2021年9月6日月曜日

布野修司 カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)

 【インフォーマル居住地×臨地調査・研究・実践】

 カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)

Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)

 

布野修司1)

Shuji FUNO

 1)日本大学客員教授(funoshuji0810@gmail.com

 Visiting Professor, College of Industrial Technology, Nihon University, Dr. Eng.

 

I wrote my dissertation titled "Study on Transformation of Living Environment and Its Improvement Method in Indonesia-Methodological Consideration on Housing Planning Theory" in 1987 and summarized the essence for the general public as “The World of Kampung”in 1991, and then 30 years later, and all the lessons learned in the last 40 years are summarized in this year's "Surabaya Southeast Asian City Origin, Formation, Transformation, Reincarnation. -Kampon as Cosmos- "(Kyoto University Academic Press). This book is a financial statement (answer) related to the author's criticism of architectural planning, which originated in architectural planning. This article is a few comments based on this book in terms of informal settlements. 

カンポン,カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP,インヴォリューション ,都市村落

Kampung, Kampung Improvement Program(KIP), InvolutionUrban Village

1. はじめに 

建築計画学研究を出自とする筆者は,やがて自らの研究ごとを「都市組織研究」と呼ぶようになるのであるが,その基本としてきたのは臨地調査Field Surveyである。そして,その実施に当たっては以下のような心得を常に意識し,協働者と共有してきたつもりである。 

歩く,見る,聞く―臨地調査心得七ヶ条

1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び,快感がなければならない。

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 3 臨地調査において必要なのは,現場の臨機応変の知恵であり,判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また,「直感」である。新たな「発見」によって,また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

5 臨地調査における経験を,可能な限り伝達可能なメディア(言葉,スケッチ,写真,ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

6 臨地調査において目指すのは,ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって,臨地調査は,その根拠を獲得することができる。

 

. 『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』

東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクト「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(19781982年)でジャカルタの「カンポン」を訪れた19791月以来,文化遺産国際協力コンソーシアムJCIC-Heritageの「スラウェシ島地震復興と文化遺産調査」(20201月)まで,筆者のインドネシア行は28回に及ぶ。中でも度々訪れることになったのは,東ジャワ州の州都スラバヤである(23回)。

『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)を書いて,そのエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界ージャワの庶民生活誌』を上梓したのが1991年,それからさらに30年,この40年に経験し学んだことの全てをまとめたのが『スラバヤ スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生コスモスとしてのカンポン』(京都大学学術出版会,2021)である。

新著は,建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。

19791月,はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い,戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら,ここで求められているのは日本と同じ解答ではない,と直感した。以降,別の解答を求めて、毎年のように通い,臨地調査を継続することになった。

何故,スラバヤかについては,最初のインドネシア調査行で,バンドンの建築研究所のD. スミンタルジャ[1]を尋ね,そこでたまたまバンドン工科大学 ITB に集中講義にきていたスラバヤ工科大学ITSのジョハン・シラスという巨人に出会ったことが決定的である。その時手渡された論文[2]に刺激されて,スラバヤの「カンポン」を臨地調査の対象地に定め,再びシラスに会いに行ったのが18822月である。J.シラスはスラバヤ中を案内してくれて、「カンポン」という都市のなかのムラ的な共同体のあり方,その相互扶助に基づいた居住環境整備KIPについて説明してくれた。

この間の共同作業,ルスン(積層住宅)モデルの開発,スラバヤ・エコハウスの建設,クリーン&グリーンKIPの新たな展開などは新著に譲るが,つくづく思うのは,研究=実践なるものの原点は現場(フィールド)であり,それを支える諸関係の束ということである。

臨地調査の遂行に当たっては,相互理解が不可欠である。冒頭に掲げた心得の「2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。」ということである。J.シラスのグループと長期にわたる関係を維持できたことは,実に幸運であった。

 

3. カンポンとコンパウンド

最初にジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタのグロドックGlodok地区の「カンポン」を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた。「カンポン」研究の出発点にあるのはこの「感動」である。

「カンポン」はもとより「スラム」ではないし,「インフォーマル・セツルメント」などではない。人間居住(ヒューマン・セツルメント)のひとつの魅力ある形態である。「カンポン」は,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモンという意味である。興味深いことは,都市の居住地がカンポンと(ムラ)呼ばれることである。インドネシアの行政村はデサdesaである。カンポンそしてデサ,クルラハンなどインドネシアにおける村落共同体に関わる概念をめぐる議論は新著に譲るが,デサが,デサ的要素を残しながら都市において再統合されたものが「カンポン」である。

『カンポンの世界』を書いた時には,スラバヤのカンポン以外の視点はなかった。しかし,椎野若菜氏に論文(椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」:居住に関する人類学用語の歴史的考察」『社会人類学年報』262000年)を送って頂いて,「カンポン」が「コンパウンドcompound」の語源であることを知った。

