写真52001年にコジコードで必死に探して見つけた屋上の獅子

 

もう一頭が口を閉じてサンスクリト語の最後の母音の「アム」を言っている。門でお釈迦の教えすべてを語り、内部を守っている現しだと。その後コジコードの町を訪ねた時、屋根のシーサを子供と一緒に見つけた。

 沖縄のいくつかの方言で母を「アッマ」と呼ぶと先生に教えられた。自分の母を「アッマ」と呼んでいるので、びっくりしたことがあった。学習院大学の大野晋先生によると昔、稲作と一緒に南インドのタミル語が日本に渡ってきたそうだ。沖縄の方言に昔の日本語が結構残っているから「アッマ」の言葉もあると先生に教えられた。

ケーララ州に船の競争の「ハーリ」と同じ行事が毎年8月頃に行われる。向うの船は蛇の形に飾られていて、沖縄の方は竜で、文化の違いが現わされて面白い。私がこのような繋がりを見つけることを先生が「バッチャのジャパジャパジャポロジー」と笑っていた。あるいきさつで私は「バッチャ」と呼ばれるようになっていた。覚えにくい上に言いにくい名前だが、職人の集まりに新居と私は、「兄さん(新居)、ばあさん(ヴァサンティ)、皆家族やん!」と場面を盛り上げた先生の機転に驚かされたことがあった。

ケーララにはガジュマル、ハイビスカス、水牛や芭蕉布もあり、苦瓜、冬瓜や4時の花が懐かしかった。沖縄の暖かい気候と優しい人になじみ、思い掛けなくタクシーの運転手に与那原出身の人と間違えられたこともあった。

 

 沖縄の暮らしがインドから徳島への心準備に

インドの生活から引き継いだ「人間は大きいな自然循環の一部だ」という環境意識は那覇

 

8月頃に行うケーララ州の船の競争が(写真上)沖縄の「ハーリ」(写真下)に似ている。

 の暮らしで深めることができた。先生が柳川へ見学に行く予定が、与儀のお母様がなくなられたことによって、代わりに新居と私が行くことになった。貴重な機会を得させて頂いた。柳川で石井式合併浄化槽と設計をされた石井勲先生に出会った。その後、那覇で久茂地川を活かす活動の一部として、スタジオジブリの最初の映画「柳川」も見ることができた。川を中心とする地域づくりの物語に大変感動した。

徳島で石井式合併浄化槽の設置を自分達の家から始め、設計した六軒の住宅で使わせていただいた。道路を通りかかる人も含め、浄化槽の再生水で沢山の人々を喜ばせるビオトープも自宅以外4軒に実現できた。これが徳島の吉野川の可動堰建設反対の活動につながった。林業、漁業、農業、酪農に関わっている地域の住民から具体的に学んだ自然の循環的仕組みや働きを私たちの設計に取り込む要素にし、住まい手が生活や庭空間から地域までその意識や感性を育てるような努力を続けている。

琉球新報に順番で書いていた新聞の記事に新居が川の話、私は樹木の話を書いた。今、両方の課題が私たちの仕事の原点となった。地域の木材を活かす大切さが伝統木造の循環的な知恵からダイナミックな軸組の理解まで道を広げた。地域に根差した、身心から再生できる木造空間を作り続けたいと思う。再生住宅の「丈六の家」を完成した時、日本建築士会連合会の「建築士」に書いた記事を先生に送った。電話で先生はその方向で続けるようにと、私達にとっては大変励まされる言葉を頂いたことを今も覚えている。

 

「デザインする」とはどういうことか?

日本建築学会の四国支部徳島支所長であった新居が2010年に徳島でシンポジウム「Back to the future from Asia-アジアの視座から地域建築の将来を照らす」を催した。末吉先生が皆さんに大変印象的な講演をして頂いた。その時、高校生の長男の壮真が先生に車のデザインを学びたいと相談したことがあった。「車の時代が終わった。」と一言で済ませた返事にショックを受けた。壮真は今建築の道を楽しんで歩んでいる。その講演会で先生は自分が「ウキウキした建築空間を作りたくない。考えるための静かな空間を作りたい。」と言ってくださった。


           日本建築学会のイベントのポスター、表と裏

  その言葉が気になっていた。2014年に新居がJIA四国・中国支部環境×建築連続セミナー実行委員会委員長として環境セミナーシリーズを催したことがある。沖縄と北海道地域の気候によっての建築事情を四国の建築家に披露する機会ができた。先生が四国を訪ねた時、私がデザインするとはどう言うことかと尋ねることができた。「ちょうど時が来ると全部わかるようになる。それには執念が必要だ。」と先生が答えた。

インドで牛や樹木と身近な暮らしだったが、那覇の末吉事務所で猫と共同生活はその状況をもっと肉体的に経験できた。今徳島で親が残してくれた庭を整理しながら修景している。指導して頂いている福岡の84歳の元気な庭師の先生から樹木一本一本の存在や生命を意識して、大切に扱わないといけないと教わっている。

最近緑や木材を飾りとしての扱い、物の本質を追及していない流行の建築を見ると先生がその道を避けるように指導するだろうと心から実感する。




写真上:2013JIA四国・中国支部主催セミナーシリーズのイベントポスター、表と裏

写真下:2014JIA四国・中国支部主催のセミナーシリーズのイベントポスター、表と裏

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