建築ジャーナリズムの戦後50年,旭硝子株式会社,対談 平良敬一・布野修司,GA,1995SPRING
https://drive.google.com/file/d/10pNDJZF0IJOiBKHKI0kwxsc1nMLE46TF/view?usp=sharing
建築ジャーナリズムの戦後50年,旭硝子株式会社,対談 平良敬一・布野修司,GA,1995SPRING
https://drive.google.com/file/d/10pNDJZF0IJOiBKHKI0kwxsc1nMLE46TF/view?usp=sharing
初めての日本
末吉先生に1985年、ドーシ事務所で初めて会った。「Okinawa is not Japan.」と言われて、日本の歴史を十分知らない私は驚いたことがあった。インドから初めて出て、新居と一緒に那覇にたどり着いたのは1986年6月末だった。ムンバイより暑かった。先生のおかげで事務所からすぐ海の向こうの両親と連絡が取れて、無事日本に着いたことを知らせることができた。思い掛けないスピードで、はっきりと会話ができる環境に圧倒される私を見て、
先生は「This is Japan!」と言って笑った。先生のこの言葉は後々自分の中でよく繰り返したものだった。
先生に挨拶した後すぐ、私たちは東京へ飛んで一年余り東京の建築設計・コンサルタント事務所でお世話になった。私にとって初めての外国での暮らしだった。日本語、漢字、木造建築、日本の会社や和風空間のしきたりに戸惑いや驚きがたくさんあった。その後、新居と一緒にもう一度沖縄で先生、後藤さんやご家族に三年間、大変お世話になった。沖縄の将来を考えながら建築を通して地域と人々のアイデンティティの意識を高める先生の地域つくりに感銘する。地域に向き合い、建築家の役割を考えるという姿勢は、私にとって貴重な経験だった。日本に暮らすアジア人として、沖縄での暮らしは自分のルーツを探るきっかけにもなった。
建築ジャーナリスト平良敬一さんと末吉先生。私がいた時の事務所
1989年、北田英治さん撮影
毎日、東京の通勤時間の片道50分は日本語を勉強し、事務所の会話で言葉を耳になら
せ、帰りに英字新聞を読み、家でテレビのニュースを日本語で見ていた。この繰り返し
で日本語の会話を自流で学んだが、2000字の漢字勉強の恐ろしい壁をこえる意欲はわかなかった。
又吉家のプロジェクトを訳してインドの建築雑誌に紹介された。それ以外に石嶺中学校
に関しての文章を翻訳する時も先生の言葉の力に感動して、それが漢字の勉強 から逃げていた私の後押しとなった。全然足りないが、その頃の毎日一時間の漢字勉強が今までの生活の支えになっている。
ジェスチャーいっぱいの先生のビビッドな言葉や面白い話の中の知らない単語を必死に書き込んで、後で調べると単語が増え、建築、日本や社会文化のいろいろな要素の理解や矛盾を深めることができた。英語で翻訳されていた日本文学も紹介していただいたのが大変ありがたかった。
深く印象に残った「1フィート」の映画も知り合いのインドの映画監督夫婦パトワルダ
ンさんに送ったことがあった。インドの映画の図書館に保管されています。先生の時々優しくないユーモアが、「自分」を自覚し、活かす大切さも意識させられた。沖縄に行く途中で会った先輩の伊東さんの励ましによって理解ができたと思い、感謝している。
先生は私にインドのことを「…なんでやん?」と、いろいろ聞いてくれた。はっきりした答えがほとんど持っていなかった私は機会を見つけて、十分ではないが、母国のことを勉強してきた。ヴァラナシ―や仏教遺産も見てきた。子供にインドのことを伝えることでその意識はもう一歩深まった。長男は東工大で建築を学び、インドのジャイプルをテーマに修士設計した。今はインドのプロジェクトをすることを目指して、日建設計でグローバルデザイン部に務めている。次男は東京外大国際社会学部で南アジアを専攻したことで、インドの現在情報に触れることができる。先生の視野の影響が二世代以上にわたっていると思う。
子供二人と四人で2013年に沖縄を訪ねた時、新居は途中で徳島の現場に戻ることになった。先生は私が運転するレンタカーに乗ってくれなかったので、自分で子供とひめゆりの塔などを回ったが、説明は十分できなかった。その後次男は高校修学旅行で、もう一度沖縄へ訪ねる機会ができた。「一回訪ねただけで沖縄のことが全く理解できなかった。二回目でなんとかなった。」と言ってくれた。
1997年に先生と伊東さんが徳島を訪ねてくれた時
自身のルーツを意識
南インドのケーララ州出身の私は転勤家族だった為、ケーララに暮らす機会がなかった。沖縄での暮らしは貴重で、自分のルーツを探る良いきっかけになった。母はヴァスコダガマがインドに入った町、コジコード出身だ。夏休みに祖父を訪ねた時、道路に並ぶ高級住宅の高い壁の両側又は鉄扉に不思議なイギリス風のライオンを沢山見かけたことがあった。
沖縄のシーサのことを調べると歴史的な繋がりが見えてきた。仏教の教えを広げるためにアショーカ王がインドのいろいろな地域に建てた石柱とその上に座る獅子(サンスクリト語で「シンハ」)を作るためにペルシアから石職人を呼びよせたそうだ。日本の神社にも
見かける門の両側に立つ獅子、一頭は口を開けてサンスクリト語の最初の母音「あ」を言い、
写真5:2001年にコジコードで必死に探して見つけた屋上の獅子
もう一頭が口を閉じてサンスクリト語の最後の母音の「アム」を言っている。門でお釈迦の教えすべてを語り、内部を守っている現しだと。その後コジコードの町を訪ねた時、屋根のシーサを子供と一緒に見つけた。
沖縄のいくつかの方言で母を「アッマ」と呼ぶと先生に教えられた。自分の母を「アッマ」と呼んでいるので、びっくりしたことがあった。学習院大学の大野晋先生によると昔、稲作と一緒に南インドのタミル語が日本に渡ってきたそうだ。沖縄の方言に昔の日本語が結構残っているから「アッマ」の言葉もあると先生に教えられた。
ケーララ州に船の競争の「ハーリ」と同じ行事が毎年8月頃に行われる。向うの船は蛇の形に飾られていて、沖縄の方は竜で、文化の違いが現わされて面白い。私がこのような繋がりを見つけることを先生が「バッチャのジャパジャパジャポロジー」と笑っていた。あるいきさつで私は「バッチャ」と呼ばれるようになっていた。覚えにくい上に言いにくい名前だが、職人の集まりに新居と私は、「兄さん(新居)、ばあさん(ヴァサンティ)、皆家族やん!」と場面を盛り上げた先生の機転に驚かされたことがあった。
ケーララにはガジュマル、ハイビスカス、水牛や芭蕉布もあり、苦瓜、冬瓜や4時の花が懐かしかった。沖縄の暖かい気候と優しい人になじみ、思い掛けなくタクシーの運転手に与那原出身の人と間違えられたこともあった。
沖縄の暮らしがインドから徳島への心準備に
インドの生活から引き継いだ「人間は大きいな自然循環の一部だ」という環境意識は那覇
8月頃に行うケーララ州の船の競争が(写真上)沖縄の「ハーリ」(写真下)に似ている。
徳島で石井式合併浄化槽の設置を自分達の家から始め、設計した六軒の住宅で使わせていただいた。道路を通りかかる人も含め、浄化槽の再生水で沢山の人々を喜ばせるビオトープも自宅以外4軒に実現できた。これが徳島の吉野川の可動堰建設反対の活動につながった。林業、漁業、農業、酪農に関わっている地域の住民から具体的に学んだ自然の循環的仕組みや働きを私たちの設計に取り込む要素にし、住まい手が生活や庭空間から地域までその意識や感性を育てるような努力を続けている。
琉球新報に順番で書いていた新聞の記事に新居が川の話、私は樹木の話を書いた。今、両方の課題が私たちの仕事の原点となった。地域の木材を活かす大切さが伝統木造の循環的な知恵からダイナミックな軸組の理解まで道を広げた。地域に根差した、身心から再生できる木造空間を作り続けたいと思う。再生住宅の「丈六の家」を完成した時、日本建築士会連合会の「建築士」に書いた記事を先生に送った。電話で先生はその方向で続けるようにと、私達にとっては大変励まされる言葉を頂いたことを今も覚えている。
「デザインする」とはどういうことか?
日本建築学会の四国支部徳島支所長であった新居が2010年に徳島でシンポジウム「Back to the future from Asia-アジアの視座から地域建築の将来を照らす」を催した。末吉先生が皆さんに大変印象的な講演をして頂いた。その時、高校生の長男の壮真が先生に車のデザインを学びたいと相談したことがあった。「車の時代が終わった。」と一言で済ませた返事にショックを受けた。壮真は今建築の道を楽しんで歩んでいる。その講演会で先生は自分が「ウキウキした建築空間を作りたくない。考えるための静かな空間を作りたい。」と言ってくださった。
インドで牛や樹木と身近な暮らしだったが、那覇の末吉事務所で猫と共同生活はその状況をもっと肉体的に経験できた。今徳島で親が残してくれた庭を整理しながら修景している。指導して頂いている福岡の84歳の元気な庭師の先生から樹木一本一本の存在や生命を意識して、大切に扱わないといけないと教わっている。
最近緑や木材を飾りとしての扱い、物の本質を追及していない流行の建築を見ると先生がその道を避けるように指導するだろうと心から実感する。
写真上:2013年JIA四国・中国支部主催セミナーシリーズのイベントポスター、表と裏
写真下:2014年JIA四国・中国支部主催のセミナーシリーズのイベントポスター、表と裏
末吉栄三先生遺稿集寄稿文 2021/01/18
建築は思想である
-関大末吉研・インド・沖縄・徳島からの思念
新居照和
末吉先生が突然他界されてから2年が経とうとしています。人生は安易でないからか、師の言説や存在が昨日のように生きています。建築家を天職にすることの先生の励ましによって、その後も人生の師や友人に出会ってきたことを思い起こします。尊い縁をいただいた末吉先生をはじめ多くの師、諸先輩、友人たち、家族に感謝します。同時にそれに対して自身の生きる迫力の不甲斐なさを自覚し、精一杯生かせていただかねばと思うこの頃です。
学ぶ歓びを知る
高校までは自主的に勉強することに疎遠であった者が、大学入試時に東京に向かう飛行機で不思議な出会い方をした徳島大学の添田喬先生(後に学長になられた)から大学で学ぶ刺激を与えて下さり、学生生活をなんとなくは過ごせなかった。大学三年の頃、友人がいた末吉研究室を訪ねた。
末吉先生に出会ってから、学ぶことがとても面白くなり、向学心が芽生えた。建築を通して見る世界は広く大きく、時や場所を超えて生きる歓びが共有でき、生きがいのある仕事だという気持ちの高ぶりを持った。建築学科七期生の私たちにとって、末吉研究室の諸先輩は沖縄問題を核に社会問題意識が高く、学び実践活動をされていた。その環境は熱気があった。
原初に出会う
師に出会うということは、師が築かれてきた知が、自身の成長のプロセスで、精神、思考に刻まれること。壁に当たった時、人生の選択、自身の羅針盤を考える時、出会ってきた師の言葉が思い起こされる。
自身の中に一貫して残っている末吉先生が発してきた「建築は思想だ」という言葉とその姿勢がある。自身の仕事に向き合う時、何を考え、果たしてどれほど考えているのか、そして建築が、空間がどのような思想を発しているのか問わねばなるまい。
「思想とは」追い込まれた時にどう行動するかに表れると言われていたと思う。困難、壁に向き合った時どの道を選択するか、どの行動を選ぶかと聞かされたように思う。さらに以下の言葉が脳裏に残っている。
・「人は瞬間瞬間を、選択している」
・「人を観る時、その人の最高のところを評価すること」
・「地域を担うという気構え」
時々自己に問いかけている。
さらに研究室で語られていた言葉を思い出す。
・「深く掘り下げていくほど、裾が広がるものだ」
・「自身の成長に応じて相応の人に出会う。」異性の話だったが、自己を問うことになる。
・「毛沢東の実践論」という著作について触れ、内容は記憶にないが実践の大切さを語る。
ユーラシア建築・都市見学の旅
1978年末吉研究室でユーラシア大陸の建築や都市を見る旅に出ようと盛り上がった。庶民が初めて国外に容易に出られるチャンスを得、世界の様々な建築とその文化は、人類と未来への遺産であるという認識が実感する時代を迎えていた。建築に歩みたいものは見る必要があると、先生が焚付け、元気な研究室の仲間と、2、3か月から横山君の2年という様々な旅に出た。当時小田実著の「なんでも見てやろう」に励まされていた。
車が購入できる額、車と比べれば一生の糧になると、なんの躊躇もなく両親に旅費をせびった。あちこち寄るので分厚い航空券とトラベラーズチェックを腹巻きに入れて、行かせてもらった。カメラは先生の推薦で全員ニコンFMだったように思う。
初の海外、パリに降り立つ。都市や風景、公共交通機関のかっこよさ。市民社会と市民生活意識、ヨーロッパの様々な街や地域の美しい風景、ゴシック、ルネサンスの歴史建築、近代建築遺産等。日本は経済発展し調子に乗った雰囲気が流れる世相に見えて、文化意識のレベルの違いに圧倒された。
ローマから、エジプトに渡り、西アジアに。トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、そして南アジアへ。ヨーロッパをしのぐその大きな文明遺産に感動した。建築が歴史を語ってくれる。建築の中に見るすごい技術や人間の構想力。世界史が西洋史である矛盾。歴史は、現代文明覇者のストーリーであることを実感した。日本が欧米しか見ていない恥ずかしさも感じた。
エジプト、西アジアではアメリカ合衆国に対してとても厳しく見ていることを知る。戦車の地響きの音、銃口が向けられる。戒厳令が引かれたイラン革命の真ただ中を、外国人が引き上げている最中、無邪気に入国して行った貴重な経験。アフガニスタン、オアシス都市の破壊された巨大仏跡バーミアン、パキスタン。乾燥しきった陸路でカイバール峠から緑が広がる大地インドに入る。貧困を目の当たりにする。植民地でどれほどまで搾取されてきたかがわかる。インドは豊かな緑の大地であった。首都デリーに着いてから一人旅が始まった。現代的感覚ではなかなか理解できない偉大な建築遺産が横たわっていた。
日本に近づいたと感じたネパール。カトマンドゥに向かって、満員バスで屋根に乗せられポカラへ山中移動。その日は電気のない山村に泊まる。カトマンドゥで、川岸で死体が焼かれ、川に流される光景。人間は大地の一部だ。ルイス・カーン国会議事堂のバングラデッシュへ、旅行バッグだけがバンコックに行く事故。タイに着いて、3ヶ月あまりの旅を終えて帰国。偉大な大地、都市、土地の風景と建築空間に感動し、文明の大きさ、建築や都市の力、時間を超えた本物の建築を知る。
当時ゼミで名著ルイス・マンフォードの文明論やギーディオンの近代建築などを読んでいたが、実感できなく難しかった。帰国してから、内容がわかること、わかること。生き生きと想像できるようになった。新聞の世界情勢にも関心が行くようになった喜び感を覚えている。先生の指導のもと、その実経験でヨーロッパ近代建築をテーマにした修士論文「近代建築集合住宅計画思想の研究」を書き上げることができた。今思えば我が身の力では大きなタイトルでナイーブな論文だが、近代建築、さらに現代建築を考える上で、今なお自身の思考の礎になっている。修士課程修了と同時に先生は沖縄に帰られ、私たち同期は関大末吉研最後の学生になった。
自立的思考に立つ機会
旅行前、先生のインド留学の提案に共感し、修士課程修了後インドで学ぼうと決めていた。インドから留学依頼の返事が届かなかったので、末吉先生がこの旅の帰りに、インド・アーメダバードまで一緒に旅してドーシ先生に会ってくださるということで、頼っていた。ところがインドに着くなり、大学に早く帰らなければならないと突然先生は私に別れを告げた。自分一人で留学交渉ができると思っていなかったが、選択の余地はなかった。ドーシ先生が設立した建築学校、アーメダバードのschool of architectureがどこにあるのか、デリーの日本大使館に行って学校探しから始めた。大使館は協力してくれたが見つからず、そこからインド一人旅が始まった。不安だったがアーメダバードに行けばなんとかなると。今から振り返ると、自らの進路を見出していくのは当たり前。しっかりしなければならない出発点であった。ジャイプル、ウダイプルからアーメダバードへ、ドーシ事務所にたどり着いた。夕暮れ多忙なドーシさんに片言の英語で会えた時、今から打ち合わせがあるところに連れて行ってあげると、一緒にリキシャーに乗った。訪ねたお宅はル・コルビュジェが設計したショーダン邸であった。
インド留学へ
末吉研究室でのゼミに夢中になり、週末は先生、同僚とあちこち建築見学をしていた。大学院生であったが、職に就くことは考えられず、学ぶことに興味津々であった。「他大学に進学する選択肢もあるが、建築家になりたいなら、大学の研究室のようなところで型に入って窮屈になるのではなく、海外に出て、原初的経験をすることだ。今の年齢、感性や想像力を養うことが一番大事である」と言われた。
「日本人は欧米ばかり見ているが、第三世界と言われているところに身を置くこと。幸い費用は欧米留学のようにかからない。痛みを負った非西洋世界の観点から世界を観ること。アジアがいい。日本人はアジアに属しながらアジアを知らない。インドは素晴らしい建築・文化遺産と大きな矛盾を抱える大国。アーメダバードは建築を学ぶにおいてとてもいい環境で、ル・コルビュジェの弟子B.V.ドーシさんがクリエイティブな建築大学を創っている。この都市には20世紀巨匠のル・コルビュジェの4つの作品とルイス・カーンのインド経営大学がある。世界中から建築家や歴史家、学生が訪れている。」
インドのことはほとんど知らなかったし、言葉も準備していなかったが、とてもワクワクする話であった。その後どのようにして両親を説得したか覚えていないが、修士課程修了後、ビザがなかなか下りず、その間沖縄に帰られた末吉先生の事務所にお世話になって、1979年11月、アーメダバードの建築大学のキャンパスに立っていた。いつだったか、「建築家は言葉を知らなくても眼さえあれば大丈夫」「美しいと感じた時、なぜそう感じるのかそこから分析し、考えよ」インドに発つ前の先生の言葉が残っている。
七年間のインド遊学
最初の1年は酷暑と苦手な辛い食事で大変だったが、不慣れで言葉は不自由でもインドから学びたいという気持ちが助けたのか、キャンパスで多くの友達ができた。あちこちから人が集まる自由な雰囲気が漂うキャンパスで、教職員も寛容で放任的であった。インドは放置された(手がつけられていない)すごい建築遺産があちこちにあり、学生たちは休暇になれば、学校からバスが出て建築や集落の実測調査に出た。研究生だったので、積極的に参加した。
近年、突然その頃の友人たちと日本で再会できたり、建築活動のコミュニケーションができるようになった。40年近く経っての再会。当時は日本に国際電話をするには都市の中央郵便局に行ってかけざるをえない遠い国だった。現在インドは著しく経済発展をし、日本との物価格差も相当なくなった。当時18の建築の大学しかなかったのが、都市も拡大し今は500校近くある。ICTの発達で、お世話になった家族の関係者や多くの友人と再会できるようになった。さらに子供同士の二世代交流も始まっている。
留学当初2年ぐらい、わからないことが多くて何もできなかった。しかしいつも刺激的で何かがあると強く感じていた。途中、二度帰国したが、1979年から1986年まで7年間過ごした。一回目はA型肝炎を患い徳島大学病院に数ヶ月入院した。少し回復してから末吉先生を訪ね琉球大学でインド建築のことを喋った。
1年目は建築大学(CEPT)のキャンパスに居て精力的に旅に出た。2年目からはドーシ先生の研究所(SANGATH)に籍を置いた。インドに再入国した4年目からは再びキャンパスで、画家サグラ先生のもとで絵を描き始めた。ドーシ研究所で滞在許可を得ているにもかかわらず、変な日本人だと暖かく見守ってくれた。警察が私の身元を尋ねに来るようになった。2年後キャンパスで個展を開いていただき、新設の大学院美術科(KANORIA CENTER FOR ARTS)に籍をおいた。初代校長はドーシ先生であった。「修了証書に頼らない実力を備える場所だ」と言われていた。
留学中、末吉先生、後藤尚美さんが訪ねて下さる。ルイス・カーン設計のインド経営大学学生寮の前で。
インドの二人の師
当時のCEPTは大きな樹木の下にあるドーシ先生が設計したシンプルだが素晴らしい理念のある学び舎とキャンパスで、学生数は数百人もいなかった。ドーシ先生を始めルイス・カーンの弟子やドイツのフライオットーのスタッフなど著名な事務所の人も教えていた。ペンシルベニア大学やスイス連邦工科大学など海外からの短期留学生や世界的に著名な建築家や歴史家が時々訪れていた。本で見る歴史批評家のデニス・シャープ、ウイリアム・カーティスやケネス・フランプトンがひょっこりキャンパスに現れていた。そうした環境の中で言葉を操れない一番不自由な私を拾っていただいたのが、キャンパスにいる二人の巨匠、ドーシさんとサグラさんだった。
お二人はインド独立闘争の目撃者でもあり、その精神を持たれていることを感じていた。ドーシ先生は実質七年間のインド滞在の引受人になってくれた。サグラ先生は親しい友達のように扱ってくれ、師の傍で絵画の創作活動をしながら、様々な事を教えていただき、眼と思考の訓練をした。