コンパウンドの語源がカンポンであるということは,カンポンについて考えることが,世界中の「ムラ」,少なくとも,大英帝国が植民地とした地域の「ムラ」について考えることに繋がるということである。発展途上地域の植民都市研究を開始するのは,コンパウンド=カンポン起源説に導かれてのことであった。

 

4. RTと隣組

 そしてまた,太平洋戦争時の日本軍政期から独立後の脱植民地期にかけてのカンポンの住民組織ルクン・タタンガrukun tetanggaRT(エル・テー):隣組)と日本の町内会システムが深く結びついていることは,とりわけ日本人にとって考究すべき大きなテーマである。

日本(内務省)は,大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために大衆動員の施策として,「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し(19409月),隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織する。そして,町村の末端としての住民組織を直接掌握するこの隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれるのである。

日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」が出されるのである。

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された(倉沢愛子『日本占領下のジャワの農村の変容』1992)。

 

5. 開発独裁とカンポン

日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として,存続する。すなわち,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たした。ただ,フォーマルな政府機関とはみなされない。

1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されるが,基本的には,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからである。RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものである。そして,大きな変化として導入されるのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。1983年に,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定として内務大臣決定(Peraturan Menteri Dalam Negari No.7/1983)(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれることになるのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになる。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

6 インヴォリューション

「インヴォリューション」(内向進化)とは,もともと人類学者A.ゴールデンワイザーが,未開社会でよくみられるある特定の文化型=「ある確たる型を形成したにもかかわらず,安定もしなければ新しい型へ転換することもなく,むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」を説明するために用いた概念である[3]。A.ゴールデンワイザーが比喩として用いたのは,基本的様式は極限に達し,細部の加工,名人芸的な技巧のみによる装飾の細密化を行う「マオリ族の装飾的な芸術」や高さを競って石造建築技術の限界を実現した後は細部の装飾化,その豊かさの表現に向かった「後期ゴシック様式」である。

このカルチュラル・インヴォリューションの概念を,農業生産に適用したのがC.ギアツのアグリカルチュラル・インヴォリューションである。平たく言えば,「一定の耕地面積において,労働投入量を増加させることだけで,農業生産量を増加させていくシステム,技術革新なき変化のパターン」「労働集約化のみによって生産を増加させていく,農業の内向的発展」がインヴォリューションである。19世紀のジャワの農業生産はまさにこの「インヴォリューション」という概念によって捉えられると提起したのが『農業のインヴォリューション』(Geertz 1963)である。

アグリカルチュラル・インヴォリューションに対してアーバン・インヴォリューションという概念が提出される[4]。都市への大量流入人口が,雇用機会のないままに,第3次産業のみに従事し,仕事を細分化することによって貧困を分かち合う,そうした現象をアーバン・インヴォリューションと呼ぶのである。確かに都市の生産力そのものはさして上昇しないにも関わらず,一貫して増加し続ける人々が生活していくためには,都市サーヴィス部門における仕事の数を増やし,限られたペイを分け合うことが必要となる。結果として,大量の都市貧困者が生み出される。

発展途上国の大都市の人口が急激に増加するのは,第二次世界大戦後,1960年代から70年代にかけてのことである。アーバン・インヴォリューションと呼びうる過程が共通にみられたのは,その人口爆発の過程においてである。都市への流入人口の受け皿になったが,いわゆるインフォーマル・セクターである。都市貧困層の生活を支える生業の形態は実にさまざまである。しかし,そのほとんどは,サーヴィス業,小売業に集中し,また必ずしも一般的な産業分類には含まれないものが多い。いわゆる,インフォーマル・セクターに従事するものがほとんどである。都市インフォーマル・セクターの存在にはじめて注目したILOに依れば(ILO,"Employment, Incomes and Equity: A Strategy for Increasing Productive Employment in Kenya", Geneva,1972),その特徴は以下のようである。すなわち,

 a.新規参入が容易であること, b.現地の資源を利用していること,c.家族経営が中心であること,d.小規模であること, e.労働集約的で技術水準が低いこと,f.労働者の技能が正規学校教育の外側で得られていること, g.市場が公的な制約を受けることなく競争的であること,である。

 

7 W.R.スプラットマンKIP

KIPの歴史はオランダ植民地期に遡る。オランダ語で,文字通りカンポン改善(カンポンフェアベタリングkampongverbetering)という。

 バタヴィア(1905年)に続いてスラバヤに自治体が設けられるのは1906年である。自治体は,独自の法律と選挙による議会に基づいて設置され,オランダ人理事(レヘント)とジャワ人首長(ブパティ)からなる市政府によって運営されたが,基本的に,全てを決定するのは,オランダ植民地政府の内務部(Binnenlands Bestuur)であった。自治体は,法と秩序の維持,道路,運河,橋梁など基本的なインフラストラクチャーの建設を主な役割とした。

20世紀に入って,急速な都市化によってさまざまな問題が出現する。過密化し,上下水道のない,またごみ処理を欠いた不衛生な居住環境のために,しばしばペスト,コレラ,マラリアなどの伝染病が発生した。オランダ領インドで最も人口の多かったスラバヤは,最も不衛生な都市であり,20世紀に入って,1900年,1902年,1908年とたて続けに伝染病が発生している。そして,1918年のスペイン風邪の発生は極めて大規模なものであった。スラバヤ市がカンポン改善に乗り出す背景にあるのは居住環境の悪化による衛生問題である。

1920年代半ばまで,植民地政府もスラバヤ市も,基本的にカンポンには手をつけていない。基本的には間接統治であり,カンポンの自治は認めてきた。スラバヤ市政府は,1925年からカンポン改善実施していった。具体的には,下水道,水浴・トイレ施設,ごみ処理施設を改善し,メーター付きの水道設備を設置する。そして,道路の舗装を行う。基本的に,1960年代末以降に行われるKIPと同じである。ただ,オランダ人居住区に疫病や火災の発生などの影響が危惧される場合に限って,カンポンの改善を行わうのが前提であった。

独立後約20 年は ,カンポン対してほ とんど何の施策も行われない。ただ,50年代半ば以降 ,スラバヤにおいては,カンポンの居住者による自発的な改善活動が行われ,それを市当局が支援する試みがなされている。

カンポンの居住環境改善について逸早くカンポン改善に取り組んだのはスラバヤである。それまでのカンポン改善への補助施策の延長として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給し,カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するプロジェクトを開始するのである。1968年に,開始されたそのプロジェクトは,スラバヤ出身の作曲家に因んでW.R.スプラットマンKIPと呼ばれた。

こうして,自治体ベースで開始されたKIP ,やがて国家的政策となる。そして,世界銀行の融資が開始されるの は,1974年である。世界銀行による融資はまずジャ カルタに対して行わ れ (Urban I 7476 76 年からはスラバヤにおいても行われた ( Urban 7779 )。「ワールドバンクKIPは遅れてやってきた」のであった。

 

8 リスマとクリーン&グリーンKIP

スハルト退陣後の2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono2002-10),トゥリ・リスマハリーニ(2010-20152016-)と闘争民主党DPI-P(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)の市長が市政を担う。トゥリ・リスマハリーニ,愛称リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,シラスの弟子である。

 リスマ市長は,20109月に就任すると,「1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市」をヴィジョンとして,積極的な施策を展開してきた。

 とりわけ興味深いのはクリーン&グリーンKIPである。

それ以前のKIPの進化といっていいが,①緑化,②生ゴミのコンポスト化,③ゴミの分別収集と廃棄物のリサイクル,④廃棄物利用の工芸品の製造を柱にしている。特にアーバン・ファーミングという緑化施策がいい。また、カンポンの経済的自立を目指してスモール・ビジネス事業を展開する。

 スラバヤ市31 のすべてのクチャマタンでさまざまな施設や人を対象にセミナーが実施され,各カンポンに,環境問題に関心があり,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとし 住民の意欲向上や環境改善を手助けするためにフォローを行う役割を与え,配置している。また,廃棄物管理システムの規模拡大をはかるため,地元NGO団体や婦人団体PKKと連携し,RWが廃棄物管理システムを基に独自にはじめたコミュニティベースでのプログラムを支援する仕組みを新たにつくっている 

リスマの施策は,日本でも展開できるのではと思う。それが経験交流であり,相互学習である。まずは、自らが依拠する地域コミュニティを問う、それが基本である。

筆者は、この間、京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)、近江環人(コミュニティアーキテクト)地域再生学座などを展開してきたが、この間、スラバヤとJ.シラスに学んできたこと、それに応答し、それに匹敵する運動を展開し得たかどうかについては甚だ疑わしい。

 



[1] 建築史家:Djauhari Sumintardja1981),著作に“Kompendium Sejarah Arsitektur Jilid I”, Bandung: Yayasan Lembaga Penyelidikan Masalah Bangunan など。

[2] Silas, Johan1979, ‘Housing priorities of the marginal settlers in Surabaya’, unpublished manuscript, Faculty of Architecture, ITS,Surabaya

[3] A.ゴールデンワイザー Alexander Goldenweiser:""Loose Ends of a Theory on the Individual Patterns and Involution in Primitive Society",in R.Lowie(ed.),Essays in Anthropology Presented to A.L.Kroeber,Berkley,University of California,1936