ドーシ先生はインドの現代建築教育の礎を作った一人と言える。ル・コルビュジェとルイス・カーンの師弟関係で身近に接した世界で唯一の生存者かもしれない。インドの文化、伝統や地域性を掘り下げ継承しつつ、独立後の進むべき建築を模索し、地域から国家までのスケールの建築や都市の設計をしていた。2018年、建築のノーベル賞と言われるプリッツカー賞をインドで初めて受賞した。インド帰郷時はよくアーメダバードに寄って家族でドーシ先生宅にお邪魔し、いつも歓待していただいてきた。現在93歳。最近お会いしたのは90歳の時で、お元気で、相変わらず気さくで、目は鋭く、話はハッとさせられる。
インドに来て2年頃、徳島大学の添田先生がインド国鉄との研究プロジェクトで来印し、親から滞在費を持ってきていただいた。デリーでスリ集団にかかりその金を盗まれてしまった。その事態の重たさに途方に暮れていた時、ドーシ先生は「志を持てば諦めてはいけない。途中で諦めれば、次はその半分で諦める。最後は怖くて何もできなくなる」と諭され、住宅団地の比較研究していた研究所から設計スタジオに移りなさい。研究ビザで給料はいただけなかったが、設計スタッフとして非公式に給料をいただくようになる。バンガロールのインド経営大学やマドヤプラデッシュ州の電力公社の設計に従事させていただいた。そっと住宅の設計案を求められた時は嬉しかった。数年前、緑に覆われ大地に馴染んだ二度目のインド経営大学を訪ね、感慨深く回遊した。
サグラ先生と一緒に毎日絵を描くことに没頭していた。アトリエは、School of architectureのオープン・ベイスメントの教室だった。
ニューデリーの国立現代美術館を訪ねた時、サグラさんの作品の特別コーナーがあった。迫力ある眼と風貌のサグラさんは2014年他界した。以下、思い出されるサグラさんの言葉を列記したい。
・「ピカソの絵をピカソ以上に綺麗に描けても価値がない。人類が作ってきた美術の歴史に新しく1ページを増やすこと。芸術はそこに価値がある」
・「達していくと次第と孤独になるが、時間や場所を超えた人との会話が始まる」
・大家族を支え、大変な人生であると語られた時、「Life
is hard, but I love life」
・ロダンの言葉を引用して、「Live Like a
King. Think like God. Work like a Slave.」
・「考える人間は大都市から離れ、自分の時間を持っている」
・「一生懸命作ったいいキャベツは、都会で売って価値を持つ」
・「ジャンプするには棒が必要。しかしもっと高く飛ぶには棒を離さなければならない。その棒の役割が先生だ。」
私たちの結婚
ヴァサンティとは、彼女がドーシ先生の事務所に就職した1980年頃に出会った。1985年、両親にインドを旅行しないかと誘い、ヴァサンティと一緒に一ヶ月間、4人でインドを旅した。早朝ボンベイに着いた時、両親は目に入るあちこちのスラムにショックを受けたが、半月後は「動物たちも生き生きしているインドは面白い。日本に帰りたくない」と母が微笑んでいた。その足でヴァサンティの親が住むバンガロールに行って、両家が会い結婚をした。
そこに至るまでには支えてくださった方々と奇遇な縁があった。インドに来て2年ぐらい経った頃、この街で初めて日本人に出会った。東京大学でインド哲学を研究されている船津和幸さんとピアニストの恵美子さんご夫婦が留学で来られた。この土地に馴染むことに精力を使っていたので、お会いした時には日本語がスムーズに出てこなくなっていた。苗字も珍しい(徳島以外では)し、最初は日本人でないと思われていたらしい。その後とても親しくなり、兄姉のようにお世話になって、仲人にもなっていただいた。両親との旅は船津さんのアイデアだが、もう一人の立役者に医学者のラディウム・ダルワディさんがいた。
キャンパスで知り合っていた写真家ダルワディさんの奥様で、アジアから初の助教授として日本の大学に一年間赴任された。その大学が、徳島大学医学部であった。建設業を廃業して農業をしていた両親は生まれて初めて美しいサリーをまとうラブリーなインド女性に会った。田んぼまで来てくれたそうだ。そこでインド旅行を勧められたのだ。ヴァサンティの家族や親戚は高学歴で、日本大使経験者や欧米にもいて、日本人と結婚するのはさほど抵抗感はなかったらしい。しかし田舎の両親にとってはインドに来るまでは大変なことだったようだ。今思えば、両家の親はすごい。
アーメダバードで知り合った日本人といえばもう一人、弟分がいる。伊勢崎賢治さんで、早稲田大学吉阪隆正研究室の最後の学生で、スラムでソーシャルワークを学ぼうとアーメダバードにやってきた。タフな彼も最初は夏の酷暑に参っていて、キャンパスで一緒に過ごした。その後、彼はインド最大のスラム、ボンベイのダラビーに入っていった。伊勢崎さんは海外のNGOや国連などを渡り歩き紛争調停人として活躍され、現在、東京外大教授をしている。偶然次男がお世話になることになった。
帰国し、日本で生きる
インドから学ぼうと向き合ってきたが美術科を修了し転機がきた。先に帰国された船津和幸・恵美子さんから、私たち二人を雇ってくださると東京都心にある建築設計・コンサルタント事務所を紹介していただいた。ヴァサンティは日本語を全く知らなかった。船津さんご親族からも親身な暮らし支援をいただいた。深夜終電を降りて行列になるタクシー乗り場に走る日も続いたが、日本で生きていくための、ビジネス地での貴重な経験となった。
再び末吉研究室で
恵まれた師匠に支えられてきたので、自らが建築の道を歩まなければという思いがあった。二人は沖縄の末吉研究室で三年間お世話になる。ヴァサンティには、東京、沖縄、徳島と暮らし、日本を理解するいい経験となった。
当初、末吉先生からは「新居の成果はヴァサンティを連れてきたこと。私たちは難民だ」と揶揄された。インドでは学生身分で、エリート教育環境だったが、日本で実務や社会経験がほとんどない私たちが生きていくのは大変だと覚悟していた。先生の言葉は的を得ていた。
石嶺中学校が完成したばかりで、沖縄を背負う力作を体験した。現場経験をしたいという焦りはあった。三年間学校建築や集合住宅等、設計従事させていただいたが、現場の縁はなかった。先生が初めて沖縄で住宅設計された頃、「リンゴ箱の板でコンクリート型枠を作る程度の理解しかなかったが、独学で勉強していった。現場の経験をしていなくても勉強すればできる」と言われた。
印象に残る光景がある。石嶺中学校に森を作ろうと寄贈した苗木に水をやりに、運転手になって先生と二人で通っていた。雨が降りそうな時でも水をやりに行くことに幾分抵抗感をもった。しかし校長先生に会い、現場に立った時、戦争で首里のこの丘(本島全域だが)には樹木が一本もなかった光景が想像でき、想いを感じた。
末吉先生は昔から「地域で頑張ること」を言われていた。東京での生活後は、意識さえもてば日本のどこでも頑張れると感じていた。一ヶ月受験勉強の休みをいただき一級建築士を取得した後、ヴァサンティは馴染んだ沖縄から新しい地に、私は郷里徳島に帰った。
徳島で頑張る
処女作はアルプスの有明山と関係性を持つ高台の家で、信州大学に赴任した船津ご夫妻とご両親の二世帯住宅だった。寒冷地でかつ木造住宅は初めてだった。先輩の伊東真一さんや構造家北風幸祥さんの支援をいただき、インド留学時代建築家毛綱毅曠さんに知り合い紹介していただいた建設会社の地元下請け工務店さんが他業者の半額までコスト調節していただいて、実現した。施主の期待に応えるためにも、専門誌住宅建築に掲載していただいた。2000年新築2作目からも5作まとめて山や水、地域環境を意識した「循環型の住まいづくり」という40ページの特集を住宅建築が組んでくださった。徳島では全国誌の住宅建築に掲載されたからといって仕事がくるわけではなかったが、ふとしたご縁があって、一作一作妥協せず、師に恥じないよう精一杯頑張らせていただいた。
その後も専門誌が少なくなる時代まで、少ない仕事数の割には、様々な本に掲載され、応募を積極的にする余裕はなかったが建築賞もいただいた。2009年鹿島出版会から「名作再生住宅」という本が出て、三作紹介された時、時代はスクラップ&ビルトからストックが意識され始めたと感じた。作品受賞は日本建築家協会環境建築賞優秀賞、
日本建築学会作品選集、そしてアルカシア(アジア建築家評議会)建築賞を香港でいただいたのが、印象深い。拙作についてはよろしければ新居建築研究所のHPをご覧ください。
京都大学にいた布野修司先生が2002年から2年間日本建築学会建築雑誌の編集委員長になられ、編集委員に呼んでいただいた。特集「インドの建築世界」を組ませていただき励みになった。2002年エクスナレッジ社から出た「ル・コルビュジェ」の本に、インドの作品をヴァサンティと15ページ書かせていただいた。
徳島に住み始めた頃、添田先生宅に夫婦でご挨拶に伺った。「死に物狂いで頑張って、ふつう」と優しく言われたのが印象に残る。
地域で暮らす中で
地域に根ざし、建築を考えることは、地域の問題、課題に向き合うことで、その向こうに普遍的なテーマが横たわっている。木材生産地である徳島の山の問題、生活排水と地域の水環境を意識した設計への取り組み。地場の木材の生命力とそれを組む架構の力で、地域の風景や時間との関係性をつくり存在感ある生活空間を生み出すことを意識してきた。
1998年頃から徳島県の吉野川で、長良川河口の可動堰を上回る巨大可動堰のダム建設計画を住民が知るようになった。長良川可動堰を住民有志と見学した時、ヘドロがたまりシジミがいなくなった川と、川に人が近寄れない近代的構造に衝撃を受けた。大河が山と海を繋ぐ自然の循環を阻害される構造に危機感を持ち、多くの有志と川とその自然の仕組み、歴史や文化、河川工学等を勉強し、住民活動をしていくようになった。崇高で稀有なリーダー、姫野雅義さんを中心に疑問を持つ多くの住民・市民が働きかけた吉野川第十堰住民投票が、2000年徳島市で実現した。巨大国家事業に対し歴史上初めて建設にストップがかかった。特筆すべきこの住民運動は、建設反対運動ではなかった。住民が国に情報公開を求め、出来うる限り勉強し、政党色を排し、圧力や障害を越え住民の意思で賛否を決めるものだった。次世代に地域の自然の価値をと、志を継承する若者たちを中心に、川遊びを通じて子どもたちに今なお環境学習を行っている。
2017年日本建築家協会の全国大会が徳島で開催された。テーマは「建築家と土着」で、防災、環境、AIの3つのシンポジウムが核であった。その環境シンポを担わせていただいた。日本を七地域に分けるとはいえ画一化する国の省エネ法施策に対して、日本の多様性とその可能性があることを地域から発信しようした。吉野川流域の中・上流域に200あまり分布する傾斜地集落の環境の成り立ち調査を事例にし、次世代の環境建築を考えることを求めた。この調査は東工大で建築を学んでいた長男がこの地域の集落に関心を持ち行動していたことから始まった。小さい時から祖父母と田畑にでて遊び、吉野川の川遊び教室に行っていたのが、郷土や自然を思うことにつながっているようで嬉しい。
若い世代と接する
非常勤講師の縁もいただき、四国大学で30年、国立阿南高専で10年続き、若者と接している。台湾の中原大学から3年間、4名の長期インターン生が来た。学生の主体性と国際性に感心した。昨年は京都大学地球環境学舎からインターン院生が来て、問題意識を育んだ。それぞれ2ヶ月程の期間、土着のポテンシャルを活かした教育支援をすると同時に元気をもらった。学生たち、事務所から独立していった四人、時々来る短期インターン生を含め若い世代に接する時、これまで世話になってきた師や友人に対し未熟なりにも恩返しのようなつもりで、様々な興味をもたせ、志を励ませるようつき合ってきた。子育て、会計、設計作業に限らず、スタッフやインターン生と食を共にし、英語が母国語と同じのヴァサンティの力は大きい。若者は彼女の料理を手伝い、自宅や地場の食材を使う料理を楽しむようにしている。長期インターン生は一回若者の実家の家庭料理を披露している。
20年近く前、四国大学で学費と生活費稼ぎで朝方までアルバイトをする元気な元体操選手の中国人留学生、趙冲君がいた。授業で世界遺産級の世界の感動する建築を紹介していたら、ぐいぐいと授業を受けるようになった。将来はシェフと言っていた彼が大学院に進学したいと来た。滋賀県立大学に赴任された布野修司先生に相談したら、受験ができ受け入れてくださった。生活科学科に在籍していた彼は、授業についていくのに大変だっただろうが、布野先生が中国の都市や建築の調査研究を精力的にされていた時期で、博士号を取得するに至った。現在は中国国立福州大学で准教授をしている。彼の大学で行われた建築国際会議があって私たちは招待され、傾斜地集落調査にはドローンを持って応援にきてくれた。現在中国南部と東南アジアの集落調査をしながら、日本と中国の建築文化交流を頑張っている。
地域から新たに発信する
読み返すと時代は大きく変貌していることを改めて感じる。1970、80、90年半ばまでは、それなりの大変さはあっても、恵まれた時代の中にいたかもしれない。ずいぶん楽天的だったと映る拡大的成長期の余韻が残る時代から、徳島県では毎年7000人以上人口が減り続けている人口縮減と高齢化が進み、グローバル化による経済変動と一次産業を始め地域衰退が顕著になっている。世界的には大都市に人口が集中し、環境問題とともに、植民地にされてきた国々の経済は著しく発展し、人口も増え豊かさが拡がる一方、年ごと気候変動の影響は世界各地に深刻な災害をもたらし、コロナ禍でパンダミックにあえいでいる。
日本建築学会の作品選集選定委員や日本建築家協会の環境会議委員を務め、アルカシア(アジア建築家評議会)のグリーン・サステナブル建築委員会委員で活動していると、日常業務を超えた問題や課題が垣間見えて、危機感が増幅する。
環境危機の時代と言われ、災害、食料、格差貧困等、今後問題はますます大きくなるだろうと予測されている。どのような世を生きていくか選択が突きつけられ、新たな構想力が問われてくるだろう。ビジネスの規範がSDGsやグリーン・エコノミー、あるいは循環的成長というパラダイムシフトが強く求められている。建築においては、さらなる耐震性、脱炭素化とグリーン建築、レジリエンス、空気環境といった設計、技術課題は否応なく求められてきている。
これまで多くのご縁や支援をいただいてきた。経験は想像力の源泉になったはずだ。キャンパスでサグラ師は「What is your sword ? −あなたの刃(闘う武器)は何か」と絵を前に語っていた。絵が描けず絵筆が止まってしまう時、「You
know everything」意味深に前に進めとよく励まされた。数年前だったか、ドーシさん宅で「その土地、時代で何ができるか考えよ。ル・コルビュジェもルイス・カーンもそうであった」と語られた。インプットからもう一歩足元を掘り下げ、力強いアウトプットへ、年齢的にも正念場が来ている。パートナーと共に、「人と自然の豊かな関係性を再構築する」という問題意識と行動に磨きをかけ、建築言語としての「空間や場所に、これからの時代に対し、人が生きる新たな構想力のある世界観を生み出せるか」建築に没頭することに努めたい。
https://journals.openedition.org/ebisu/4842
Ebisu
Études japonaises
57 | 2020
Les architectes de l’ère
Heisei (1989-2019). Rôles, statuts, pratiques et productions
![]() |
Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi- technocrate ou community architect ?
Diffractions of the
Architect: Artist, Archi-Technocrat, or Community Architect?
Shūji
Funo
Traducteur
: Mathieu Capel et Amira Zegrour
Édition électronique
URL : http://journals.openedition.org/ebisu/4872 DOI : 10.4000/ebisu.4872
ISSN : 2189-1893
Éditeur
Institut français de recherche sur le Japon à la Maison
franco-japonaise (UMIFRE 19 MEAE-CNRS)
Édition imprimée
Date de publication :
15 décembre 2020 Pagination : 23-81
ISSN : 1340-3656
Référence électronique
Shūji Funo, « Portrait diffracté de l’«
architecte » : artiste, archi-technocrate ou community
architect ? »,
Ebisu [En ligne], 57 | 2020, mis en ligne le 20 décembre 2020,
consulté le 04 février 2021. URL : http:// journals.openedition.org/ebisu/4872
; DOI : https://doi.org/10.4000/ebisu.4872
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© Institut français de recherche sur le
Japon à la Maison franco-japonaise
RÉSUMÉS | 要 旨 | ABSTRACTS | 483
Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi-technocrate ou community architect ?
Funo Shūji
拡散する「建築家」像―
アーティストか ? アーキ・テクノクラ―トか ? コミュニティ・アーキテクトか?
布野修司
Diffractions of the Architect: Artist, Archi-Technocrat,
or Community Architect?
Funo
Shūji
Mots-clés : mafia de l’architecture
internationale, CAD/CAM/BIM, community architect, réhabilitation, Fukushima, design-build, super zenekon, design de la planète
L’auteur
: Funo Shūji est professeur in- vité à l’université Nihon et architecte ur- baniste. Après
l’interruption de son doc- torat à l’université de Tokyo, il a enseigné
dans les universités Tōyō, de Kyoto et préfectorale de Shiga, dont il devint vice- président et administrateur. En 1991, il reçoit le prix de l’Institut d’architecture du Japon pour
son étude sur la transfor- mation du milieu
de vie en Indonésie.
Résumé : L’ère Heisei définit
une époque appelée les « trois
décennies perdues » où
la place du Japon dans le monde n’a cessé de décliner.
Le passage du scrap and build (démolition-construction) à la
réhabili- tation, comme la succession des catas-
trophes, notamment le grand séisme de la côte Pacifique du Tōhoku, ont ébranlé
les fondations mêmes
du monde archi- tectural japonais
où le monopole gran-
dissant des super zenekon ne laisse plus de place aux architectes pourtant
actifs à l’international. Par ailleurs,
des commu- nity architects, dont le travail se base sur le
territoire local, ont émergé sans s’établir vraiment. Le concept d’«
architecte », né à l’ère Meiji,
perd de son autorité pen- dant cette période, diffractant plutôt
le portrait de l’architecte idéal.