[4] W.R.Armstrong and T.G.McGee,Revolutionary Change and the Third World City:A Theory of Urban Involution,Civilizations,1968H.D.Evers,Urbanization and Urban Conflict in Southeast Asia,Asian Survey,1975

2021年9月3日金曜日

布野修司 丸の内の悲喜劇:超高層建築の本性 2021 08  驟雨異論❷

http://amenomichi.com/shuuiron/funo2.html

丸の内の悲喜劇超高層建築の本性

                             布野修司

 「東京海上ビル」解体

  前川國男設計の「東京海上日動ビルディング(旧東京海上ビルディング本館)」(1974年竣工、25階建)(図❶abc)が解体されるというニュースが流れたのは5月初旬のことであった(『毎日新聞』202158日)。ひと月ほどして、近代建築の保存に奔走する松隈洋さん(京都工業繊維大学教授、元前川建築設計事務所所員)から「東京海ングを愛 その存続願う会」(発起人代表 奥村珪一)の趣意書とともに「設計を担当した前川建築設計事務所の元所員を中心に、広くメッセージを寄せていただく活動を始めることになりました」というメールをもらった。会の事務局長は日本建築協会会長も務めた大宇根弘司さんである。


図❶丸ビルと新丸ビルの間に埋もれる東京海上日動ビルディング 公開空地 c エントランス・コリドール

 趣意書[1]には、前川建築設計事務所と新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険との話し合いの経緯も含めて、その存続がほぼ不可能である流れ、にもかかわらず存続を願う熱い思いとその理由が縷々述べられている。

 東京海」の建設をめぐっては「美観論争」と呼ばれる激しい議論があった。この「美観論争」が建築界にしこりのように残ってきたのは,超高層建築を推進する側に,建築界の「良心」とされてきた前川國男がいたことである[2]その前川國男がその信念をかけて悪戦苦闘の末に実現させた建築が解体され、さらに高い超高層ビルに建替えられるのは悲喜劇である。

 松隈さんのメールからしばらくして、「世界貿易センタービル」(163m、40階、1970、日建設計、武藤構造力学研究所)が解体されるというニュースが流れた(『朝日新聞』630日)(図❷ab)。翌年「京王プラザビル」(179m、47階、1971、日本設計)にその座を奪われるが、竣工当時、日本最初の超高層建築である「霞が関ビルディング(1968年竣工、36階建、147m、武藤清・池田武邦・山下寿郎)を超えて日本一となった第二の超高層ビルである。地上46階建高さ235mのビルに建て替えられるという(2027年竣工予定)。

❷建て替えが決まった世界貿易センタービル

 『朝日新聞』記事は、サラリーマンが1020坪の小さな庭付きの家に暮らすそんな街がガラッと変わった、ある意味では「怖いビル」だったが、「やっぱりなくなるのは寂しい」という地元商店主の声を伝えるが、ビルの運営会社は、羽田空港と直結する新・浜松町駅と連結して最新鋭のビルに建替えてビルの競争力を維持したいのだという。超高層ビルが解体される時代の到来である。

 Tokyo Torch

全て予定通りというべきか、丸の内を我が庭としてきた地主である三菱地所がTokyo Torch2027年竣工予定)とネーミングする日本で最も高い超高層ビルの建設を社長自ら発表したのもつい最近である(プレス発表は20209[3])。62階建、高さ390m、「あべのハルカス」(300m、60階、2014、竹中工務店、ペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツ)を抜くのだという[4]。コロナ禍の最中、「東京のトーチ(松明)」として、さらに高密度の街づくりを目指す、という無神経、その本性に唖然とするばかりである。

丸の内に蝟集するのは日本を代表する大企業の本社であり、既に30万人が毎日通うホットスポットである。30万人というのは、東京で言えば中野区、豊島区の全人口に匹敵する。その大半は今テレワークを率先している企業ばかりであろう。そこに3万人の街を新たにつくり出そうというのである。聖火リレーのトーチで思いついたのかもしれないけれど、さらに半世紀後には、東京オリンピック2020の「無残」とともに記憶されることになるのではないか。

設計は三菱地所設計、常盤橋プロジェクト室長・松田吉春、頂部デザインアドバイザー・藤本壮介、低層部デザインアドバイザー・永山祐子、広場デザインアドバイザー・福岡孝則が担当、永山提案によると地上60mの高さに数キロにわたる散歩道ができる。銭湯発祥の地ともいわれる常盤橋ゆかりの温浴施設も設けられるという


 美観論争

Tokyo Torchの「常盤橋タワー」が先行オープン(721日)するというので、久しぶりに丸の内を歩いた。この半世紀の丸の内の興亡が走馬灯のように頭に浮かんだ。