Ebisu 57 |
484 | RÉSUMÉS | 要 旨 | ABSTRACTS
キーワード
国際建築マフィア、CAD/CAM/BIM、コミュニティ・アーキテクト、リノヴェーション、 フクシマ、デザイン・ビルド、スーパーゼネ コン、地球のデザイン
著者
布野修司:日本大学特任教授。工学博士(東京大学)。建築計画学。東京大学助手,東洋大学
講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職。『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞(1991 年)。
要旨
平成は、グローバリゼーションと情報伝達技
、Keywords:
International Architecture Mafia, CAD/CAM/BIM, Community Architect,
Rehabilitation, Fukushima, Design-Build, Super Zenekon, Design of the
Planet
The Author: Funo Shūji is a visiting
pro- fessor at Nihon University
and an urban designer.
After leaving his University
of Tokyo PhD, he worked at the Tōyō and Kyoto universities, and the University of Shiga Prefecture where he became vice-pre- sident and administrator. He is the winner
of the 1991 Architectural Institute of Japan Prize for
his research on the
transformation of Indonesia’s living environment.
Abstract: Known as “the three lost de- cades”, the Heisei era saw the persistent
decline of Japan’s place in the world. Like
the series of disasters of the time,
including the major earthquake
off the Pacific coast of Tōhoku, the shift from “scrap and build” to rehabilitation shook the very foundations of Japan’s architec- tural realm, as architects – despite their activities abroad – no longer had
their place against
the growing monopoly of the super zenekon (contractor giants). Meanwhile,
community architects working on Japanese
soil emerged but without truly taking root. It was during this period,
therefore, that the concept of “architect”, dating back to the Meiji era, lost its authority, thus diffracting
the ideal portrait of the architect.
Lorsqu’on pose un regard rétrospectif sur les architectes de l’ère Heisei 平成(1989-2019) – leurs rôles, leurs positions sociales, leurs pratiques (leurs œuvres) et leurs productions (leurs réalisations) – la première question qui se pose est celle de la périodisation : il est difficile de segmenter l’histoire de l’architecture en fonction du règne des empereurs car elle ne peut pas toujours être décrite en fonction des vicissitudes d’un État ou d’une dynastie. Les époques historiques accompagnant le développement des techniques constructives, surtout depuis la révolution industrielle, sont plus aisément concevables dans une perspec- tive globale qu’à l’échelle d’un pays. Néanmoins, on trouve au Japon des divisions comme « l’architecture de Meiji (1868-1912) » (Meiji kenchiku 明治建築) et « l’architecture de Taishō (1912-1926) » (Taishō kenchiku 大正建築).
Les notes de la rédaction
(N.D.L.R.) sont rédigées par les coordinatrices du numéro.
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** Architecte urbaniste,
professeur invité à l’université Nihon.
Ebisu 57
| 2020 |
p. 23-81
En 1972, Hasegawa Takashi1 retrace de façon vivante
l’histoire de l’architec- ture moderne au Japon selon une périodisation semblable. En d’autres
termes, la transition depuis l’ère Meiji – qui
voit les techniques architecturales de
l’Occident intégrées
aux objectifs nationaux
(bunmei kaika 文明開化2,
shoku- san kōgyō 殖産興業3) – jusqu’à la « Démocratie Taishō » (Taishō demokurashī 大正デモクラシー) – moment de l’affirmation individuelle des architectes – peut être décrite en tant que période
de l’histoire de l’architecture.
Cependant, l’ère Shōwa 昭 和 (1926-1989) ne peut manifestement pas être considérée d’un seul bloc. En effet,
l’histoire de l’architecture connaît une coupure
nette entre les périodes d’avant-guerre et de guerre.
De même, l’après-guerre de Shōwa ne peut être envisagé d’un seul tenant. Les années 1960, où l’architecture est en plein
essor depuis la reconstruc-
tion d’après-guerre et pendant la Haute croissance, et les années 1970, où se succèdent deux chocs pétroliers
(1973 et 1979), présentent des aspects complètement différents. De nouveau, à
partir de la fin des années 1980, la bulle
économique propulse le Japon parmi
les premiers rangs
mondiaux (Japan as Number One4). Puis, la bulle éclate.
Le début de l’ère Heisei
correspond à une phase de grande transformation dans l’histoire mondiale.
Même s’il ne s’agit que de coïncidences, la chute
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1. Hasegawa Takashi 長 谷 川 堯 (1937-2019),
architecte et historien de l’architecture, spécialiste de Murano
Tōgo* 村野藤吾 (1891-1984), a publié en 1972 l’ouvrage Shinden ka gokusha
ka 神殿か獄舎か (Temple ou prison ?), examen de l’architecture et de la ville
modernes,
qui a eu un fort retentissement dans le monde de l’architecture. Ce livre réé- value l’importance des détails,
des sensations tactiles, critique la recherche d’une monu-
mentalité visuelle par des architectes au service du pouvoir national
(Tatsuno, Tange, Isozaki) et a été réédité en 2007. (N.D.L.R.)
2. Expression formée avec les mots bunmei 文明 (civilisation) et kaika 開化 (ouverture), il s’agit d’un slogan utilisé pendant
l’ère Meiji pour désigner le mouvement d’adoption des techniques et coutumes occidentales, considérées comme modernes. (N.D.T.)
3. Expression qui désigne
la politique de création d’activités industrielles modernes
dans la première moitié de l’ère Meiji. (N.D.T.)
4. En 1979, la sortie de Japan as Number One d’Ezra Vogel a beaucoup fait parler
(Vogel 1979). L’ouvrage prend
pour objet le Japon, la reconstruction d’après-guerre et le miracle économique, en saluant sa gestion dans le sous-titre : « Leçons
pour les États-Unis ».
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* Les mots suivis d’un astérisque renvoient au lexique
situé à la fin du dossier.
du mur de Berlin
a lieu en 1989, première
année de l’ère Heisei, puis la dis- location du Parti communiste de l’Union soviétique, en 1991. Bien sûr, fin
de la guerre froide et histoire architecturale ne sont pas liées directement, mais il est certain
que l’activité internationale des architectes s’est
accélérée dans les années
1990. De nombreux
architectes étrangers ont l’opportunité
de construire au Japon, alors qu’une nouvelle génération japonaise, avec Andō Tadao* 安藤忠雄 (né en 1941) ou Itō Toyō* 伊東豊雄 (né en 1941), étend son champ d’activités au monde entier.
D’autre part, Heisei
subit le séisme de Hanshin-Awaji en 1995 et celui de la côte
Pacifique du Tōhoku en 2011. Soixante-six ans après
avoir fait face
à l’anéantissement de Hiroshima
par une bombe atomique, le Japon à nouveau s’est
trouvé à Fukushima devant des lieux
vidés de leur population à la suite
d’un accident nucléaire. Des villes qui, après-guerre, se sont relevées
de leurs ruines,
se retrouvent de nouveau
réduites à l’état de débris,
ce qui remet fondamentalement en question l’activité des architectes de la période.
En résumé, le début de Heisei représente une profonde rupture
au Japon, et également dans une
perspective globale. Nous ne pouvons
pas dire à ce stade si 2019 marquera
une rupture aussi profonde. La crise bancaire
et financière de 2008, puis la
politique menée par
Donald Trump, ont peut-être déjà ouvert une
nouvelle période. En promouvant « America First
» dans sa politique internationale, l’administration Trump aux États-Unis a en effet
inauguré une nouvelle
ère de montée de l’isolationisme puis du nationalisme, qu’illustre le Brexit
au Royaume-Uni.
Même si cet article se concentre sur les
« architectes » de l’ère « Heisei »,
nous remonterons aux origines, à l’introduction même
du concept d’« archi-
tecte », et reviendrons sur l’histoire de l’architecture moderne
au Japon.
L’instauration
de la profession d’architecte au Japon et son histoire com- mencent avec
la création de l’Institut de construction de maisons* (Zōka gakkai 造 家 学 会 ) en 1886. À la suite de la proposition
d’Itō Chūta* 伊 東 忠 太 5 (1867-1954), invitant à se questionner
sur la notion même d’architecture (Itō 1894), cet
organisme change de nom en 1897 pour devenir
l’Institut d’architecture* (Kenchiku
gakkai 建築学会), avant de prendre en 1947 son nom actuel,
l’Institut d’architecture du Japon*
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5. Pour plus d’informations sur Itō Chūta
et l’histoire mondiale
de l’architecture ja- ponaise, voir Jacquet
Benoît 2015, « Itō Chūta
et son Étude architecturale du Hōryūji (1893) : comment
et pourquoi intégrer
l’architecture japonaise dans une histoire
mon- diale », Ebisu. Études
japonaises, 52 (Patrimonialisation et identités en Asie orientale). https://journals.openedition.org/ebisu/1615 (dernière consultation en mars 2020). (N.D.T.)
(Nihon kenchiku
gakkai 日本建築学会) ; nous pouvons
donc penser qu’à ses débuts, le Zōka gakkai visait à devenir une association professionnelle d’« architectes ». Le comité fondateur6,
composé de quatre membres
dont Tatsuno Kingo, est rejoint par vingt-six personnes ayant quitté
la Société d’ingénierie (Kōgakukai 工学会, 1879). Son règlement prend pour modèle celui du Royal
Institute of British
Architects (RIBA, 1835)
et de l’Ameri- can Institute of Architects (AIA, 1857). Bientôt,
l’Institut d’architecture du Japon
change complètement d’orientation. L’affirmation selon
laquelle « les architectes japonais devraient être
principalement et nécessairement des techniciens à vocation scientifique » s’impose. Néanmoins, il s’agit d’une organisation relative à
l’architecture unique au monde, qui promeut à la fois la science, la technique et l’art.
Renforçant son caractère académique, l’Institut d’architecture est à
l’origine
de la création d’une association professionnelle des architectes indépendants au Japon
: l’Association nationale des architectes (Zenkoku kenchikushikai 全国建築士会), fondée
en 1914 par douze personnes dont Tatsuno Kingo7,
avant de devenir l’année
suivante l’Association des architectes du Japon (Nihon kenchikushikai 日本建築士会). C’est
Josiah Conder qui établit le premier bureau
d’architecture au Japon
en 1888. Il est connu pour avoir dispensé
une formation architecturale extrêmement pragmatique à l’École
supérieure d’ingénierie (Kōbu daigakkō 工部大学校). Pour être précis, c’est en fait Tatsuno Kingo, son élève, qui a créé cette
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6. Ces membres
fondateurs sont Kawai Kōzō 河合浩蔵 (1856-1934), Tatsuno Kingo* 辰野金吾 (1854-1919) et Tsumaki Yorinaka 妻木賴黄 (1860-1916), anciens étudiants de Josiah Conder* (1852-1920) à Tokyo ayant fait des séjours d’étude à l’étranger (respec- tivement en Allemagne, en Angleterre et aux États-Unis). Ils ont dessiné les bâtiments abritant les nouvelles
institutions du Japon moderne. Kawai était actif à Kobe et Osaka,
Tatsuno a dessiné la Banque du Japon (1890) et la gare de Tokyo (1914), Tsumaki, le pont Nihonbashi (1911). Le quatrième,
Matsugasaki Tsumunaga 松ヶ崎萬長 (1895-1921) a étu- dié
l’architecture à Berlin,
est rentré au Japon en 1895, puis s’est installé
en 1907 à Taiwan,
alors sous domination japonaise depuis 1895, dont il a dessiné les gares.
(N.D.L.R.)
7. Avec Tatsuno, on
trouve Sone Tatsuzō 曾禰達蔵 (1853-1937), disciple de Josiah
Conder, architecte au service de l’université Keiō et de Mitsubishi ; Chūjō
Seiichirō 中條精一郎 (1868-1936) qui a conçu des immeubles de bureaux ; Nagano
Uheiji 長野宇平治(1867-1937), disciple
de Tatsuno et concepteur de nombreux établissements bancaires ; et Mitsuhashi Shirō 三橋四郎
(1867-1915), concepteur de nombreux
consulats du Japon et autres bâtiments
de l’administration impériale. (N.D.L.R.)
première agence. Après avoir travaillé au
Royaume-Uni, Tatsuno loue le deuxième étage d’une fabrique artisanale de papier à Kyōbashi Yamashitachō (Tokyo), pour y commencer en 1886 des activités de concep-
tion architecturale. Il est immédiatement accueilli comme professeur invité au département d’ingénierie de l’université impériale (Teikoku
daigaku 帝国大学) – dont il devient plus
tard président –, ce
qui le conduit à fermer son agence. Il démissionne de son poste en 1902 et fonde,
à Tokyo, Tatsuno and Kasai Architects en 1903 avec
Kasai Manji 葛西万司 (1863-1942), puis à Osaka, Tatsuno and Kataoka Architects en 1905 avec Kataoka Yasushi
片岡安 (1876-1846)8. L’Association des architectes du Japon voit le jour dans ce contexte.
Elle a pour objectif, direct
et concret, l’adoption de la loi sur les archi-
tectes (kenchikushi hō 建築士法), qui cependant n’est pas promulguée avant la
guerre du Pacifique. Soumise à plusieurs reprises à la Diète impériale dans les premières années
de Shōwa, cette
loi rencontre en effet l’opposi- tion des zenekon* ゼネコン (entreprises de construction générale), qui reven- diquent le cumul
des travaux de conception et de construction9. Elle est finalement promulguée en 1950, mais en tant que loi de certification pro- fessionnelle, et non
cadre légal d’exercice du métier. Aujourd’hui, il n’existe encore
aucune définition légale
de la fonction d’architecte au Japon.
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8. Taki Daikichi 滝大吉 (1861-1902) et Yokogawa Tamisuke 横川民輔 (1864-1945) ont pris la suite à l’agence de Josiah Conder en 1890. Des années
1890 au xxe siècle, Chūjō Seiichirō, Sone Tatsuzō, Kawai Kōzō ou encore Mitsuhashi Shirō, ainsi que d’autres comme Yamaguchi Hanroku
山口半六 (1858-1900), Itō Tamekichi 伊藤為吉(1864-1943) ou Endō Oto 遠藤於菟 (1866-1943), ont établi des bureaux d’architecture indépendants.
9. Le projet de loi sur les architectes, visant à donner un fondement
institutionnel à la profession, est présenté pour la première
fois en 1925, à la 50e assemblée de la
Diète impériale, où il est rejeté en raison de nombreuses oppositions. Par la suite, il est présenté à nouveau
et rejeté onze
fois de 1926
à 1940. Le problème principal résidait dans l’article
6, interdisant le cumul des travaux de conception et de construction :
« Les fonctions d’un architecte sont les suivantes, sans y être limitées dans le cas de
l’approbation de l’Association des architectes du Japon : 1) entrepreneurs en génie civil
;
2) commerce
et industrie liés aux matériaux de construction ». La plus grande force d’opposition était celle des entreprises de construction (Funo 2000).
II. 1. À partir des ruines :
l’architecture humaniste
Hiroshima et Nagasaki, ravagées en un instant par les bombes atomiques, deviennent les symboles du Japon en ruine d’après-guerre (fig. 01). À Tokyo, cible de plus de cent bombardements à partir de novembre 1944, plus d’un million de personnes sont sinistrées à la suite du raid du 10 mars 1945, suivi de quatre attaques aériennes massives en avril et en mai. Dans tout le Japon, 430 municipalités sont frappées.
Fig. 01
Tokyo en ruine, 10 mars 1945.
Photo : Ishikawa Kōyō
石川光陽 (1904-1989) 1945.
Afin de comprendre les objectifs que les architectes se sont fixés
face aux ruines, on peut se référer à l’ouvrage du critique Hamaguchi Ryūichi 浜口隆一(1916-1995) publié en 1947 : L’architecture humaniste. Retour
réflexif sur l’architecture moderne du Japon et perspectives, ainsi qu’à la charte
de l’Union nouvelle des architectes du Japon (Shin Nihon kenchikuka shūdan 新日本
建築家集団, New Architects’ Union
of Japan [NAU],
fondée en 1947),
à la formulation aussi limpide qu’un slogan.
2) être produite
conformément au fonctionnalisme (kinō shugi
機能主義) ;
3) posséder un haut niveau technique (métal, verre, béton,
etc.) ; 4) être
nécessairement belle et de style international. Ensuite,
en mettant l’ac- cent sur le logement
et les bâtiments publics, il questionne le logement
![]() |
10. Dans l’ensemble, on pourrait dire que cet ouvrage est une
affirmation simple du fonctionnalisme et de l’humanisme en architecture mais,
après avoir présenté la position historique de
l’architecture japonaise moderne, la question de son style et de l’archi-
tecture commémorative pendant le régime militaire (chapitre 1), le
développement historique de l’architecture moderne en Europe (chapitre 2) et
celui de l’architecture moderne japonaise (chapitre 3), l’auteur se penche sur
l’architecture de l’après-guerre et ses perspectives (chapitre 4).
minimum et la production industrielle des logements11. Les règles de l’ar- chitecture moderne selon Hamaguchi (soit une architecture fonctionnaliste et pour le peuple) ont ouvert un débat sur l’opposition entre « marxisme
» et « modernisme » en architecture, plus tard appelé
« controverse de l’ar-
chitecture moderne12 ». Les revendications de Hamaguchi
semblaient peu énergiques du point de vue des réformes des systèmes de production et de
contrôle de l’architecture (Charte de la NAU). La question
de la continuité ou discontinuité entre l’avant et l’après-guerre dans le cadre de l’architecture japonaise moderne est réexaminée à partir des années
1970. Cependant, aux débuts de l’architecture d’après-guerre, de nombreux architectes par- tagent les orientations de Hamaguchi et ses objectifs, qui concrétisent selon
eux « l’architecture
moderne ».
La pénurie de logements est alors estimée
à 4,2 millions, dont 2,3 mil-
lions d’habitations endommagées, une situation aggravée par le retour des rapatriés depuis les zones de conflits
et la croissance démographique. Une grande
part du travail
des architectes concerne
la construction de loge- ments, donc d’abord
leur conception. Un certain
nombre de courants appa- raissent
: des architectes élaborent divers modèles de maisons individuelles minimum13 ; d’autres14 se préoccupent d’industrialiser la
production du logement ; ou bien de planifier l’habitat
collectif (shūgō jūtaku 集合住宅) dans le but d’offrir des logements publics
tels que le « 51C » (1951nen
C-gata 1951年C型 [type C de 1951])
15 ; on trouve aussi
des tentatives pour
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11. Pour une analyse
critique détaillée de Hamaguchi (1947),
voir Funo (1981),
dont on peut
trouver un résumé
dans les vingt
premières pages de Hamaguchi (1994).
12. À la sortie de son livre, il y avait déjà eu débat entre Hamaguchi et Zushi Yoshihiko 図師喜彦 (1904-1981) autour de la définition de l’architecture moderne
dans la Revue
architecturale de la NAU. Par la suite se sont joints aux discussions Satō Saburō 佐藤三郎(1912-2006), le critique
et historien de l’architecture japonaise Kōjiro Yūichirō 神代雄一郎 (1922-2000) ou encore Nishiyama Uzō 西山夘三 (1911-1994), professeur à l’université de Kyoto.
13. Tels que le logement minimum
(saishōgen jūtaku 最小限住宅) de Masuzawa Shun 増沢旬 (1925-1990) ou le logement
minimum en volume
(rittai saishōgen jūtaku 立体最小限住宅) d’Ikebe Kiyoshi 池辺陽
(1920-1979).
14. Comme Hirose
Kenji 広瀬鎌二 (1922-2012).
15. Yoshitake Yasumi 吉武泰水 (1916-2003) ou Suzuki Shigebumi
鈴木成文 (1927- 2010) élaborent divers
modèles de logements dont le plus
petit : le « 51C
» (12 tsubo,
organiser l’offre
de logements par les habitants eux-mêmes, grâce à des coo- pératives d’habitations soutenues par
les mouvements de mal-logés.
L’architecture japonaise d’après-guerre démarre
véritablement grâce au « boom de la construction » dans le contexte
de forte demande
due au déclenchement de la guerre de Corée en juin 1950. Ainsi, dans les années 1950 et 1960, une architecture moderne est
concrètement édifiée au Japon. Le musée du mémorial de la Paix à Hiroshima de Tange Kenzō*
丹下健三 (1913-2005), inauguré en 1955, en symbolise le point de départ.
Ce bâtiment, construit à
l’hypocentre de l’explosion atomique, signale,
à l’intérieur comme à l’extérieur du pays, la reconstruction du Japon et son retour dans la communauté internationale. Après la proclamation par Le Livre blanc de
l’économie (Keizai hakusho 経 済 白 書 ) en 1955 que le pays « est désormais sorti de l’après-guerre », le Japon entre
alors dans une période de forte croissance économique.
C’est
dans les cinq années qui ont suivi
la défaite que le cadre
institution-
nel régulant en grande partie
l’architecture après la guerre est mis en place.
Avec les efforts pour améliorer les capacités des entreprises du bâtiment et ajuster les contrats de travaux de construction, leur exécution convenable est assurée, tout en protégeant les entrepreneurs et les sous-traitants grâce à différentes lois
: sur l’industrie du bâtiment (kensetsugyō hō 建設業法), promulguée en 1949 dans le but de promouvoir le bien-être public
; sur les normes
de construction (kenchiku kijun hō 建築基準法) en 1950, révisant
radicalement la loi sur les bâtiments urbains
(shigaichi kenchikubutsu hō 市街地建築物法) de 1919 ;
et enfin sur les architectes, promulguée en 1950. En réalité,
il aurait été également concevable qu’une loi sur les archi- tectes selon un modèle occidental soit promulguée sous le contrôle
du Commandement suprême des forces alliées (General
Headquarters) après la défaite. Le projet de loi sur les architectes et sur la gestion de la construction de bâtiments (kenchikushi oyobi
kenchiku kōji kanri
ni kansuru meirei
an 建築士及び建築工事管理に関する命令案) d’octobre 1946 proclame clai- rement l’« interdiction du cumul des activités entrepreneuriales » (kengyō
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soit environ 35 m²), est le plus
largement adopté. Sa caractéristique est de séparer
la pièce cuisine/repas (à l’origine du dining-kitchen [DK] actuel) et les pièces
de nuit.
no kinshi 兼業の禁止)16. Cependant, au cours des délibérations, la suppres- sion de cette mention
empêche la promulgation de la loi sur la profession d’architecte, laissant
place à une version concernant uniquement les qua- lifications requises pour obtenir
une certification professionnelle. Cela a mis un point final
aux mouvements en faveur d’une
législation régissant la profession, qui émanaient de l’Association des
architectes du Japon
depuis l’avant-guerre17.
Les architectes japonais
se divisent alors en plusieurs associations. L’Association des architectes du Japon est une organisation fondée en préalable à la loi sur les architectes. Pendant
la guerre, le Syndicat japonais de supervision et de contrôle de la conception architecturale (Nihon ken- chiku sekkei kanri
tōsei kumiai 日本建築設計監理統制組合), formé
en 1944 principalement par des membres
célèbres de l’Association des architectes du Japon, est réorganisé en 1947 pour devenir l’Association japonaise de ges- tion
de la conception architecturale (Nihon
kenchiku sekkei kanri kyōkai
日本建築設計管理協会). De cette dernière
est né l’Institut japonais des architectes en 1955. En résumé,
la structure actuelle
en quatre ou cinq
organisations professionnelles
(Institut d’architecture du Japon, Fédération japonaise des architectes [Nihon kenchikushikai rengōkai
日本建築士会連合会], Institut japonais des architectes, Association japonaise des bureaux d’architecture [Nihonkenchiku jimusho
kyōkai 日本建築事務所協会] et,
éventuellement, Association
japonaise de l’industrie de la construction [Nihon kensetsugyō kyōkai 日本建設業協会]) a pris forme
pendant et dans l’immédiat après-guerre.
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16. La question est de savoir
si l’entreprise de construction peut ou non tenir le rôle de maître
d’œuvre, c’est-à-dire concevoir le projet, et cumuler les fonctions de conception
et de construction, ce qui retire toute prérogative aux architectes. (N.D.L.R.)
17. Depuis la promulgation de la loi sur les architectes, le problème de la régulation de la profession est seulement posé par l’Institut japonais des architectes* (Nihon kenchi- kuka kyōkai 日本建築家協会), à l’exception de la Gokikai
五期会 (association fondée en 1956, principalement par de jeunes
employés des bureaux
d’études et des laboratoires universitaires).
II. 2. La décennie dorée des années 1960
Les
années 1960 représentent l’âge d’or de l’architecture japonaise. Des Jeux
olympiques de Tokyo en 1964 à l’Exposition universelle de 1970* à Osaka (Expo’70), dans un Japon s’affirmant comme
un acteur incontour- nable de la communauté internationale, apparaissent des architectes d’en- vergure mondiale, comme Tange Kenzō,
avec, à la tête du mouvement du Métabolisme*, Maki Fumihiko* 槇文彦 (né en 1928),
Kikutake Kiyonori* 菊竹清訓 (1928-2011), Kurokawa
Kishō* 黒川紀章 (1934-2007) ou Ōtaka Masato* 大高正人 (1923-2010).
Dans les années 1960, les architectes commencent à
se consacrer réso- lument à la ville,
comme l’illustrent, par exemple, le « Plan pour
Tokyo 1960 » (Tōkyō keikaku 1960 東
京 計 画 1960) de Tange ou divers projets urbains
du mouvement métaboliste18. Si Kikutake écrit :
« Nous ne faisons nous-mêmes aucune proposition. Ce sont la confusion et la paralysie
de la ville, ainsi
que les contradictions et l’inertie des architectes qui amènent les propositions19 » (Kawazoe 1960), « fabriquer la ville » implique d’élargir le domaine de l’architecture (en augmentant ainsi
les opportunités de travail),
et l’on pense que placer
la ville au centre des
préoccupations offre un nouvel
avenir pour l’architecture. Ce style,
imaginant le nouveau
domaine de l’ur- ban design pour repenser l’agencement physique des villes selon
le pouvoir projectuel des
architectes, en interroge la faisabilité sociale, économique et technique, et relève de celui des grands maîtres
des temps héroïques
de l’architecture moderne. L’image de l’architecte devient
celle d’un penseur qui plus est praticien, un être humain
total, « architecte du monde » dont
il est un dieu ordonnateur.
A contrario, c’est également dans les années 1960
que l’on commence
à prendre
conscience de la « crise des architectes » (kenchikuka
no kiki
建築家の危機). Il devient de plus en plus évident
que des projets
toujours
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18. Dont par exemple : « Marine City » (Kaijō toshi 海上都市), « Tower City » (Tōjō toshi 塔状都市) et « Ocean City »
(Kaiyō toshi 海洋都市) de Kikutake Kiyonori,
« Ville spatiale » (Kūkan toshi 空間都市), « Ville agricole » (Nōson toshi
農村都市) et « Ville mur vertical » (Suichoku kabe toshi 垂直壁都市) de Kurokawa Kishō,
« Plan du sous-centre de Shinjuku » (Shinjuku fukutoshin keikaku 新宿副都心計画) de Maki Fumihiko et Ōtaka Masato.
19. われわれが提案するのではない。都市の混乱と麻痺が,そして建築の矛盾と停滞が提案させるのだ。
plus complexes et colossaux ne peuvent être menés par un seul architecte.
Au début de la décennie, l’historien Muramatsu Teijirō
村松貞次郎 (1924- 1997) soulève plusieurs questions extrêmement provocantes au sujet des fonctions de l’architecte et du système
de conception. Après plusieurs
articles et enquêtes publiés
dans des revues
spécialisées, il conclut
qu’il faut
« favoriser la conception avec la construction20 » (Shinkenchiku, juin 1962). Une fois comparés plusieurs systèmes de conception – services de concep- tion au sein d’entreprises de construction, bureaux d’architecture privés, agences publiques, divers types d’entreprises de construction, laboratoires universitaires – il affirme que les bureaux d’architecture privés et les asso- ciations d’architectes ne font qu’idéaliser les architectes libres de « l’ère de la Renaissance qui a moisi en l’état » (kabi no haeta runesansu jidai sono mama カビの生えたルネサンス時代そのまま) ; quant aux entreprises qui cherchent à développer un service de conception et de construction en cohésion : là est l’avenir de l’architecture. Cela confirme que le conflit préexistant depuis l’avant-guerre entre les associations défendant la profession d’architecte et les entreprises du bâtiment se poursuit après-guerre. Une grande partie des affirmations de Muramatsu est contestée (Funo 1981), mais l’opposition structurelle entre les services de conception des zenekon et les architectes (agences d’architecture) persiste jusqu’à aujourd’hui.
20. Cette affirmation conclut
les articles suivants
: « Ashita o ninau kenchikuka » 明日を担う建築家 (Architectes responsables de demain, Kenchiku bunka 建築文化, février 1961) ; « Kensetsu-gyō no kenchikuka : karera koso ashita no kenchiku-kai no chanpion dearu » 建設業の建築家―彼らこそ明日の建築会のチャンピオンである
(Architectes de la construction : les champions des organisations professionnelles de demain, Shinkenchiku 新建築, novembre 1961)
; ainsi que la série de reportages qui a suivi
:
« Sekkei soshiki o saguru
» 設計組織を探る(À la recherche des systèmes de conception, in
Hamaguchi Ryūichi
& Muramatsu Teijirō, Shinkenchiku, novembre 1961-juin 1962).
II. 3. L’affaire de la Japan Fair Trade Commission (JFTC, Kōsei torihiki
iinkai 公正取引委員会)
Les temps changent fortement dans les années
1970. Les deux chocs pétro- liers provoquent la stagnation du secteur
du bâtiment jusqu’aux
années 1980. La courbe des constructions de logements au Japon montre clairement cette tendance. Les logements construits au début des années 1960 étaient d’environ 600 000 unités par
an (690 000 en 1963).
Pendant la période
de Haute croissance, ce nombre augmente
d’année en année pour atteindre, à la veille de la première
crise pétrolière, 1,91 million en 1973, avant de retomber à 1,14
million dès l’année suivante. Le léger rétablissement des années 1980
n’aboutit qu’à seulement 1,24
million en 1985.
Comme écrit plus haut, si l’on estime
à 4,2 millions de logements la pénurie dans l’im- médiat après-guerre, le nombre de logements dépasse
celui des ménages en 1968, ce qui se vérifie
dans tous les départements en 1973. On avait estimé que 600 000 logements construits par an seraient suffisants pour résorber la pénurie en moins de dix ans, mais, en raison de la croissance de la popula- tion après
la guerre, puis du nombre
des ménages du fait de la décohabita-
tion familiale, vingt années ont été
finalement nécessaires.
Dans un sens,
il est normal
que la morosité dans les activités de la construc- tion change amplement le paradigme architectural. Les années 1960 sont
portées par plusieurs vagues de modernisations, touchant
l’urbanisation, l’industrialisation, la bureaucratisation, l’essor
économique, l’innova- tion
technologique et la rationalisation21,
mais par contrecoup, pendant les années 1970 se manifestent des réactions critiques. Le changement de paradigme est communément évoqué
ainsi : du progrès au retour aux sources ; des villes
vers les territoires, et vers la nature ; de l’espace vers l’en-
vironnement, et vers le lieu ; du développement vers la préservation ; d’un mode de décision non plus du haut vers le bas, mais de la base vers le haut ; de la quantité vers la qualité.
Au Japon, le changement de paradigme architectural est symbolisé par
Kenchiku no kaitai 建築の解体 (La Démolition de l’architecture, 1975)
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21. Quelques thèmes majeurs
dans les années
1960 étaient la rationalisation de la
conception, des systèmes de conception et de construction. Le mouvement TQC (Total Quality Control) se développe au sein des services
de conception des zenekon et des grands bureaux d’étude.
de l’architecte Isozaki
Arata* 磯崎新 (né en 1931) et Temple ou prison ? de
Hasegawa Takashi (1972). Par la suite, ce courant critique contre l’archi- tecture moderne
engendre dans le monde les diverses tendances postmo- dernes22. L’ouvrage d’Isozaki forme les architectes
de la génération suivante, des
années 1970 aux années 1980. Nous avons décrit dans quelle mesure Andō Tadao et Itō Toyō en sont représentatifs : c’est
l’architecte en tant qu’individu – celui qui s’exprime – qui devient leader
dans l’architecture postmoderne (Funo 2011).
Cependant, pour les architectes japonais
ou, pour être plus exact,
l’Ins- titut japonais des architectes, les fondements de leur existence sont remis en question
au niveau social
: c’est ce que l’on appelle
l’affaire JFTC (kōtori
mondai 公取問題). Le 19 septembre 1979, la Japan
Fair Trade Commission rend une « décision de justice sur les déclarations
illégales23 » (ihō sengen
shinketsu 違法宣言審決) visant
l’Institut japonais des architectes. Elle statue
sur plusieurs points contestés depuis
1976 : les architectes – c’est-à-dire les
fondateurs des agences
– sont désormais considérés comme des hommes
d’affaires en vertu
de la loi antitrust, et l’Institut japonais
des architectes, dont les
membres sont fondateurs d’agences d’architecture, comme une organisation commerciale.
L’affaire prend son origine
dans le « concours truqué24 » pour la salle muni-
cipale du village de Yame en 1970, suivi d’un problème d’appels d’offres lors
![]() |
22. Isozaki détermine ses propres orientations en classant le travail des créateurs
contemporains des années 1960 (Hans Hollein [1934-2014], Archigram, Charles
Willard Moore [1925-1993], Cedric Price [1934-2003], Christopher Alexander [né en 1936], Robert Venturi [1925-2018],
Superstudio, Archizoom Associati), situées dans
un mouvement réciproque entre deux niveaux
de démolition : négation et développe-
ment du concept d’« architecture » (introduction de langages d’autres
domaines, exten- sion du concept architectural à tous les environnements) et démolition des normes de l’« architecture moderne
» (style international et mode fonctionnaliste).
23. Décision de la JFTC déclarant qu’une entreprise ou une institution a violé la loi antitrust, même si ce n’est plus applicable. Une mise en demeure
n’est pas requise, mais cette décision vise à révéler
qu’il y a eu une activité illégale. (N.D.T.)
24. On entend par « concours truqué », à l’occasion de l’attribution d’un projet public,
un concours aux apparences équitables, alors que le concepteur lauréat est déjà
désigné. En d’autres termes, un « truquage
des offres ». Les « appels d’offres de conception » consistent
en un concours
dont le lauréat
est choisi en fonction de son devis.
Normalement, lorsque l’État ou un gouvernement local acquiert un bien, le principe de « l’appel
d’offres » prime,
de la conception d’immeubles de grande hauteur
(sekkei nyūsatsu mondai 設計入札問題) pour le
complexe résidentiel de Takinogawa à Tokyo (Toei
kōsō jūtaku Takinogawa danchi 都営高層住宅滝野川団地, 1972) (Funo 2000).
II.
4. Tokyo, ville postmoderne25
On a tendance à penser que le Japon, dont la période
de Haute croissance a inévitablement été interrompue
par les chocs pétroliers, s’est orienté vers une organisation sociale impliquant des « limites
à la croissance » et des « res- sources limitées » (Meadows,
Meadows &
Randers 1972). Cependant, ce n’est pas cette direction qui a été choisie.
En effet, dans la deuxième
moitié des années 1980, survient une embellie économique faisant croire au retour de la croissance économique.
Le principal
catalyseur en est l’accord
sur la stabilisation des taux de change (appréciation du yen par rapport
au dollar) lors de la rencontre
des ministres des Finances du G5 (États-Unis, Royaume-Uni, France, Allemagne et Japon)
et des gouverneurs des Banques centrales en septembre 1985 (accords
du Plaza). Juste avant les accords du Plaza, le Japon a connu une grave récession
due à un taux
élevé de sa monnaie,
affectant durement les exportations et entraînant
nombre de faillites
chez les petites et moyennes entreprises. L’engagement international du gouvernement et de la Banque du Japon consiste en des mesures fiscales effectives pour accroître la demande intérieure, comme l’augmentation des
investissements publics,
ainsi que l’assouplissement monétaire à long terme. En résulte la bulle économique. L’achat d’actifs américains et l’essor
des trans- ports internationaux entraînent une augmentation des délocalisations dans des
![]() |
et, jusqu’à aujourd’hui, les gouvernements
locaux l’appliquaient pour les projets d’« équi-
pements
publics », choisissant les
moins-disants. L’article
29 de la loi sur les comptes
(kai- kei hō 会計法) et l’article 234 de la loi sur les collectivités locales (chihō chiji hō 地方自治法) en sont la base. Cependant, la conception architecturale n’est pas un bien.
Même si on applique le principe de l’appel d’offres pour l’« exécution
», c’est-à-dire pour les coûts
de construction, en ce qui concerne
la « conception » cela
n’est pas habituel. « La qualité des bâtiments publics doit dépasser la simple logique
économique » ; « La qualité
et le contenu du projet
ne sont pas garantis selon
le coût de la conception » ; « Il faut sélectionner les pro- jets selon leurs plans
» : telles sont les revendications des « architectes » (Institut japonais des architectes). « L’abîme d’incompréhension » concernant les commandes publiques est profond, c’est cela qui a provoqué
le problème JFTC.
25. Voir Funo (1998b).
pays aux salaires inférieurs, et font de l’investissement dans l’immobilier et les marchés boursiers une tendance majeure. Le lundi noir (19 octobre 1987) voit un
effondrement mondial des cours; puis, alors qu’autour de
1988 se géné- ralisaient les signes concrets de la reprise économique,
l’indice Nikkei 225 atteint le 29 décembre 1989 le record
de 38 957, 44 yens (cours de clôture de 38 915,87 yens le même jour), avant que les cours chutent fortement dès le 4 janvier
1990, première séance de l’année.
Les 51 mois de décembre 1986 à février 1991 représentent rétrospectivement une période d’économie de bulle (dite bulle ou conjoncture Heisei). Après cela, commence une période de déclin prolongé : « les trois décennies perdues » (ushinawareta 30 nen 失われた30年).
L’économie de bulle a stimulé
l’activité du bâtiment. Si l’on regarde les chiffres
de la construction de logements neufs,
on passe de 12,36 millions
d’unités en 1985 à 16,85 millions en 1988, puis 17,07 millions en 1990 et enfin 14,03 mil-
lions en 1992. Il paraît
évident que la Haute croissance des années 1960 a fait émerger une société de forte consommation de masse. Durant cette période, l’habitat au Japon change de façon décisive. Les toits de chaume disparaissent et le taux de diffusion des menuiseries de fenêtre en aluminium passe de 0 %
à 100 %. Cela signifie par conséquent une plus grande étanchéité à l’air et une généralisation des climatiseurs.
Surtout, l’apparition des maisons préfabriquées a permis le développement de l’industrie du logement. Autrement dit, la maison n’est plus construite in situ, mais fabriquée en usine pour être assemblée sur place. Habitations et bâtiments deviennent des biens de consommation durables, les biens immobiliers sont rendus mobiles,
c’est-à-dire que terrains et bâtiments sont transformés en marchandises : c’est la « marchandisation de l’espace social » telle que décrite par Henri Lefebvre (1974). Ce qui apparaît pendant la période
de la bulle économique, c’est l’intensification de cette tendance. Le postmoder-
nisme en architecture est ainsi porté, non pas par une opposition à la société industrielle, mais au contraire par la radicalisation de celle-ci.