美観論争については『景観の作法 殺風景の日本』(京都大学学術出版会、2015)で詳述している。ことの発端は1963年に遡る。この年,建築基準法(1950年制定)の前身となる市街地建築物法(1919年制定)によって決められてきた建物の高さを百尺(31メートル)以内とする規定が撤廃されるのである。31メートルというとせいぜい10階建ての高さで今では珍しくもなんでもないが,半世紀前は、31メートルを超えた建物を「超高層」建築と言った。

東京オリンピックの興奮さめやらぬ19651月に設計依頼を受けた前川國男の案は,地上32階,高さ130mの「超高層」建築であった。高さ制限から容積制限へ移行したことを踏まえ,超高層化によって,敷地の3分の2を公共広場として開放するというねらいをもっていた。先の趣意書は、前川國男のこの思いを再掲している。この手法は,後の「総合設計制度」[5]に基づく「公開空地」の先駆けとなるが,この総合設計制度は,日本の都市景観を大きく変えてしまう動因ともなる。

前川案に対して,「皇居を見下ろすビルは美観上認めない」という判断をしたのが、美濃部亮吉(19041984)都知事[6]である。そして、時の佐藤栄作首相が「皇居を直接見下ろすようなビルは「不敬」に当る。国民感情からしても好ましくない」と発言、政治問題化したのである。その後の経緯は省くが、「皇居を見下ろす」という政治的問題を除いてみると,丸の内美観論争の顛末には,その後全国各地で勃発した景観論争の構図をほぼそっくりそのままみることができる。すなわち,高層建築の計画提案,高層化反対のキャンペーン,条例の制定,適法の確認,高さ低減(階数削減)による決着というパターンである。

この時、高さがより厳しく制限されたとすれば、丸の内の景観は現在とは異なった筈である。

マンハッタン計画

丸の内が大きく変わる基点となったのは、「丸の内・マンハッタン計画」と呼ばれる「丸の内再開発計画」(1988年)である。丸の内の容積率を2,000%に拡大、高さ200m4050階建の超高層ビルを数十棟建てるという、いかにもバブリーな提案は、新都庁舎移転(1990年竣工)に象徴される新宿副都心への東京の重心の移動、さらに世界都市博覧会(1996年開催中止)に象徴されるウォーターフロント開発に対抗するものと思われた。バブル崩壊とともに挫折したかに思われたこの「丸の内・マンハッタン計画」は、脈々と生き続ける。「マンハッタン計画」というのは,日本産業の中枢として,ニューヨークのマンハッタンのような国際金融センターとしたいという命名であったが,原子爆弾開発のパンドラの箱を開けた「マンハッタン計画」を想い起こさせて暗示的であった。以降,丸の内に容積率の歯止めが効かなくなるのである。

「丸の内ビルディング(旧丸ビル)」(地上9階建、地下1階、1923年、桜井小太郎設計)が現在の「丸の内ビルディング」に建替えられたのは2002年である。そして、行幸通りを挟んで向かい側にあった「新丸ビル」(1952年竣工)が建替えられて現在の「新丸の内ビルディング」が竣工したのが2007年である。ドライビング・フォースとなったのは小泉内閣の都市再生政策である。「特定街区制度」さらにいわゆる「大丸有」(大手町・丸の内・有楽町地区)への「特例容積率適用区域制度」など優遇措置が取られた。東京駅の復元保存が実現したのは(2012年)、東京駅舎からの容積率移転によって緩和されたからである。東京中央郵便局[7](吉田哲郎[8]設計)の建替(KITTE丸の内、JPタワー、2012)に際して、一部ファサード保存が行われたのも同じ流れである。

消えた「日本興業銀行」

八重洲中央口から真直ぐ皇居へのヴィスタが拓けるのは、東京駅復元保存の最大の功績である。その奥右に、「東京海上日動ビル」は、竣工した当時と同じように、その重厚な姿をのぞかせている。足元心なしか寂しい。公開空地というけれど、そもそも人の流れがほとんどないのである移転が発表されたのは325日、移転先となるのが721日にオープンした「常盤橋タワー」(図❸abc)である。2021 12 月から順次移転を開始し、2022 6 月までに移転先への移転を完了する予定という。すべて、大地主、三菱地所のやりくりである。「コロナ禍オフィス需要が減るにもかかわらず90%入居が決まっている」などとTVニュースが伝えたが、「東京海上日動ビル」が移転するのだから当たり前である。