À la suite des accords
du Plaza, le yen devient une
devise importante dans
le monde et Tokyo,
en tant que centre financier international, prend une position
privilégiée parmi les villes japonaises. Dans le même temps, dif- férentes études de restructuration de Tokyo (Tōkyō kaizōron 東京改造論26)
![]() |
26. Dans les domaines
de l’architecture et de l’urbanisme, jouent
un rôle d’instigateur : Matsuyama Iwao 松山巌 (né en 1945, architecte, critique et écrivain)
en 1984 ; Jinnai
sont proposées. Toute cette production de Tōkyō-ron 東京論 (tokyolo- gie27), jouit d’une extraordinaire prospérité du milieu
des années 1980 aux années 1990. Tokyo, ville postmoderne, attire alors l’attention du monde entier28. Cependant, alors que s’accélére toujours davantage l’hyperconcen-
tration, la ville atteint clairement un état de sursaturation. Il faut trouver
des cibles pour investir l’argent surabondant, mais l’offre en biens
immobiliers au Japon est alors limitée. S’il semble clairement impossible de faire des acqui-
sitions à l’étranger, s’impose l’obligation de créer des espaces générant
des retours sur investissement élevés. L’archipel connaît à nouveau
une période de développement
effervescent du territoire, dont
l’un des enjeux majeurs est le réaménagement de la capitale et sa restructuration29. Kurokawa Kishō annonce ainsi un « Plan de remblaiement de la baie de Tokyo »
(Tōkyō-wan
![]() |
Hidenobu 陣内秀信 (né en 1947, historien de l’architecture) en 1992 ; Fujimori Terunobu
藤森照信 (né en 1946, architecte, histoirien de
l’architecture japonaise) en 2004.
27. Mot emprunté
à Berque Augustin, La qualité de la ville, MFJ, 1987, p. 9. (N.D.T.)
28. Ce qu’on appelle
Tōkyō-ron peut
être divisé selon trois grands
axes temporels : ré-
trospectif, postmoderne et de restructuration. La tokyologie rétrospective exhume avec ardeur le passé
disparu – Edo
–, jusqu’au Tokyo des années 1920,
ou encore le relief,
les rives et rivages, la verdure, la nature. Ainsi,
s’opère un retour
nostalgique vers un Tokyo disparu.
A
contrario, la tokyologie postmoderne encense avec ardeur la Tokyo ac-
tuelle : aujourd’hui, Tokyo est intéressante ; la ville la plus excitante du monde s’appelle
« Tokyo ». Ces deux théories ont cependant les mêmes racines
: des fragments de styles architecturaux du passé couvrent
la ville en surface. En d’autres termes,
il s’agit de de-
sign historiciste et superficiel. Vis-à-vis de l’architecture moderne, les décors et les styles que prône le postmodernisme contrastent aisément. Le passé ou la nature
sont exhumés avec facilité, et la ville
alors se pare
de simulacres. En conséquence, ces deux tokyologies ont recouvert et obscurci
[l’histoire de la ville], ce qui a soutenu et favorisé la proliféra-
tion des restructurations dans Tokyo. La nostalgie semble
impuissante à elle seule, mais la
redécouverte du passé,
de la nature et des bords de l’eau dans
les villes fut habilement
connectée
au redéveloppement des waterfronts
et à la rénovation urbaine.
29. Réaménagement et restructuration visent d’abord des
terrains publics inutilisés dans le centre-ville, ainsi que des
secteurs résidentiels dans
les quartiers populaires (shi- tamachi 下町). Ces deux localisations étaient d’une grande commodité avec un potentiel élevé d’utilisation grâce au réaménagement. Pour résumer, en tant que limite, la pre-
mière posée fut aérienne. Ensuite,
l’objectif de développement suivant est le front de mer. On met en avant la redécouverte des littoraux et l’importance des terrains en bord
de mer ou de cours
d’eau, mais en vérité, l’attention a surtout été attirée par des ter- rains que le déclin de l’activité portuaire avait rendu obsolète, et dont les prix n’avaient donc pas augmenté. De plus, le remblaiement, offrant la possibilité de produire de
umetate keikaku 東京湾埋立計画), et Tange Kenzō un
« Plan pour Tokyo 1986 »
(Tōkyō keikaku 1986 東京計画1986), comme la révision
de son « Plan pour Tokyo 1960
». C’est une résurrection du Métabolisme, et la frénésie
autour du remodelage de Tokyo apparaît
comme la renaissance de l’âge
d’or des années 1960. La question
de la critique de l’architecture moderne semble
en tout cas s’être envolée. Les villes
des régions d’Asie
en voie de développe-
ment entament également un essor surprenant (Funo 2003, 2005).
Environ trois mois avant la mort de l’architecte Maekawa
Kunio* 前川國男 (1905-1986) qui a sans doute marqué
la fin d’une époque30, Tange Kenzō est choisi comme
concepteur du nouveau
siège du gouvernement métropolitain de Tokyo (Tōkyō-to shintochōsha 東京都新都庁舎). Au début des années 1980, Tange, leader
avec Maekawa de l’architecture de l’après-
guerre au Japon, et qui avait critiqué
le postmodernisme pour «
son absence de porte de sortie
», adopte des éléments
historiques évoquant nettement le style gothique,
ce qui fait scandale. Ce bâtiment est-il un monument
![]() |
nouveaux terrains, devient aussi un objectif. L’espace souterrain est aussi l’objet
d’atten- tion. L’usage de l’espace aérien
donne en outre accès à son sous-sol.
30. Maekawa meurt le 26 juin 1986 à 81 ans. Sa vie se compose
de deux parties
de qua- rante années
de part et d’autre de la défaite
de 1945. Beaucoup
de choses se passent en un
demi-siècle. La transformation de la société
japonaise a été spectaculaire. La maturité
de la société industrielle atteinte, devenue une société mondialisée, le Japon
devient l’une des principales puissances économiques. Les divers flux de la modernisation, de la rationalisation, de
l’industrialisation dans la production du bâtiment semblaient avancer en ligne droite.
Cependant, pour Maekawa,
l’architecture de la modernité ne s’était sans doute pas encore accomplie, parce que l’idéalisme naïf qui soutenait
l’idée de cette architecture moderne, était toujours
forcé à un compromis dans le milieu
japo- nais (Nihonteki
fūdo 日本的風土). En réalité, ce sont les principes économiques et la logique de l’industrialisation qui
tenaient le pouvoir.
Les architectes avaient
beau insis- ter sur la nécessité de la libre
indépendance, ils avaient
beau hisser haut
ces idées : la réalité trahissait toujours
leurs idéaux. En outre, les structures spécifiques qui régissent le monde de l’architecture japonaise ne changeaient absolument pas, et cela constituait un autre problème majeur.
Dumping des coûts
de conception, concours
truqués, cor- ruption des zenekon,
sous-traitance en cascade,
etc., la nature
de ce monde du bâtiment reste inchangée. À la lumière des débuts de Maekawa et de l’architecture de l’immédiat
après-guerre, ce scénario
non seulement perdure,
mais il se pourrait que cette situation se poursuive à jamais. Cependant, l’histoire de l’architecture de
l’après-guerre, même en un demi-siècle seulement, permet déjà d’examiner le cours des événements.
commémoratif
de l’architecture moderne, ou bien sa pierre tombale ? La question a
longtemps continué d’être débattue.
D’abord, d’un point de vue global,
la transition de Shōwa à Heisei, autre- ment dit des années 1980 aux années 1990, correspond à la fin du modèle de la guerre
froide après la chute du mur de Berlin (novembre 1989) et la dislocation du bloc communiste (décembre 1991). Après l’échec
des gran- dioses tentatives de l’humanité pour
construire un système socialiste depuis la Révolution russe
(1917), la suprématie du monde capitaliste devient incontestable. Depuis lors, les États-Unis dominent
le monde entier.
L’ère de la globalisation arrive pour de bon.
Deuxièmement, cette période marque l’avènement d’une
société de réseaux, grâce
à la révolution des technologies de l’information et de la communication. L’histoire
d’Internet remonte aux années 1960, mais l’uti- lisation du réseau Internet mondial
(suite TCP/IP), créé en 1989, débute en 1995. Elle se standardise rapidement dans le monde entier,
puis les pro- grès
et la diffusion des ordinateurs personnels et des téléphones portables contribuent grandement à la
réalisation de cette société des réseaux. Ces
premier et second
points sont, bien
entendu, étroitement liés.
Cependant, le monde, désormais
soumis, semble-t-il, à la domination amé-
ricaine, ne va pas nécessairement vers la stabilisation. Le développement du capitalisme mondial, c’est-à-dire l’implantation des lois du
marché partout dans le monde, creuse les inégalités. Par la suite, le refus de cette hégémonie conduit à la montée de nationalismes ethniques. Les attentats terroristes du 11 septembre
2001 en sont un symbole et, depuis lors, le terrorisme
fonda- mentaliste islamiste s’est amplifié. Autrement dit, après 1991, 2001 constitue l’autre moment majeur de l’histoire
du monde. Dans l’histoire
de l’architec- ture mondiale, la démolition en 1972 de la Cité Pruitt-Igoe31 (Saint-Louis), conçue en 1951 par Minoru Yamasaki
(1912-1986) est considérée comme
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31. Pruitt-Igoe est un ensemble de trente-trois immeubles de
douze niveaux regroupant 5 800 logements sociaux,
construits en béton
à partir de 1955 à Saint-Louis, dans l’État
du Missouri. C’est un des premiers grands
ensembles appliquant d’une manière très
la fin de « l’architecture moderne » ; l’effondrement brutal du World Trade Center, également conçu par Minoru Yamasaki, en 1973, marque quant à lui la fin des « gratte-ciels parallélépipédiques ». Depuis lors, les tours tordues ou vrillées participent de l’« architecture iconique » (aikon kenchiku
アイコン建築). De plus, les questions
environnementales planétaires et l’explosion de la population mondiale en sont venues à définir
le monde depuis les années
1990. Déjà d’actualité
depuis les années 1970, ces problèmes s’aggravent, tout comme ceux liés à la préservation de la planète, tels que la pauvreté,
les phénomènes météorologiques
extrêmes, les déchets nucléaires, sans entraîner nécessairement un changement
de paradigme à même de les résoudre.
Le manque de mesures radicales pour lutter contre le réchauffement climatique a été sévèrement
mis
en accusation par la jeune militante
écologiste suédoise Greta Thunberg.
Au début des années 1990, le PIB nominal par habitant
du Japon dépasse celui des États-Unis, devenant ainsi le premier
au niveau mondial.
Cependant, après l’éclatement de la bulle, le taux de croissance du PIB passe à partir de
1992 à une moyenne
annuelle d’environ 1 %. Après avoir atteint au cours de la période
de 1955 à 1973 environ 10 %, la croissance se maintient
autour de 4 % de 1975 à 1991. Il est clair que les trente années de « Heisei » ont consti-
tué une ère complètement nouvelle dans le Japon d’après-guerre.
Le sociologue Yoshimi
Shun.ya 吉見俊哉 (né en 1957) qualifie Heisei d’« époque de l’échec
». Il parle aussi des « trois décennies perdues » (Yoshimi 2019). Si nous pouvons nous questionner sur ce qui a été perdu et ce qui a échoué32,
il est clair que la position
du Japon dans l’économie mondiale n’a cessé de décliner
et que le Japan as Number One fait maintenant partie du passé. Par ailleurs, les changements dans l’industrie sont importants. Le Japon de l’immédiat après-guerre était une nation
agricole. Le nombre
de salariés du secteur primaire a fortement
chuté, sous les seuils des 20 % en 1970 (13,8 %) puis des 10 % en 1985 (9,3
%). En 2017, il est de 5,1
%. Le secteur secon- daire, qui représentait quant à lui 34,1 % des
salariés en 1975, est resté dans la fourchette basse des 30 % jusqu’en 1995 (31
%), mais tombe à environ
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radicale et
austère les règles de l’urbanisme et de l’architecture modernes, conçu par Minoru Yamasaki, architecte américain d’origine japonaise. (N.D.L.R.)
32. Yoshimi Shun.ya a comparé les classements de capitalisation boursière
des entre- prises mondiales entre 1989 et 2018. En 1989, première
année de l’ère Heisei, 33 des cinquante premières entreprises étaient des entreprises japonaises, mais trente années plus tard, seule Toyota y
figurait et en 35e position.
25 % au xxie siècle (25,9 % en 2017).
La proportion des salariés du secteur tertiaire, de 39,6 % en 1950, n’a cessé d’augmenter et dépasse
désormais les deux tiers (67,3 % en 2017). Le Japon est ainsi passé d’une société majoritai-
rement agricole
à une société industrielle, puis postindustrielle.
La transition
démographique est directement liée aux changements structu- rels de la société japonaise. La population
totale du Japon, d’environ
72 mil- lions en 1950, a augmenté d’une dizaine de pourcents
par décennie entre 1950 et 1980
(environ 117 millions),
d’un peu plus de 5 % entre 1980
et 1990
(124 millions) et de plus de 3 % entre 1990 et 2000 (127 millions).
Cependant, la tendance
a changé au xxie siècle, avec un taux désormais négatif depuis 2005.
On prévoit une population de 95 millions en 2050 et de 48 millions en 2100. Sur une population totale de 124,44 millions
d’habitants en 2018, les plus de 65 ans en représentent 35,58 millions (28,1 %). Le nombre des 15-64 ans a
commencé à décliner
après le pic de 8,716 millions atteint en 1995, tombant en
dessous des 60 % (59,7 %), soit à 7,545 millions.
Le Japon d’après-guerre peut être divisé selon les tendances économiques et démographiques, avec des moments clés en 1955, en 1973, en 1991 et en 2005 (fig. 02).
Fig. 02
Évolution de la
pyramide des âges au Japon
Source : Rapport intermédiaire « Perspectives à long terme
du territoire national
» (Kokudo no chōki
tenbō 国土の長期展望), commission sur les perspectives à long terme,
ministère du Territoire,
des Infrastructures, des Transports et du Tourisme (Kokudo kōtsūshō 国土交通省, MLIT), février 2011.
Traduction
: Amira Zegrour.
Le Japon subit les mouvements de l’économie
politique mondiale depuis l’éclatement de la bulle économique en 1991, et une série de catastrophes natu- relles a profondément affecté la société. En particulier, les séismes de Hanshin-
Awaji en 1995 et de la côte Pacifique du Tōhoku en 2011 en ont ébranlé les fondements. Mais revenons à l’architecture de « Heisei » et à ses architectes.
III. 1. Mafia de
l’architecture internationale et conception
assistée par ordinateur (CAD/CAM/BIM)
L’essor de la globalisation a offert à d’éminentes figures
de l’architecture un espace d’activité au-delà des frontières de leur pays.
Les architectes japo-
nais qui avaient montré
au monde leurs
capacités dans les
années 1960, ont eu de plus nombreuses opportunités pour travailler à l’étranger33 ; en retour, l’économie de la bulle
a attiré de nombreux architectes étrangers au Japon. De la fin de Shōwa
au début de Heisei, plusieurs projets ont ainsi
été réalisés au Japon par des architectes étrangers34.
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33. Tange Kenzō, architecte majeur du Japon
dans les années
1960, a travaillé sur le plan de reconstruction après le séisme de 1963 à Skopje
(aujourd’hui en République de Macédoine du Nord). À partir des années 1970, il a concentré ses travaux dans des pays
en développement, avec par exemple
l’aéroport international du Koweït (1979), le Palais présidentiel de Damas
(1981), le Palais national d’Arabie saoudite (1982) et l’Overseas Union Bank Centre de
Singapour (1986).
34. On peut citer,
de manière non exhaustive : Hotel il palazzo (1989)
d’Aldo Rossi (1931-1997) ; Immeuble à Momochihama (1989)
de Michael Graves
(1934-2015) ; le musée d’Art contemporain Watari (1990)
de Mario Botta (né en 1943); Century tower (1991) de Norman
Foster (né en 1935);
Sierra Resort Hotel
Hakuba (1994) de Charles
Willard Moore ; Sea Hawk Hotel and Resort (1995)
et Abeno Harukas
(2014) de Cesar Pelli* (1926-2019) (fig. 03) ; Tokyo International Forum (1996) de Rafael Viñoly
(né en 1944).
Fig. 03
Abeno Harukas [harukasu] あべのハルカス, Osaka, 2014.
Conception : Takenaka kōmuten* 竹中工務店
et Cesar Pelli (supervision extérieure).
Photo : Oilstreet.
À partir des années 1990,
les premiers à étendre leurs
activités à l’échelle mondiale appartiennent à la
génération du Métabolisme qui a succédé à celle de Maekawa Kunio et Tange Kenzō. On retient
surtout Isozaki Arata, pour ses œuvres très discutées dans le monde architectural globalisé, dont le Palau Sant
Jordi (enceinte sportive
et multifonctionnelle construite pour les JO de 1992, Barcelone, 1990)35.
Isozaki Arata, curator, organisateur, théoricien de l’« architecture post-
moderne », a participé aux premiers jurys du prix Pritzker*36,
organisé les « Conférences Any* », et occupé ainsi
une position essentielle dans la
première communauté d’architectes leaders dans le monde, qu’il appe- lait lui-même la « mafia
de l’architecture internationale ». Pour les divers projets d’immeubles Nexus
World* (Nakusasu wārudo ネクサスワールド) à Kashiihama 香椎浜 (Fukuoka, 1992), en tant qu’organisateur, c’est lui qui
a désigné Steven
Holl (né en 1947), Ishiyama
Osamu 石山修武 (né en 1944), Rem Koolhaas (né en 1944),
Mark Mack (né
en 1949), Christian de Portzamparc (né en 1944) et Oscar Tusquets (né en 1941).
Il a également été commissaire pour le projet « Kumamoto Artpolis* »
(Kumamoto ātoporisu
熊本アートポリス, fig. 04), et juré de nombreux concours
interna- tionaux, jouant un rôle majeur
dans l’avènement d’une jeune génération
d’architectes. Par exemple, lors du
concours du « Peak Leisure Club » au sommet du Victoria Peak à Hong Kong
en 1983, qui
a marqué les
débuts de Zaha Hadid* (1950-2016), ou bien au Japon pour le concours
du musée commémoratif Sakamoto
Ryōma (1991), qui a confirmé
ceux de Takahashi
Akiko* 高橋晶子
(née en 1958).
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35. Autres réalisations internationales d’Isozaki : le Palladium (1985),
vieux cinéma de New
York transformé en discothèque ; le
musée d’Art contemporain de Los Angeles (1986) ; le musée de l’Art et de la Technique
japonaise Manggha (Cracovie, 1995) ; le National Wetland Museum (Hangzhou, 2009).
36. Les lauréats japonais
sont au nombre de sept (équipes) : Tange Kenzō (1987), Maki Fumihiko (1993),
Andō Tadao (1995), Sejima
Kazuyo* 妹島和世
(née en 1956) et
Nishizawa Ryūe* 西沢立衛 (né en 1966) de SANAA* (2010),
Itō Toyō (2013), Ban Shigeru* 坂茂 (né en 1957)
(2014) et Isozaki
Arata (2019). Les États-Unis en comptent
huit, ce qui met en évidence la reconnaissance internationale des architectes japonais.
Ensemble départemental de logements
collectifs Hotabuko no 1 保田窪第一団地, départe-
ment de Kumamoto, 1991.
Conception
: Riken Yamamoto & Field Shop (Yamamoto riken sekkei kōjō 山本理顕設計工場),
participation au projet « Kumamoto Artpolis ».
Photo : Yamamoto Riken* 山本理顕
(né en 1945).
Après Isozaki, ont suivi Andō Tadao, Itō Toyō, Sejima Kazuyo et Nishizawa Ryūe (SANAA), Kuma Kengo* 隈研吾 (né en 1954), entre
autres. À l’orée du xxie siècle, les architectes japonais
actifs à l’étranger
deviennent plus nombreux,
contribuant notamment à la réussite
de la Chine, en plein essor
économique, grâce aux Jeux olympiques de Pékin (2008) ou à l’Expo
2010 de Shanghai. Le développement des technolo- gies de l’information et de la
communication soutient grandement leurs activités internationales. En effet,
l’échange instantané de grands volumes
de données, tels que plans et images,
facilite à l’extrême
la communication entre clients,
entrepreneurs, chantiers et bases régionales (succursales).