図❸Tokyo Torch a常盤橋タワー b東京トーチパーク cトーチタワー建設現場

確か、村野藤吾が設計した日本興業銀行が仲通りに並んでいたはずだと、常盤橋に向かって歩きながら、重厚なキャンチレバーを探したけれど、ここだと思う場所にあったのは、1階にカフェやレストランが並ぶ、「丸の内発のルーフトップレストランやカラオケやダーツが楽しめる」「丸の内テラス」(図❹ab)である。オープンしたのは昨2020115日という。唖然である。「東京海上日動ビルディング」の建替え理由に、「建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができるカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易い」ことが挙げられるのであるが、その回答が「丸の内テラス」というわけである。


図❹丸の内テラス カフェテラス b先端部

「日本興業銀行本店(みずほ銀行本店ビル)」(地上15階、高さ69m1974年竣工)は、同級生の千葉政継が村野森建築事務所に勤めていた縁で、竣工時に内部を見せてもらったことがあるが、白井晟一の親和銀行シリーズに肩を並べる傑作であった(図❺abcd)。201610月から1年かけて解体されたというが、建築界は新国立競技場問題(201612月着工)でほとんど誰も問題にしなかったのではないか。文化勲章受章者の建築も形無しである。


図❺日本興業銀行 先端部のキャンチレヴァー b内部階段 c先端部見上げ解体中 https://bluestyle.livedoor.biz/archives/52386105.html

三菱ヶ原

「東京海上日動ビルディング」の前身は,1918年建設の「東京海上ビルディング」である(曽根[9]・中條[10]設計事務所,構造設計,内田祥三[11]18851972)。丸の内,すなわち江戸城の御曲(みくる)輪内(わうち)と呼ばれた一帯には,明治以後,司法省,大審院,東京裁判所,警視庁などの官庁の他,陸軍省や騎兵隊,工兵隊の兵営,操練場,東京府立勧工場(辰ノ口勧工場)が置かれたが,その内の陸軍用地は,1890年に至って,三菱に払い下げられた。日本橋が「三井村」と呼ばれたのに対して「三菱ヶ原」と呼ばれた。

三菱は1894年からイギリスの経済の中心地ロンドンのロンバート街[12]をモデルとしたオフィス街の建設に着手,1914年にかけて,J.コンドルの設計で1号から21号に及ぶ赤煉瓦造の三菱館を建てた。1914年には東京駅が建てられ,東京海上ビルの後,23年には丸ビルが落成する。丸の内一帯は「一丁ロンドン」と呼ばれ,日本橋に対抗する日本のビジネス街として急速に発展していくことになった(図❻)。

 図❻一丁倫敦 三菱煉瓦街 大正末 

日本の近代都市計画の起源とされる東京市区改正条例[13]1888)はこの一丁倫敦と呼ばれた街並みが東京の中央市区に広がっていくことを想像していた。前川國男が求められたのは,この百尺にきれいにそろったビルの景観とは異なった新たな景観の秩序である。当時モデルと考えられたのは,アメリカの大都市とりわけニューヨークで一般的に見られた、低層部は敷地を目一杯使って中央部のみ超高層とするいわゆる墓石型の超高層であった。

超高層化によって公共広場(公開空地)を地上に設けるという前川國男の提案する超高層のモデルは、歴史を振り返れば、むしろ受け入れられてきたといえるのではないか。

一丁倫敦の記憶もかすかに残す丸の内であり続ける選択もあったのかもしれない。しかし,容積を増やせば増やすほど利潤を得ることのできる一等地を所有する大地主である三菱地所にその選択はなかった。公開空地を設ければ,容積率は1300パーセントになる。さらに,歴史的建造物を復元保存すれば1700パーセントになる。こうして一角に歴史的建造物を残して超高層として建て変えられた建物がある。Tokyo Torchも、首都高速道路地下化、八重洲地区地下ネットワーク化などの措置を駆け引き材料として、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更された。丸の内を支配し続けるは容積率すなわち空間の高密度利用のみである。

どうせそうであれば凡庸な超高層ビルなどみたくない。上海は超高層ビルが既にヴァナキュラー化している。せめて自在に踊ってほしい。ダンシング・ハイライズである。意外に面白そうなのがモスクワ・シティだ。本家マンハッタンには、にょきにょきともやしのような超高層ビルが建ち並びだしている(図❼)。「東京国際フォーラム」を設計したラファエル・ヴィニョリの「パーク・アヴェニュー432」(426m2015)は超スレンダーだ。レム・コールハース(OMA)も参入するらしい(「41-47 West 57th Street335m)。


 図❼ミッドタウン・マンハッタン 一番高いのがOMA 「41-47-west-57th-streets

https://newyorkyimby.com/2021/06/new-rendering-by-oma-highlights-41-47-west-57th-streets-height-in-midtown-manhattan.html

(特記ないものは筆者撮影)