Les progrès des technologies informatiques, de la
CAO (conception assis- tée par
ordinateur), la FAO (fabrication assistée par ordinateur), la synthèse
d’images tridimensionnelles, à la fabrication numérique, changent radica- lement non seulement la réalisation des plans, dessins
et descriptifs, ainsi que les moyens d’expression graphique,
mais élargissent considérablement
les
possibilités des techniques structurelles et d’exécution, c’est-à-dire
l’ensemble des techniques de production de l’architecture. De nouvelles
méthodes de conception dites algorithmiques émergent également. De plus,
est mis en pratique un système de gestion collective, de la conception à la construction, à l’aide d’un logiciel de modélisation 3D appelé BIM (Building
Information Modeling).
Zaha Hadid incarne
la figure de l’architecte n’ayant cessé de présenter sous forme de réalisations
concrètes le développement des technologies informatiques. C’est elle qui a remporté
le concours pour la construction du nouveau stade national de Tokyo, principal site des Jeux olympiques
de 2020, sans que cela aboutisse37. Sa vision inédite semble avoir grande- ment contribué à sa désignation, mais pour des raisons aussi
diverses que le dépassement du budget prévu,
l’ambiguïté du programme lui-même, ainsi que
le doute concernant l’équipe d’exécution et le processus
décisionnel, Zaha Hadid a malheureusement été exclue de la maîtrise
d’œuvre. Cette affaire révèle
un problème inhérent
au monde de l’architecture au Japon. Il se
dit que son décès est dû à l’accumulation de tracas causés
par l’agitation entourant le nouveau stade olympique.
Au Japon, on ne réalise
guère cette architecture qui semble se jouer des
formes novatrices, comme celle de Zaha Hadid
ou de Frank Gehry (né en
1929, architecte du musée Guggenheim de Bilbao en 1997 ; du Walt Disney
Concert Hall, Los Angeles,
2003, etc.), à l’exception de la médiathèque de Sendai*
(2001, fig. 05), de la bibliothèque Minna no mori de Gifu (Minna no mori Gifu Media Kosumosu
みんなの森 ぎふメディアコスモス,
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37. Ses débuts restent longtemps sans une seule œuvre
construite, car ses audacieux projets ne sont pas réalisés,
si bien que Zaha Hadid est surnommée
la « Reine du non-construit » (Anbirudo no joō アンビルドの女王), mais, à partir de l’an 2000,
elle achève diverses réalisations architecturales les unes après les autres.
En Asie, on peut par exemple citer l’opéra
de Canton (2010),
rendu possible par l’émergence de nouveaux
clients : des entreprises globales demandant un design « novateur », mais surtout par les
progrès de l’informatique, passée de la CAO en trois dimensions au BIM ; en d’autres
termes, par la mise au point de systèmes qui permettent de fabriquer, d’assembler et de bâtir de manière intégrée,
depuis la phase de création
de formes variées
jusqu’à la production effective de composants et d’éléments constructifs. Son agence, Zaha Hadid
Architects, a également été désignée
comme le bureau d’architecture et d’ingénierie le plus avancé au monde.
2015) ou de l’opéra métropolitain de Taichung (2016), tous conçus par Itō Toyō, à la recherche de structures et formes
nouvelles38.
Fig. 05
Médiathèque de
Sendai, 2001. Conception : Itō Toyō.
Photo : Kataoka Nanako.
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38. À la pointe
du développement de la technologie numérique en architecture, se trouve Ove Arup and
Partners (Arup), bureau
de conseil en ingénierie spécialisé dans la construction, fondé en 1946 par Sir Ove Arup (1895-1988), ingénieur anglais. Basée
à Londres, avec plus de 14000 employés
– dont des ingénieurs, des chefs de projet et des consultants –, cette entreprise internationale compte 89 bureaux
dans le monde, avec des projets
dans plus de 160 pays, dont les États-Unis, l’Australie, ou au Moyen-Orient, en Asie, en Europe et en Afrique.
Leur filiale japonaise a été créée
à Tokyo en 1989
et est actuellement dirigée
par Oguri Arata 小栗新.
La médiathèque de Sendai est portée par des structures tubulaires, consti- tuées d’un assemblage de fins poteaux en acier, qui réunissent les systèmes d’approvisionnement (eau, électricité, etc.), ainsi que les gaines des ascen- seurs et des escaliers, et jouent aussi le rôle de puits de lumière et d’aération. De plus, ces structures tubulaires, disposées de façon irrégulière, torses de haut en bas, transpercent le plancher de chaque étage, créant un espace hétérogène. Ce bâtiment est perçu comme une tentative pour surpasser la maison Dom-Ino de Le Corbusier*, construction à ossature rigide plan- chers-poteaux. Quant à l’opéra métropolitain de Taichung, il est l’abou- tissement d’essais pour concevoir des espaces complètement nouveaux, possibles grâce au calcul par ordinateur de structures tridimensionnelles complexes. Sasaki Mutsurō* 佐々木睦郎 (né en 1946) en a été l’ingénieur responsable. Il a travaillé sur la plupart des œuvres d’Itō Toyō, de Sejima Kazuyo de l’agence SANAA39, d’Isozaki Arata40 ou de Hara Hiroshi* 原広司(né en 1936)41.
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39. Par exemple : studios d’art multimédia à Ōgaki*, 1996, prix de l’Institut
d’archi- tecture du Japon; maison Umebayashi (Umebayashi no ie 梅林の家), 2003, prix de l’architecture japonaise ; musée
d’Art contemporain du xxie siècle de Kanazawa*, 2004, prix de l’Institut d’architecture du Japon [fig. 06]).
40. Par exemple : Centre
de convention des arts de Shizuoka (Shizuoka
ken konbenshon ātsu sentā
静岡県コンベンションアーツセンター), 1998 ; Centre
d’information sur les arts de Yamaguchi (Yamaguchi geijutsu jōhō sentā 山口芸術情報センター), 2003.
41. Par exemple : Umeda Sky Building à Osaka, 1993 ; Sapporo Dome, 2001 (fig. 07a et 07b).
Fig. 06
Musée d’Art contemporain du xxie siècle de Kanazawa, 2004. Conception : SANAA.
Photo : Funo Shūji.
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Fig. 07b
Fig. 07a et fig. 07b
Sapporo Dome, 2001.
Conception
: Hara Hiroshi, Laboratoire d’architecture Atelier Φ [Atorie Fai kenchiku ken- kyūjo アトリエ・ファイ建築研究所],
Atelier Bunk [Atorie Bunku アトリエブンク].
Photos : Funo Shūji.
III. 2. Du scrap and build (démolition-construction)
à la réhabilitation
Dans un contexte où les géants
globalisés tels que les GAFA (Google, Apple, Facebook et Amazon) imposent
leur domination, propulsent la mondiali- sation et les réseaux
interconnectés, la place
de l’économie, de l’industrie et des
entreprises japonaises s’est,
en comparaison, considérablement dépré- ciée. Le secteur de la construction, fondamentalement
régional, a perdu son ancienne vigueur
avec le ralentissement de l’économie japonaise. Dans les années
1960 et 1970, il représentait 20 % à 25 % du total des inves- tissements. On considère
que le Japon est passé d’une « nation agricole
» à une « nation de travaux publics » après la guerre. Les
investissements dans la construction, stabilisés à environ
50 000 milliards de yens après
la crise pétrolière, ont progressivement diminué
après le pic de la bulle éco- nomique, passant de 84 000
milliards de yens en 1992 à 66 000 milliards
en 2000 puis 51 000 milliards en 2005. Ces dernières années,
les investis-
sements consacrés à la reconstruction après le séisme
de la côte Pacifique du Tōhoku, et aussi à l’aménagement des installations pour les Jeux olym- piques de Tokyo,
ont atteint environ 50 000 milliards de yens, mais le
nombre d’employés dans
le bâtiment, de 6,19 millions
en 1992 après
un maximum de 6,85 millions en 1997, n’a cessé
de diminuer pour passer sous la
barre des cinq millions. Quant au nombre
d’entreprises de construction agréées, il a culminé à 600 000 en 1999,
pour retomber à 470 000 en 2018.
Le nombre de techniciens du bâtiment42 est passé de 390 000 en 2000 à
220 000 en 201043. Et surtout,
leur vieillissement et les difficultés pour assurer la relève deviennent extrêmement préoccupants.
Les habitations ordinaires montrent clairement un
changement dans l’environnement architectural de l’ère Heisei.
Le nombre de mises en
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42. Les techniciens du bâtiment (kensetsu gijutsusha 建設技術者), selon la terminologie
utilisée par le recensement national,
sont principalement des ingénieurs exerçant
dans la construction, la
rénovation et l’entretien de bâtiments tels que les habitations, des ingénieurs en génie civil
et des géomètres s’occupant de la construction, de la rénova- tion et de l’entretien des routes, ponts
et rivières. Les chiffres cités
correspondent à cette dénomination.
43. Même après une augmentation de la demande
due à la reconstruction en 2015 après le séisme de la côte Pacifique du Tōhoku,
le nombre d’ingénieurs reste stable à environ 240 000.
chantier (flux)
de logements neufs
s’était rétabli à 1,67 million
par an pen- dant la bulle (1989, 1990),
mais il a chuté fortement
à 1,34 million après son éclatement (1991) ; après le rebond dû au séisme
de Hanshin-Awaji et à la ruée avant la hausse de la taxe
à la consommation (1,63 million
en 1996), il est retombé à 1,18 million
en 1997. Estimé
par la suite entre 1,1 et
1,3 million, il a de nouveau chuté,
d’abord à 1,04
million (2008) à cause du scandale des données parasismiques falsifiées (Taishin gisō
jiken 耐震偽装事件) et de la révision de la loi sur les normes de construction (kenchiku
kijun hō 建築基準法), puis à 780 000 après la faillite de la banque
Lehman Brothers (2009). S’il était remonté
en 2003 à 990 000 avant une nouvelle
hausse de la taxe à la consommation, entraînant un brusque
afflux de la demande, il n’a plus jamais dépassé
le million. Il devrait progressivement diminuer et atteindre environ
550 000 d’ici 2030 (fig. 08).
![]() |
Tendances et prévisions du nombre de constructions de
logements.
« Statistiques de
mises en chantier », ministère du Territoire, des Infrastructures, des
Transports et du Tourisme.
Source : Nomura
Research Institute (Nomura
sōgō kenkyūjo 野村総合研究所).
Traduction : Amira Zegrour.
La fin de l’ère de la construction se manifeste nettement par les évolutions
du nombre de logements (stocks) et de celui des ménages. Comme dit plus haut, si la pénurie de logements était très
importante dans l’immé- diat après-guerre, le nombre de logements a dépassé celui des ménages
en
1968 (25,59 millions
de logements pour
25,32 millions de ménages, avec un taux d’inoccupation de 4 %). Ensuite, le nombre de logements vacants
a continué d’augmenter, passant de 2,68
millions (7,6 %) en 1978
à 8,2 mil- lions (13,5 %) en 2013, puis à 10,83
millions (17 %) en 2018,
et il ne cesse de s’accroître avec
la rapide diminution du nombre de ménages : on prévoit 21,66 millions
de logements vacants
en 2033.
Le passage de l’ère du scrap and build à l’ère
de la réhabilitation est donc inévitable. Un premier exemple
au Japon est Kurashiki Ivy Square (Kurashiki aibī sukuea 倉敷アイビースクエア), ancienne
usine de la filature de Kurashiki
(1889) reconvertie en installation touristique par Urabe Shizutarō
浦辺鎮太郎 (1909-1991) en 1973. Il s’agit d’une tentative, pendant
la période de glorification de l’« architecture
postmoderne », de restaurer et préser- ver une construction
d’avant-guerre. De même, à Ochanomizu Square (Ochanomizu Sukuea お茶の水スクエア, 1987),
Isozaki Arata a réhabilité
les bâtiments de la maison
d’édition Shufu no tomo 主婦の友 de William Merrell Vories (1880-1964). Toutefois,
en pleine bulle économique, démo- lir l’ancien pour
construire du neuf
(scrap and build) devient
la tendance générale, et ce même si on prétend
préserver les bâtiments historiques. Parce que la préservation coûte
du temps, des efforts, donc de l’argent. L’opération remarquée qui nous amène
au courant actuel
de réhabilitation
architecturale a été conduite, à la fin du xxe siècle, par Aoki Shigeru
青木茂(né en 1948)
sur le bâtiment de l’hôtel
de ville d’Umechō, département d’Ōita (1999)44.
La rénovation de la gare de Tokyo où, à de nombreuses reprises, des projets de tours
furent envisagés, a été achevée en 2015.
Désormais, la réhabilitation a pris de l’importance et constitue une grande
partie du travail des jeunes
architectes, qui débutent en règle générale
avec ce type de
travail.
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44. D’autres exemples du même architecte : réhabilitation de la Place pour toutes les gé-
nérations, à Nozuhara (Nozuhara-chō tasedai kōryū puraza 野津原町多世代交流プラザ), département d’Ōita ; du Centre
pour toutes les générations à Yame (Yame ta sedai kōryūkan 八女多世代交流館), département de Fukuoka
; de la salle de sport du collège municipal Fukushima à Yame (Yame shiritsu
Fukushima chūgakkō okunai undōjō 八女市立福島中学校屋内運動場), département de Fukuoka
; du siège de la coopérative agri- cole de la ville
de Fukuoka (Fukuoka-shi nōgyō kyōdō kumiai
honten biru 福岡市農業協同組合本店ビル) ; de l’immeuble Libera
Hōshō (Ribera Hōshō
リベラほうしょう) à Chita- gun, Taketoyo-chō, département d’Aichi.
Cette nette évolution
ne signifie pas que la ligne politique
du dévelop- pement change, comme le prouve
l’accueil des Jeux olympiques de Tokyo 2020 et de l’Exposition universelle à Osaka en 2025. Il convient de souli-
gner que la situation au Japon n’est pas,
dans son ensemble, uniformément dégradée, mais que les disparités entre régions se sont accrues.
Même après l’éclatement de la bulle
économique, la tendance
à la surconcentration à Tokyo ne s’est pas atténuée
et le déclin régional est devenu de plus en plus apparent. En outre, l’augmentation des emplois précaires
a accentué la disparité des
revenus. Durant l’ère Heisei, les architectes ont déployé mondialement leur activité dans les régions
où la richesse s’est concentrée (Moyen-Orient, Chine, etc.),
alors qu’au
Japon, lieux et opportunités se raréfiaient.
Les voies que peuvent prendre les jeunes
architectes au Japon sont :
1) rechercher des opportunités de travail dans les régions
où il y a une demande de construction ; 2) se concentrer sur des
travaux d’entretien, de restauration et de réhabilitation de bâtiments
existants ; 3) ouvrir une troisième
voie. Le cœur de cette troisième voie, c’est l’engagement dans l’urbanisme participatif (machizukuri* まちづくり) en tant que community architects dans les régions.
III. 3. De Hiroshima à Fukushima : un second après-guerre
Après l’éclatement de la bulle,
aucun projet de développement urbain
d’en- vergure n’a été lancé, exceptés
ceux élaborés auparavant. Rétrospectivement, il était inévitable que les questions de renaissance urbaine
et de revitalisa- tion régionale ne deviennent les thèmes les plus courants.
Cependant, afin de promouvoir de manière coordonnée et forte des projets modèles
et une politique d’utilisation efficace
des terrains, tant du point de vue de l’envi- ronnement, de la prévention des catastrophes, que de
l’internationalisation, un bureau
de la revitalisation urbaine est
institué par le Cabinet du Premier
ministre Koizumi
小泉 en 2001, après
« un vide de dix ans
» ; puis, en 2014
le deuxième gouvernement Abe 安倍, bien trop tardivement après le séisme de la côte Pacifique du Tōhoku,
met en place
une politique de revitalisation
régionale visant à corriger la surconcentration à Tokyo, à freiner
le déclin démographique en province, ainsi qu’à accroître la vitalité du Japon dans son ensemble.
À la stagnation économique s’ajoutent les
catastrophes naturelles de grande ampleur
qui ont frappé
l’archipel les unes après les autres. Durant
les années
1970 et 1980,
la plus importante concerne des pluies
torren- tielles sur Nagasaki (1978),
qui font 345 morts et disparus. Le séisme de Hanshin-Awaji à Kobe (1995)
fait 6 433 victimes, bilan
qui dépasse celui du
typhon de la baie d’Ise
伊勢 (plus de 4 697 morts en 1959).
De sur- croît,
ce séisme ayant
frappé en pleine
zone urbaine, des autoroutes se sont renversées et nombre de bâtiments se sont effondrés, ce qui a provoqué un grand
choc dans la société japonaise
comme dans le monde du bâtiment.
L’année 1995 est, avec la défaite
de 1945 dont elle marque
le 50e anni- versaire, une
année particulièrement mémorable de l’après-guerre. En plus du séisme de Hanshin-Awaji, une secte religieuse du nom d’Aum
(Oumu shinrikyō オウム真理教) a perpétré un attentat au gaz sarin dans le métro
de Tokyo. Ces deux événements majeurs remettent fondamentalement en question les cinquante années d’après-guerre du Japon. Ils
mettent à nu les périls
de la reconstruction physique et morale du pays. De plus, à la fin de cette
même année est mis au jour le scandale des créances douteuses (jūsen mondai 住専問題), dont on peut dire qu’elles sont la
note à payer de la bulle
économique. C’est donc en 1995 que les fondements de notre quoti- dien sont questionnés et les assises
de la société japonaise de l’après-guerre
fortement ébranlées. Le séisme de Hanshin-Awaji en particulier a révélé
l’impuissance des « architectes » dans la construction des villes (fig. 09).
Des décombres d’habitations méconnaissables. Des ruines calcinées
à perte de vue. Une autoroute renversée sur un kilomètre.
Ou les piliers écroulés d’un pont. Une gare écrasée
et des rails tordus comme de la guimauve. Des bâtiments penchés,
vril- lés, effondrés, jetés
à terre. C’est
une vision incroyable. Est-il seulement permis
que les poutres soutenant
le pont du shinkansen
s’effondrent ? Ne dirait-on
pas les ruines de l’immédiat
après-guerre ? Nous sommes partis des ruines pour,
cinquante ans plus tard, nous retrouver
à nouveau face à ces mêmes ruines.
(Funo 2000)
Fig. 09
Immédiatement
après le séisme de Hanshin-Awaji, Nagata-ku, Kobe, 1995.
Photo :
Funo Shūji.
À la suite
de précédentes recherches, nous avons tiré sept leçons
du séisme de Hanshin-Awaji, en soulignant l’importance du bénévolat et de
l’autonomie territoriale : 1) la force de la nature…
l’importance de l’équi- libre écologique des territoires ;
2) l’échec de la logique du dépassement des
limites (technologiques, territoriales, etc.) ; 3) la nécessité de structures décentralisées et multipolaires ; 4) la pauvreté (et
l’importance) des espaces publics ; 5) l’autonomie des quartiers… le rôle du volontariat ; 6) l’accumu- lation des techniques de renouvellement des stocks ; 7) la continuité de la mémoire urbaine (Funo 2000).
L’impuissance face à une maison qui brûle sous nos yeux
est étrange. Quel système est utile en cas d’incendies multiples et simultanés ? Les quar-
tiers où les secours ou la protection contre les incendies ont bien fonctionné sont ceux dont les communautés étaient
les plus solides.
Là où l’on atten- dait simplement l’arrivée des ambulances ou des pompiers, les dégâts se sont
amplifiés. Il semble ironique que la principale leçon à tirer du séisme de
Hanshin-Awaji soit l’évidente inutilité de l’administration, mais les
fonctionnaires
locaux en sont également les victimes. Il est alors évident que dépendre
uniquement de l’administration ne peut fonctionner effica- cement. Les problèmes
résident dans les mécanismes de la gestion
locale et sont d’autant
plus grands que le degré
de dépendance, que ce soit à un système administratif ou industriel, est élevé.