布野修司 建築評論家・工学博士、

1949年島根県生まれ。東京大学助手,東洋大学助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事,2015年より日本大学特任教授。日本建築学会賞論文賞(1991)、著作賞(20132015)、日本都市計画学会論文賞(2006)。『戦後建築論ノート』(1981)『布野修司建築論集ⅠⅡⅢ』(1998)『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』(2000),『曼荼羅都市』(2006)『建築少年たちの夢』(2011)『進撃の建築家たち』(2019)『スラバヤ』(2021)他。 


[1] 東京海上日動火災保険株式会社は東京海上日動火災保険本社ビル(東京海上ビルディング)を解体し、新たなビルを建設 (2023 年度着工、28 年度完成予定)するために、22 6 月までに 本社を移転することを発表しました。このビルが超高層ビルとして竣工したのは1974年で竣工後46年しかたっていません。

 現在の東京海上ビルディングは、 建築基準法による 31mの絶対高さ制限が容積規制へと移行し、超高層建築が可能になった時に、これからの都市空間のあり方を模索し、建築を高層化することによって太陽の光が差し込む広場を足元に確保することで、豊かで人間にやさしい都市空間を作ろうとして建てられた建築です。

 これについて、 このビルの設計者の前国男は次のように述べています。

「海上火災はあの敷地に1,000%の建築容積を建築するには、高層にして建ぺい率を約3分の1に押さえた方が『公益』に貢献するゆえんであるとの判断にもとづいて、あえて工費上、また、いわゆる事業採算上の利点制して高層計画に踏み切っものである」1966.12. 「再び都市美について」

日本の超高層は、現代都市によって破壊された自然を回復し、緑と太陽の空間を人間の手に取り戻す手段 · ・・『自然』につつまれ自、然に参加する『人 間』を確立する方に建築物を空高く積み上げて、緑と太陽の自由な都市空間をつくり出す以外にどんな手段がありうるか」1967 .12 「超高層ビルの意味」

は、都市に太陽が降り注ぐ、自由でオープンな広場を確保することがこ、れからの都市空間にとって非常に重要なことと考え、その手段として超高層ビルを考えていました。その意味を理解し、企業の社会的責任を果たし、「公益」に貢献する決断を前川と共 有した、当時の東京海上火災保険会社の経営者達の英断によって、現在のビルは建てられ、都市における超高層ビルのあるべき姿として存在しています。

私達は、この解体‐新ビル建設の情報を発表前に入手し、何とかこの建築が存続するよう、新ビルの設計者である三菱地所設計及び東京海上日動火災保険の管理部門の方々と話し合いましたが、物別れに終わりました。この対応は紳士的に行われ、私達も海上側が公表するまで口外しないようにとの要望を受け入れ、我々にできる、なにか良い方法はないかを検討してきました。しかし、こうした状況の中で、存続運動が非常に難しいことが徐々に分かってきました。存続運動が難しい理由は、

建物が公共施設でなく、民間所有物であること。

建物の利用者が東京海上とその関係者だけであり般市民の利用がないので、利用者からの存続への希望が出にくいこと。

建築物の著作権は、日本では非常に評価が低く、公共建築の設計では契約書でその放棄を書かされることすらあること。

この建築で最も大切な広場への評価も時代と共に変化しており、計画時に考えられた、太陽と緑に恵まれ、市民が自由に出入りできる、都市空間のあり方としての広場というより、もっと気さくで親しみ易い、つまりお茶が飲めておしゃべりができ るカフェ的憩いの場の方が当世風で市民に受け入れ易いこと、等です。

こうした問題点を理解した上でも、なお、東京海上ビルは存続させる価値があり、この建築を失 うことは、日本の建築文化や都市景観上の 大損失であると考え、存続のための活動を行うことにしました。

私達にとって、東京海上ビルディングは、

日本の超高層ビルの噂矢であり建築作品として非常に優れており、日本が持ち得た最高レベルの超高層建築であり、その作品を取り壊すことは、まさに文化に対する 冒涜であること。

日本の都市景観のあるべき姿を提示してお り、太陽が降 りそそぐ自由な広場と体となって、豊かで人間にやさしい都市空間を具現しており、今後の都市景観への大  切な指標として重要であること。現在、丸の内地区の再開発で建設される、敷地をできるだけいつばい利用した上で、さらに 200M もの高さの超高層ビル群 都市空間としてこれで良いのだろうか。こうした状況に警鐘を鳴らす存在であること。

日本の都市計画史上の輝かしい記念碑であり、都市計画の方法とし容積制を導入したおり、その理念を正しく理解し、政治的圧力にも屈せず、広場と体となって具現化した建築であり、今後、都市計画が現実的利益誘導や政治的圧力に屈して方向を間違えないためにも、あるべき姿を提示している道標(みちしるべ)となっていること。

だと考えています。こうした考えのもとに、存続のための運動をするためには、我々の考えが多くの方々の共感を得られるものかどうか知る必要があると考え、できるだけ多くの皆様のご意見をお聞きし、そのご意見を糧としてこれからの活動を進めていきたいと思います。

[2] 筆者は「Mr.建築家」と評したことがある。「Mr.建築家-前川國男というラディカリズム」(『建築の前夜ー前川國男文集』(前川國男文集編集委員会編,而立書房,1996,布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』所収)。

[3] 元々地上61階、地下5階、高さ390m、延べ面積49万㎡の超高層ビルの計画であったが、第18回東京都都市再生分科会で、日本橋エリアの首都高速道路地下化、八重洲地区再開発による地下ネットワーク化などの措置が認められ、容積率の最高限度が従来の1760%から1860%に変更され、地上63階、地下4階、高さ390m、延べ面積544000㎡へと規模が拡大された。

[4] 「世界貿易センタービル」「京王プラザビル」以後、「新宿住友ビル」(210m、52階、1974、日建設計)「新宿三井ビル」(225m、55階、1974、三井不動産、日本設計)など日本一の高さを誇る超高層建築が次々に登場したが、「サンシャイン60」(240m、60階、1978、三菱地所設計、武藤耕三力学研究所)を最後にいったん途絶えた。復活するのは、平成初頭の「東京都庁第一本庁舎」(243m、48階、1991、丹下健三都市建築設計研究所)「横浜ランドマークタワー」(296m、70階、1993、光美諸設計、ザ・スタビンス・アソシエイツ)である。そして、それを超えたのが「あべのハルカス」である。

[5] 公共の利用に開放した空地(公開空地)を設ければ,容積率(延床面積/敷地面積)や高さの規定などを緩和するという制度。1970年に創設され,建築基準法第59条の2に規定されている。具体的にどういう条件でどこまで緩和を認めるかは,それぞれの許可権限を持つ特定行政庁で基準を定めている。

[6] 天皇機関説で著名な美濃部達吉の長男。東京。東京帝国大学経済学部卒業。大内兵衛に師事したマルクス主義経済学者として知られる。一九六七年より三期一二年,東京都知事を務めた。公害防止条例制定,老人医療の無料化,公営ギャンブル廃止,都電廃止,歩行者天国の実施など。『独裁制下のドイツ』『苦悩するデモクラシー』など。

[7] 「平凡なるもの」という素晴らしいテレビ番組(富山テレビ)がつくられ,保存運動が展開されたが,日本の近代建築の傑作とされる丸の内南口に残る吉田鉄郎設計の中央郵便局は,中途半端にファサードの壁面を残して超高層ビルに建て替えられた。

[8] 吉田鉄郎(18941956)。富山県福野町の出身。東京帝国大学建築学科卒業。逓信省営繕課に勤務,官庁建築家として活躍。逓信省には一年先輩の日本分離派建築会の山田守もいた。ブルーノ・タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を,モダニズムの傑作と讃えた。大阪中央郵便局も吉田の手になる。戦後は日本大学で教鞭をとった。Das Japanische Wohnhaus』(1935年)『Japanesche Architektur』(1952年)『Der japanische Garten』(1957年)などドイツ語の著作でヨーロッパに知られる。

[9] 曽禰達蔵(一八五三~一九三七)。工部大学校造家学科卒業,辰野金吾ら第一期生四人の一人。三菱オフィス街の基礎をつくった。

[10] 中條精一郎(一八六八~一九三六)。東京帝国大学造家学科卒業。日本郵船ビル,明治屋ビル,講談社ビルなど曽禰達蔵とともに都市事務所ビルの設計によって,都市景観の創出に大きな役割を果たした。慶応技術大学図書館(一九一二)は重要文化財。長女は宮本百合子である。

[11] 建築構造学。東京帝国大学建築学科卒業。安田講堂など京大キャンパス内の建築を多く手掛ける。一九四三年に第十四代東京帝国大学総長に就任(一九四五年十二月),学徒出陣を命じている。

[12] Lombard Street。ロンドンの金融街いわゆるシティThe Cityにある英国銀行から東へ三百メートルほどの通り。十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放した後から北イタリア,ロンバルディア商人が移住し,貿易とからめ両替・為替業を営んだことに由来する。

[13] 市区改正とは今日でいう都市計画(あるいは都市改造事業)のことである。都市計画Town Planningという言葉もそう古いわけではない。ロバート・ホーム(『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳アジア都市建築研究会,京都大学学術出版会,2001年)によれば,英国で最初に用いられたのは一九〇六年であり,少し先駆けてオーストラリアで活躍した建築家J.サルマンの「都市の配置Laying out of the City」(1890)が都市計画の最初の論文だという。日本では大正期に入ると都市計画という用語が一般的に用いられはじめ,1919(大正8)年に都市計画法が成立する。