Le besoin d’autonomie locale est manifeste. Et le soutien
des bénévoles indispensable. Après
ce séisme, la loi sur les organisations à but non lucratif
(tokutei hieiri katsudō
sokushin hō 特定非営利活動促進法, 1998),
qui permet leur reconnaissance institutionnelle au Japon,
était une nécessité. Les cir- constances de ce séisme
ont fait émerger
peu à peu la figure
de l’architecte tel qu’il devrait
être, appelé community architect, dont le territoire local est la base de l’activité. Aussi peut-on considérer ce séisme comme le point de départ de l’architecture de l’ère Heisei.
Depuis, l’archipel est frappé chaque
année ou presque
par de nouvelles catastrophes, subissant ainsi
en 2004 un typhon et un tremblement de terre à Niigata.
Avant que ne se produise le plus gigantesque séisme du Japon :
celui de la côte Pacifique du Tōhoku le 11 mars 2011 (fig. 10), de magni- tude 9, provoquant un énorme tsunami qui entraîne la
fusion des cœurs des réacteurs 1, 2 et 3 de la centrale
nucléaire de Fukushima Daiichi. Le nombre
de morts et disparus s’élève
à 18 429, et 404 890 bâtiments
sont reconnus comme complètement ou partiellement
détruits. Immédiatement après le tremblement de terre, plus de 8 millions de foyers sont privés
d’électricité, plus de 1,8 million
d’eau courante, et plus de 400 000 per- sonnes évacuées. Les conséquences de l’accident nucléaire sont toujours en cours de traitement, la contamination de l’eau, le niveau de pollution et l’évacuation des combustibles usagés exigeant un temps inimaginable. À la fin
de l’ère Heisei
(30 avril 2019),
le nombre de personnes déplacées dépas- sait toujours les 50 000.
Fig. 10
Immédiatement après
le séisme de la côte Pacifique du Tōhoku le 11 mars 2011, Ishinomaki, 2011.
Photo : Funo Shūji.
De Hiroshima le 6 août 1945 à Fukushima le 11 mars 2011, le Japon,
puis le monde, ont à nouveau
pris conscience du danger d’un système qui place en ses fondements l’énergie nucléaire.
Comparée à une plaine détruite par le feu d’une bombe atomique, une plaine désertée après un accident
nucléaire n’a clairement plus aucune perspective. Les dégâts de cet accident qui a ébranlé
les fondations mêmes
du Japon, sont
incommensurables.
Concernant l’avenir des architectes, le prompt
soutien apporté par les plus jeunes
d’entre eux offre une lueur d’espoir. Immédiatement après le 11 mars,
nombreux sont ceux
qui se sont
déplacés. Si les
activités des archi- tectes du groupe ArchiAid* (Ākieido アーキエイド) et le projet
« Maison pour tous » (Minna no ie みんなの家) mené par Itō Toyō, en sont les plus
symboliques,
de nombreuses équipes
ont porté assistance aux zones sinis-
trées, avec la construction
d’urgence de logements temporaires, jusqu’à des projets de reconstruction de villes. Leurs
actions ne sont pas sans rappeler
celles
des architectes qui ont conçu le logement
minimum peu après
la
guerre : partition des lieux de refuge (souvent des gymnases), construc- tion de bains publics temporaires, par l’équipe de Takeuchi Yasushi 竹内泰(architecte, professeur à l’université de technologie du Tōhoku) ; construc- tions d’abris pour les pêcheurs (ban.ya 番屋) par le groupe de charpenterie de l’université départementale de Shiga (fig. 11) ; « Lieu de rencontre aux bambous » (Take no kaisho 竹の会所) et « Lieu de rencontre de la plage » (Hama no kaisho 浜の会所) par l’équipe de Tōki Hirokazu 陶器浩一 (né en 1962, architecte spécialiste de structures, professeur à l’université de Shiga) (fig. 12), etc.
Fig. 11
Construction
d’un abri utilisé par les pêcheurs pour se reposer, se rencontrer,
déposer des affaires,
nécessaire à la reprise de leur activité économique, par le groupe de Takeuchi
Yasushi et l’atelier de charpenterie de l’université départementale de Shiga,
Minamisanriku-chō, 2011.
Photo : Takeuchi Yasushi.
Fig. 12
« Lieu de
rencontre aux bambous » par l’équipe de Tōki Hirokazu, Minamisanriku, 2011.
Photo :
Tōki Hirokazu.
III. 4. L’émergence des community architects
L’un des
problèmes posés immédiatement après le séisme de Hanshin- Awaji
concerne la loi sur les normes de construction qui règlemente la sécurité
des bâtiments. Celles-ci étant remises en question à chaque séisme
et catastrophe majeure, les révisions s’ajoutent les unes aux
autres. À la suite
du séisme de 1978
à Miyagi, qui a complètement détruit 4 385 bâtiments
et partiellement 80 000,
la loi est considérablement révisée
en 1981, impo-
sant de nouvelles normes antisismiques, toujours
en vigueur aujourd’hui.
On a prétendu, après le séisme
de Hanshin-Awaji, que
les bâtiments observant ces nouvelles normes
avaient été moins
endommagés que ceux qui
suivaient les
règles anciennes et présentaient un ratio de dégâts élevé,
mais les dommages étant
de nature variée,
on ne peut parler pour
ces normes de sécurité absolue. Notamment, des autoroutes et des viaducs
se sont effon- drés. En 2000, la loi sur
les normes de construction est
révisée afin de rendre
obligatoire pour les habitations en bois très endommagées une étude de sol
et l’adjonction d’un système porteur métallique. Cependant, respecter la loi
et les normes ne suffit
pas : certains bâtiments conformes subissent des
dégâts. En fait, de nombreuses maisons en bois gravement endommagées étaient vétustes. À cause
des termites, de la condensation ou d’infiltrations
d’eau, des pièces structurelles étaient pourries. Cela ne se limite pas aux
maisons en bois. Il est normal
que tout bâtiment,
même s’il répond aux normes au moment de sa construction, se
dégrade progressivement. En résumé,
la sécurité n’est pas absolument garantie
par la loi.
Ensuite, une bizarrerie persiste avec le bâti « existant mais non conforme » (kison futekikaku 既存不適格), construit selon les anciennes
normes sis- miques, c’est-à-dire qui ne pourrait
pas être construit aujourd’hui car non conforme à la loi actuellement en vigueur. À qui donc revient la responsa-
bilité de dénoncer son irrégularité ? De plus, même si un projet (d’après
les documents) respecte la loi et les normes,
cela n’est pas synonyme
de travaux bien faits. Qui
pour les contrôler ? Naturellement, la nécessité d’organismes d’inspection est devenue
criante après le séisme.
On connaît la déclaration fameuse
du maire de la ville de Tangshan en Chine,
victime d’un séisme
d’une intensité identique à celui de Hanshin-
Awaji, disant que les terrains
vagues résistent à une secousse
sismique de degré
7 ou 8 (sur l’échelle
dite shindo 震度 utilisée au Japon). Dans le cas où un bâtiment s’effondre, certains peuvent sauver
leur vie s’ils parviennent à gagner
un terrain inoccupé
à proximité. C’est donc la concentration
du bâti dans un quartier
ou une ville qui constitue un problème. Même lorsqu’on ne conçoit qu’un seul bâtiment, il faut le considérer en relation avec ses
alentours. En d’autres termes, à travers la conception d’un seul bâtiment, l’« architecte » est
inévitablement lié à l’ensemble de la ville
(à son urbanisme). À
la suite du séisme de Hanshin-Awaji, surtout après la promulgation de la loi sur les organisations à but non lucratif de 1998, les activités d’aménagement urbain participatif, ancrées localement, se déve-
loppent sensiblement. 1995 est ainsi
appelée « première année
du volonta- riat
», mais aussi du community
planning (komyuniti
puranningu コミュニティ・プランニング).
L’ouvrage Community Architecture de Nick Wates et Charles Knevitt,
qui
présente le
mouvement du même nom mené par l’anglais Ralph Erskine (1914-2005), a
été traduit en japonais en 199245. Mais même au Japon,
avant le séisme
de Hanshin-Awaji, se formait déjà
un mouvement en faveur
d’un système de master architect (masutā ākitekuto マスターアーキテクト) ou de town architect (taun ākitekuto タウンアーキテクト). Le « Groupe
d’étude sur la culture architecturale et la question
du paysage » (Kenchiku bunka
![]() |
45. Voir Knevitt & Wates (1987).
keikanmondai kenkyūkai 建築文化・景観問題研究会, 1992-1995), composé
d’architectes46 et de membres
du ministère de la Construction (Kensetsushō 建設省), responsables du logement auprès de départements et de villes
dési- gnées, a été créé en 1992 par le Centre
de promotion des savoirs techniques du bâtiment (Kenchiku gijutsu kyōiku fukyū sentā 建築技術教育普及センター, 1982). En effet, le ministère de la
Construction (devenu ministère du Territoire, des Infrastructures, des Transports et du Tourisme en 2001) est
bien conscient qu’une administration dont la seule fin serait d’empêcher les « violations des règles de construction47 » (ihan kenchiku 違反建築) ne permet pas d’embellir le paysage urbain
japonais. Est donc élaboré le sys- tème
des « urban architects »,
selon lequel « la participation continue
d’un “architecte” est nécessaire à la formation d’un riche paysage
urbain ». Le principe consiste
à intégrer au sein de l’administration la participation des architectes pour conduire une meilleure conception du paysage48.
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46. Parmi lesquels
Motokura Makoto 元倉真琴 (1946-2017), Yamamoto
Riken, Ashihara Tarō 芦原太郎
(né en 1950),
Hirakura Naoko 平倉直子 (née en 1950), Dan Norihiko 團紀彦 (né
en 1956), Kuma Kengo, Kojima Kazuhiro 小嶋一浩 (1958-2016), Takahashi Akiko,
Suzuki Edward [Edowādo] 鈴木エドワード (1947-2019), Hara Hisashi 原尚 (né en 1949), etc.
47. L’affaire de la « violation des règles de construction » révèle une certaine attitude vis-à-vis de l’architecture et
des règles de construction, non seulement de la part des
« architectes », mais aussi du grand public.
Par exemple, les dépassements des coeffi- cients d’emprise au sol (kenpeiritsu 建蔽率) et de surfaces hors œuvre brutes (yōsekiritsu
容積率) sont courants, afin d’obtenir autant d’espace (constructible) que possible sur un
terrain
limité. En revanche, on ne peut
pas dire que
la loi ne pose pas
de problème : la réglementation uniforme dans tout le pays ne tient pas compte des conditions locales. Ainsi, dans une zone de maisons
traditionnellement construites en bois, pour des rai- sons de protection contre les incendies, on ne peut plus utiliser
ce matériau. De facto,
il existe donc des
situations où la loi ne peut être
respectée, et c’est
pour cette raison
qu’elle est
qualifiée de loi passoire (zaru hō ザル法).
48. Le système d’« urban architect » du Centre
de promotion des savoirs techniques du bâtiment est le suivant : 1) l’urban architect enregistre les informations nécessaires, y compris ses propres activités, auprès du centre,
qui construit une base de données des urban architects (financée par le Centre)
; 2) lorsqu’un organisme public local, ou autre, recherche un expert en architecture pour contribuer à un projet
de paysage ou d’amé-
nagement urbain, le Centre fournit
des renseignements à partir de sa base de données (rémunération du Centre) ; 3) les projets d’aménagement urbain machizukuri
auxquels participent des urban architects sont
définis avec le soutien et la collaboration des ser- vices de la construction (des administrations locales).
Cependant, le séisme
de Hanshin-Awaji a lieu juste
au moment de la mise
en place de ce système
d’« urban architects »,
et la priorité est donnée
à une stricte observation de la loi sur les normes de construction49. En 1998, celle-ci est partiellement révisée
pour permettre « l’ouverture au sec-
teur privé du contrôle et de l’inspection des bâtiments ». Jusque-là, seuls
les responsables des organismes publics
locaux étaient chargés
de ces tâches, mais leur nombre
devenant insuffisant par rapport au nombre de mises en chantier,
les inspections pouvaient être bâclées, voire omises, et de nom- breux logements construits étaient défectueux.
L’introduction de ce système
d’inspection par des tiers a conduit au scandale des «
documents falsifiés de calcul des structures, 2005-2009 » (kōzō keisansho gizō 構造計算書偽造)50. Dans son ouvrage
L’ère Heisei (2019), Yoshimi
Shun.ya montre, à travers notamment la faillite délibérée
de la société d’investissement Yamaichi
Securities en 1997, les échecs
des banques, des
sociétés de courtage et des fabricants d’appareils électroména- gers,
mais il fait
remarquer que l’industrie du bâtiment a aussi connu
en ses fondements des déchirures et des effondrements51.
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49. Il existait beaucoup
d’autres problèmes en matière d’institutionnalisation. Les prin-
cipaux étaient le système de qualification prévu par la loi sur les architectes, le système de validation des projets de construction défini
par la loi sur les normes de construction,
et les relations avec les dispositifs existants tels que la loi sur l’autonomie locale. En outre, les intérêts
des organismes concernés
étaient intriqués. La mise en place de nou-
veaux dispositifs crée souvent de nombreux conflits
car elle implique
la réorganisation des systèmes existants.
50. En 2005, à la suite
de publications par des blogueurs, le ministère de la Construction a annoncé qu’Aneha Architectural Design Office, l’agence dirigée par Aneha
Hidetsugu 姉歯秀次 (né en 1957) à Chiba,
avait falsifié des documents de calculs parasismiques de nombreux grands bâtiments (résidences de logements collectifs, hôtels) afin de faire
valider par les autorités les plans d’exécution. En réalité, sur le chantier,
les structures étaient sous-dimensionnées pour réaliser des économies, par rapport aux documents
enregistrés officiellement. Plusieurs entreprises de construction ont fait faillite
après la découverte de cette
escroquerie et une dizaine de personnes ont été arrêtées. (N.D.L.R.)
51. En outre, un grand nombre
de pots-de-vin ont été versés
par des zenekon à des
membres du milieu
politique central et local : lors
de l’affaire de « corruption des zene- kon » (zenekon
oshoku ゼネコン汚職, 1993-1994), le ministre de la Construction, les gou- verneurs des départements de Miyagi et d’Ibaraki, ainsi que le maire de Sendai ont été
arrêtés, tandis que le président
et le directeur adjoint de Shimizu kensetsu,
le directeur adjoint, le directeur gérant et le directeur d’une
filiale de Kashima
kensetsu 鹿島建設, le
Même après le système mort-né
des « urban architects »,
divers mou- vements de machizukuri
se sont développés dans tout le pays. Je me suis
moi-même directement impliqué en tant que community architect
dans les activités de la Kyoto Community Design
League52 (2000-2006), avec la création
d’un « cours sur la revitalisation régionale à Ōmi Kanjin 近江環人 » (un programme de
formation continue) à l’université départementale de Shiga, quand
d’autres architectes urbanistes, comme Hayashi
Yasuyoshi 林泰義 (né en 1937) ou Endō Yasuhiro
延藤安弘 (1940-2018), ont soutenu des initiatives à l’échelle nationale.
Puis, en 2004, la loi sur le paysage (keikan hō 景観法) fixe un mode de
production du paysage selon certaines lignes directrices. Cette loi, juridi- quement contraignante, s’ajoute aux arrêtés de chaque collectivité locale. Elle définit plusieurs structures paysagères
remarquables. En sa qualité d’organe administratif, le gouvernement local (les
municipalités) décide d’une zone de projet paysager53, lui donne une orientation visant
à former
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directeur adjoint
d’Ōbayashigumi 大林組, le président, le directeur et le directeur
d’une filiale de Hazama
ハザマ, le directeur adjoint de Nishimatsu kensetsu 西松建設, le direc- teur adjoint de Mitsui kensetsu 三井建設, et le président honoraire de Tobishima kensetsu 飛島建設 ont
tous été condamnés pour corruption. Depuis
lors, on pensait
que cha- cune de ces entreprises encourageait la réforme de conformité aux procédures, mais en 2017,
un cas de collusion avant adjudication des travaux impliquant un zenekon majeur dans la construction de la ligne de shinkansen
Chūō (Rinia Chūō
shinkansen リニア中央新幹線, [ligne de train à sustentation magnétique qui doit relier Tokyo et Nagoya en 40 minutes]) a été découvert. Alors que cette affaire n’est toujours
pas réglée, le monde de la construction peine
à maîtriser sa nature corrompue.
52. La Kyōto
komyuniti dezain rīgu
京都コミュニティ・デザイン・リーグ (CDL) monte des groupes d’architectes qui observent au quotidien l’environnement local, en prennent soin et proposent des projets : c’est
une tentative à proprement parler
de mise en place
des town architects ou
bien des community architects. Les activités de cet organisme sont consignées dans la revue Kyōto genomu 京都げのむ (nos 1 à 6).
53. Dans la loi sur le paysage, elles
sont définies comme suit : 1) zones où il est reconnu nécessaire de conserver le paysage de qualité existant
; 2) zones où il est reconnu nécessaire de former
un paysage de qualité approprié aux caractéristiques – nature, his-
toire, culture, etc. – de la région
; 3) zones servant de bases d’échanges entre régions, où l’on
reconnaît la nécessité de former un paysage de qualité qui contribue à la promotion de ces échanges ; 4) zones où des opérations de développement résidentiel ou d’autres
constructions, des aménagements, sont en cours de réalisation ou ont été
réalisés, et où il est reconnu
nécessaire de créer un nouveau
paysage de qualité
; 5) zones où il est
un paysage
de qualité et propose un projet, mais il peut également mettre en place une structure
dédiée au soin du paysage
(organisation à but non
lucratif ) et instituer un Conseil du paysage. En d’autres termes,
le système de l’urban architect, où un individu
ou un collectif défini peut prendre en charge le projet
paysager d’une ville
(ou d’un quartier) après clarification
des compétences, des rémunérations et des durées de mission,
a été rendu possible grâce à l’institution de ces deux structures54.
En 2007-2008, une Commission d’évaluation des « Directives en matière de projets
de paysage architectural et urbain » est créée au ministère
de la Construction (président Yamamoto Riken) pour veiller à l’application de cette
loi. L’objectif est de mettre en place une version japonaise
du CABE (Committee of
Architecture and Built Environment) britannique, tout en héritant du « Groupe d’étude sur la culture architecturale
et la question du paysage
» actif de 1992 à 1995 (cf. supra). Un système
est mis en place pour subventionner tous les ans plusieurs dizaines
d’équipes établissant ces directives : il fonctionne de 2009 à 2010, mais doit être suspendu en raison du séisme de 2011 de la côte Pacifique du Tōhoku.
III.
5. Conception-construction et super zenekon :
diversification des systèmes
de commande
Le Kasumigaseki Building (Kasumigaseki biru
霞が関ビル, 156 mètres de haut, 36 étages,
maître d’ouvrage : Mitsui
fudōsan, architecte : Yamashita
Toshirō 山下寿郎 [1888-1983]) inaugure
en 1968 l’ère des gratte-ciels au Japon55. Ces immeubles reflètent l’orientation de l’économie japonaise au
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reconnu qu’un paysage de médiocre qualité
peut se former compte tenu des tendances existant dans l’utilisation des terrains de ce secteur.
54. Pour plus de précisions, voir Funo
(2015).
55. Après lui, les plus fièrement
érigés furent : le World Trade Center (Sekai
bōeki sentā biru 世界貿易センタービル, 163 mètres, 40 étages, 1970, Nikken sekkei,
Institut de méca- nique des structures dirigé par Mutō Kiyoshi
[Mutō kōzō rikigaku
kenkyūjo 武藤構造力学研究所]) ; le
Keiō Plaza Building
(Keiō Puraza biru 京王プラザビル, 179 mètres, 47 étages,
1971, Nihon sekkei)
; le Shinjuku Sumitomo
Building (Shinjuku Sumitomo biru 新宿住友ビル, 210 mètres,
52 étages, 1974,
Nikken sekkei) ; le Shinjuku Mitsui Building (Shinjuku Mitsui biru 新宿三井ビル, 225 mètres,
55 étages, 1974, Mitsui
fudōsan, Nihon sekkei) ; le Sunshine
60 (Sanshain 60 サンシャイン60,
240 mètres, 60 étages, 1978,
Mitsubishi jisho sekkei
三菱地所設計, bureau d’étude de Mitsubishi) ;
cours de cette période. Sur quarante tours
de plus de 200 mètres
de haut, six ont
été construites dans les années
1970 contre zéro dans les années 1980. On en compte treize dans les années 1990, dont huit
avant 1995, puis douze dans les années
2000 et dix dans les années 2010.
Bien que Tokyo
ne soit pas aussi densément peuplée
que New York, Chicago,
Shanghai ou Hong Kong, les tours de bureaux ou
résidentielles y sont devenues plus nombreuses
d’année en année,
de même que dans les grandes villes telles
qu’Osaka, Yokohama, Nagoya, Fukuoka,
et même certaines métropoles régionales.
Avec la tour, le dôme est un autre symbole
de la ville en tant qu’environ-
nement toujours
plus artificiel. Achevé en 1988, le Tokyo Dome (Tōkyō dōmu 東京ドーム, Takenaka kōmuten, Nikken
sekkei) est un stade de base-
ball climatisé qui permet
de jouer en toutes circonstances, quelle que soit
la saison ou la météo. D’autres constructions de ce type ont vu le jour par la suite dans les plus grandes villes du Japon56.
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le bâtiment no 1 de l’hôtel de ville
de Tokyo (Tōkyō tochō daiichi
honchōsha 東京都庁第一本庁舎, 243 mètres, 48 étages, 1991,
bureau d’étude en architecture et urbanisme
de Tange Kenzō
[Tange Kenzō toshi kenchiku
sekkei kenkyūjo 丹下健三都市建築設計研究所)) ; la Yokohama Landmark Tower (Yokohama randomāku tawā 横浜ランドマークタワー, 296 mètres, 70 étages, 1993, Mitsubishi jisho sekkei, The Stubbins Associates) ; Abeno Harukas (300 mètres, 60 étages, 2014, Takenaka
kōmuten, Pelli Clarke Pelli
Architects).
56. Le Fukuoka
Dome (Fukuoka dōmu 福岡ドーム, Takenaka kōmuten, Maeda kensetsu kōgyō 前田建設工業, 1993) ; le Nagoya Dome (Nagoya dōmu ナゴヤドーム, Mitsubishi jisho
sekkei, Takenaka
kōmuten, 1997) ; l’Osaka
Dome (Ōsaka dōmu 大阪ドーム, Niken sekkei,
avec Takenaka kōmuten, Ōbayashigumi, Dentsū 電通, 1997) ; le Seibu Dome (Seibu dōmu 西武ドーム, projet : Laboratoire Ikehara de l’université Waseda [Waseda daigaku Ikehara
kenkyūshitsu 早稲田大学池原研究室], conseiller
en conception : Ishiyama Ken.ichi 石山健一, construction du dôme
: Kashima kensetsu, 1999) ; le Sapporo Dome
(Sapporo dōmu 札幌ドーム, Atelier Φ de Hara Hiroshi, Atelier
Bunk, 2001). Le Seibu Dome
est un stade
de baseball unique
en son genre, constitué
seulement d’un toit,
sans murs (non
clos sur l’extérieur). Le Sapporo Dome,
grâce à un dispositif de changement de terrain, sert à la fois de stade de baseball et de foot- ball. Tous ces dômes peuvent bien sûr avoir divers usages.
Outre ces stades,
nous pou- vons encore
citer : l’Ōdate Jukai Dome [à Akita] (Ōdate Jukai dōmu 大館樹海ドーム, Takenaka
kōmuten, Toyo Ito &
Associates, Architects 1997); le
Shellcom Sendai (Sendai-shi okunai guraundo
仙台市屋内グラウンド, Satō sōgō keikaku 佐藤総合計画, 2000) ; l’Izumo Dome (Izumo dōmu 出雲ドーム, Kashima Design, 1992). Hormis les dômes, d’autres bâtiments couverts de grande envergure sont construits
dans l’Archipel,
Le développement des techniques structurelles ne
concerne bien sûr pas seulement les constructions de grande envergure. À
l’instar de Zaha Hadid Architects et de son système BIM de pointe,
le développement des CAO, FAO et BIM57 représente une arme puissante, même pour une petite agence58. Cependant, il va sans dire qu’une
logistique importante est nécessaire pour la conception et l’exécution de très hautes
tours et de vastes dômes.
Dans les années
1960, le débat sur la « dissociation ou l’association de la conception et de l’exécution » a évolué
en une « controverse sur
les constructions
géantes », discutant leur bien-fondé après les chocs pétro- liers des années
197059 ; toutefois, la vraie question
qu’elle posait était : un
![]() |
comme l’Ariake
Coliseum (Ariake koroshiamu 有明コロシアム) et son toit coulissant ou le Toyota
Stadium (Toyota sutajiamu 豊田スタジアム), capables d’accueillir de nombreux
sports de ballon.
57. Voir à propos
des CAO, FAO et BIM, l’article de Yamanashi
Tomohiko, « Thème
: technologies de l’information. Architecture et technologies de l’information : les ten- dances au cours des trente
années de l’ère Heisei », dans la traduction
du dossier Kuwahara Yūki (dir.), « L’ère Heisei et l’architecture », p. 83-146,
de ce numéro. (N.D.L.R.)
58. Saitō Masao 斎藤公男 (né en 1938,
ingénieur en structure, professeur et directeur de Nihon kenchiku bunka hozon kyōkai 日本建築文化保存協会, ARCHI-DEPOT Corporation, institution fondée
en 2015 à Tokyo, qui conserve
et présente un riche
fond de maquettes d’architecture, et
organise diverses activités culturelles autour
de l’architecture) résume en 2018 les différentes possibilités des techniques
structurelles de
« Heisei
». L’évolution des bâtiments de très grande
hauteur du point de vue des struc- tures antisismiques peut se diviser
en cinq périodes : « Tayōna kakō
keikaku to seinō shikō-gata e no tenkan » 多様な架構計画と性能志向型への転換 (Divers plans
de struc- tures et transition vers des modèles
orientés sur la performance), 1990-1999 ; « Shiyō kitei-gata no sekkei kara
seinō sekkei e » 仕様規定型の設計から性能設計へ (De la concep-
tion de modèles
de normes spécifiques vers une conception performante), 2000-2004 ;
« Tayōka suru menshin/seishin shisutemu » 多様化する免震・制震システム (Diversification des
systèmes d’amortissement des vibrations sismiques), 2005-2009 ; « Takasa 300m o koeru sūpātōru jidai no makuake
» 高さ300mを超えるスーパートール時代の幕開け(Prélude à l’ère des tours de très grande hauteur
supérieures à 300 mètres), 2010-2014 ;
« Chōshūki jishindō
to kizon chō kōsō no seishin kaishū
» 長周期地震動と既存超高層の制震改修 (Séisme de longue durée
et réhabilitation parasismique d’immeubles de grande hauteur
existant), depuis 2014.
59. Kōjiro Yūichirō écrit « Kyodai kenchiku ni kōgi suru » 巨大建築に抗議する(Contester l’architecture géante)
dans le numéro de septembre 1974 de Shinkenchiku,
auquel ré- pondent Ikeda Takekuni 池田武邦 (né en 1924),
architecte et dirigeant
de Nihon sekkei,
« architecte », est-ce une structure ou
un individu ? La distinction entre
« bureau d’étude au sein d’une structure » et «
architecte indépendant » (atelier) devient plus claire. Il est inévitable que
les bureaux des grandes structures s’occupent des « constructions géantes ». Et on ne compte plus les cas d’agences, de petite
dimension à leurs débuts, qui sont devenues
d’importants bureaux d’étude.
Cependant, si l’on regarde qui a conçu
les bâtiments de grande enver-
gure tels que tours ou dômes depuis les années 1990, plutôt que des anta- gonismes entre services de
conception des zenekon, bureaux
d’étude, et architectes indépendants, on constate la création de
nouvelles organisations de conception issues de combinaisons diverses (sociétés à vocation spéci- fique, entreprises en partenariat,
supervision/coopération/conseil, etc.).
Avec la mondialisation, la société japonaise s’internationalise, la nature
de la commande architecturale change considérablement et le monde
de l’ar- chitecture éprouve
également le besoin de structures adaptées.
Ce qui a occasionné un changement dans le mode de
commande des bâtiments publics
a été l’introduction de la loi PFI (Private Finance Initiative60), mettant
à profit les fonds, les capacités de gestion et les compé- tences techniques du secteur
privé non seulement dans la conception et la construction, mais
aussi dans la gestion et la maintenance des bâtiments. La loi de promotion pour
l’utilisation de fonds
privés dans l’entretien des équi- pements
publics (minkan shikin nado
no katsuyō ni yoru kōkyō
shisetsu nado no seibi nado no sokushin ni kansuru hōritsu
民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律, dite loi PFI) est promulguée
au Japon en 1999
sur le modèle
de son homologue britannique. L’année suivante, le
![]() |
par
« Kenchiku hyōron no shiten o tou » 建築評論の視点を問う (Questionner le point
de vue de la critique
architecturale), et Hayashi
Shōji 林昌二 (1928-2011), architecte en chef chez Nikken
sekkei, par « Sono
shakai ga kenchiku
o tsukuru » その社会が建築をつくる (Cette société
qui produit l’architecture) dans le numéro
d’avril 1975 de la
même revue ; ensuite, Kōjiro écrit
« Saiban no kisetsu
» 裁判の季節 (La saison des juge-
ments) dans le numéro de mai 1976 et Muramatsu Teijirō « Busū
no kisetsu » 部数の季節(La saison des tirages
d’articles) dans le numéro d’août
de la même année. Kōjiro,
en écrivant que les réponses
à sa « contestation » sont sans
valeur, ferme la discussion.
60. Cette loi cadre un système
contractuel qui correspond au partenariat public-privé, dit « PPP » en France,
qui regroupe en un seul marché conception, construction, entre-
tien, maintenance et gestion d’un équipement public,
avec une maîtrise
d’ouvrage pri- vée. (N.D.L.R.)
cadre de base des projets « PFI » est mis en place
par une Commission de promotion pour l’utilisation des fonds privés
(Commission de promotion PFI), mais les
approximations se succédent, provoquant des faillites61.
Les fonctions des architectes, qui intègrent
désormais des activités de management et de maintenance, vont au-delà de leurs
limites tradition- nelles. Dans le cadre des concours avec un partenariat PFI,
une méthode d’évaluation globale
a été introduite, qui non seulement inclut
les coûts de construction mais également un plan financier lié à l’exploitation et à la gestion
du bâtiment. Le principe de séparation entre
conception et exécu- tion ne s’applique donc
pas au préalable. Il existe de nombreuses modalités de partenariat PFI :
BTO (Build, Transfer,
Operate), BOT (Build, Operate, Transfer), BOO (Build, Own, Operate) et RO (Rehabilitate, Operate). Dans ce contexte, le principe de séparation conception/exécution, défini par le ministère de la Construction en 1959, selon
lequel « les cosignataires d’un projet de conception ne peuvent en principe pas
participer à l’appel
d’offres pour les travaux
de construction », a été revu.
La loi sur la promotion
de la garantie de qualité dans les travaux
publics (kōkyō kōji no hinshitsu kakuho
no sokushin ni kansuru hōritsu
公共工事の品質確保の促進に関する法律) mise en application en avril 2005 a ainsi instauré de manière précise
un système de conception et de construction cohérent, appelé design-build en
Occident (contrat de conception-construction). L’adoption de ce type de contrat
est également une tendance mondiale.
Après avoir reçu une « notification de
déclarations illégales » dans le
cadre de l’affaire « JFTC » et avoir
été requalifié en organisation commer- ciale, l’Institut japonais
des architectes a été contraint de se réorganiser pour adopter un fonctionnement plus ouvert. Après le
décès en 1986 de son pilier, Maekawa
Kunio, cet institut
prend un nouveau
départ en 1987 sous la direction de Tange Kenzō et fort de nouveaux membres
et d’un
![]() |
61. Nous avons participé à l’examen du PFI pour l’hôtel de
région d’Ōtsu 大 津 , et à celui de l’école de police départementale d’Osaka. Des partenariats PFI ont été entrepris pour divers
bâtiments gouvernementaux : bureaux du gouvernement central, bureaux de la direction générale des impôts
de Tokyo, entre autres,
et étendus à la mairie de l’arrondissement de Chiyoda
et à des bâtiments administratifs régionaux. Nous pou- vons citer comme exemples
de faillites : Thalasso (Taraso) Fukuoka
タラソ福岡, le village italien du port de Nagoya
(Nagoya-kō Itaria mura 名古屋港イタリア村, centre commer-
cial et de loisirs) et l’hôpital municipal
d’Ōmihachiman 江八幡.
changement de nom : Nouvel
Institut japonais des architectes (Shin Nihon
kenchikuka kyōkai 新日本建築家協会). En 1996, il reprend son ancien nom, avant de devenir
en 2013 une société civile
d’intérêt public (kōeki
shadanhōjin 公益社団法人). Plus de 8 000 aux premiers temps du Nouvel
Institut japonais des
architectes, ses membres sont aujourd’hui environ 4 500. Les
membres réguliers justifient de plus de cinq ans
d’expérience pratique
après l’obtention d’une licence d’architecte de première catégo- rie, attestant leur expertise dans la conception de tous types de bâtiments. Les présidents successifs de l’Institut ont été
alternativement des architectes issus de bureaux d’étude intégrés à une
entreprise ou bien d’agences renom- mées,
mais avec la diversification actuelle
des modalités de la commande, qui incluent désormais le design-build, les architectes
travaillant pour un bureau d’étude
intégré hésitent entre plusieurs statuts.
Par ailleurs, l’Institut japonais des
architectes a tenté, avec notamment
la Fédération japonaise des architectes, de mettre en place un nouveau sys- tème de « licence d’exercice en architecture (kenchikushi 建築士) », prenant modèle sur celui de l’Union internationale des architectes (UIA),
lui-même fondé sur un idéal classique du métier d’architecte (kenchikuka 建築家). Cependant, le scandale
des « documents falsifiés de calcul des structures » (2005-2009) a fortement freiné
ce mouvement. À cause de cette affaire, le ministère du Territoire, des Infrastructures, des Transports et du Tourisme,
a été obligé de revoir
entièrement, non seulement
la loi sur l’exercice des architectes mais aussi la formation en architecture62 ; cela a abouti à la créa-
tion de nouvelles qualifications : après
une formation suivie
d’examens, les architectes
de première catégorie justifiant de plus de cinq années d’ex- périence professionnelle peuvent obtenir une qualification en conception
de structures ou en conception d’équipements (révision de la loi sur les
architectes de 2006,
application en 2008). Ce système de qualification va dans une direction différente de celle visée par une certification générale des architectes qui supervisaient
la conception architecturale dans son ensemble
: il renforce au contraire les spécialisations et différenciations professionnelles.
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62. Cela a eu pour conséquences la mise en place de formations régulières obligatoires et la révision
des conditions d’admissibilité aux examens ; ainsi, les « matières
fixées » (à étudier) sont depuis devenues des matières désignées (reconfirmées tous
les quatre ans).
Les tenants et aboutissants de la construction du nouveau stade olympique
ont révélé l’ampleur des changements intervenus dans l’environnement des
« architectes » au Japon, ainsi que la structure du monde architectural actuel en tant que telle.
En 2012, après avoir décidé
une reconstruction totale
en vue de créer
un dôme utilisable par tous les temps (zentenkō-gata dōmu kōsō
全天候型ドーム構想), le « Concours international pour le concept
de base du nouveau stade national
» est lancé, mais
beaucoup d’éléments du programme nécessaires au concours demeurent
indéterminés (y compris
la décision d’ac- cueillir les Jeux olympiques). Andō Tadao, le président du jury, a déclaré
par la suite qu’il s’agissait d’un « concours d’idées
», mais la révocation totale
du projet de Zaha
Hadid (fig. 13), la réalisation d’un nouveau concours (design- build), l’organisation des entreprises
candidates, les modes de décision, etc., ont montré crûment les problèmes rencontrés par les concours
d’architec- ture au Japon. En outre, cela a clairement
confirmé que les super zenekon contrôlaient les projets
de construction de grande envergure.
Fig. 13
Proposition
pour le nouveau stade national à Tokyo, Zaha Hadid, 2015.
Source : Funo (2015).
À
partir de 1966, pendant cinq années, Isozaki Arata s’est profondément impliqué dans le projet du site pour l’Exposition universelle de 1970 à Osaka,
et il a été pris
dans le « tourbillon » des dynamiques politiques en jeu. Il a déclaré :
J’ai fait le constat
d’une rupture absolue
entre le radicalisme du changement social et le design. […] Il n’est pas impossible que le radicalisme capable d’unir à la fois le
design et le changement social
n’apparaisse que dans la sphère
des illusions. Inversement, si l’on se focalise sur le radicalisme du changement social,
il existe toujours, même de manière dissidente, un processus d’exercice du design, et donc de réalisation. […] Renoncer au design, ou bien le nier, n’est-ce pas l’unique moyen de
garder une attitude radicale ? (Isozaki 1975)
De même, à la fin des années
1960, Maekawa Kunio,
fer de lance de l’architecture japonaise moderne, a déclaré qu’« aujourd’hui, les meilleurs architectes sont ceux qui ne construisent
rien ».
Isozaki a opté pour « l’architecture comme
art ». Son intention était de
libérer l’« architecture » de ses jougs – ordre temporel (l’histoire), contexte social (le lieu), style, technique –, et d’élaborer des fictions sur des sur- faces planes autonomes (Isozaki 1974). Cependant,
lorsque l’architecture postmoderne a
commencé à se répandre, portée par la vague de la bulle économique, les réalisations consécutives de bâtiments, relevant d’un
« historicisme postmoderne » (posutomodan hisutorishizumu ポストモダン・ヒストリシズム), l’ont rendu perplexe : « J’ai
donc cessé d’y contribuer
comme dessinateur de styles historiques… En tant que postmoderne,
je n’ai pas voulu participer à cet historicisme qui pille les archives histo- riques » (Isozaki 2005). Quand toutes les différences deviennent des objets de
consommation, le privilège des architectes – Isozaki Arata ou un autre – perd
tout fondement. Désormais Isozaki n’est plus qu’« un parmi d’autres
» (one of them). En 2019, il est devenu,
de façon très
convenable, membre de l’Académie japonaise des arts (Nihon
geijutsuin 日本芸術院).
Dans l’immédiat après-guerre, les architectes
avaient cherché à réformer l’ensemble du système de la production architecturale, comme le montre le plan
d’action de la NAU. Maekawa
Kunio gardait constamment à l’esprit ce que devait être le système
des techniques de construction et le système
général de conception et d’exécution. Le « radicalisme capable de rassembler le design et le changement social » dont
parle Isozaki trouve
ainsi son point
de départ dans
l’architecture de l’après-guerre. Cependant, ce sont les super zenekon, considérés comme le summum de l’industrie de la construction, qui ont pris les commandes de la conception et de l’exécution, comme de tout le système de production, et il était
donc impossible pour
un architecte seul de superviser l’ensemble du
processus de la production architecturale. Isozaki Arata constate
cette rupture absolue.
Cela signifie que « l’architec- ture, c’est la société qui la fabrique » (Hayashi 1975),
autrement dit, que
« l’architecture est fabriquée à 99 % par la société (le rôle de l’architecte est de 1 %) » (Murano
2011).
Comme on vient de le voir, une des voies qui s’offre à l’« architecte » pour survivre est celle de l’« architecte artiste ». En effet,
vis-à-vis du design systématisé effectué
par les firmes géantes, il existe une demande certaine pour l’« architecture en tant qu’art ». De fait,
dans la constitution de diverses équipes
de conception, la participation d’« architectes » est
recher- chée (besoin d’un «
nom »). Saitō Masao a proposé
le concept intéressant d’archi-neering (ākiniaringu アーキニアリング), mais chaque projet, même si on distingue l’architecte de l’archi-technocrate, demande
au moins une figure capable de faire une synthèse.
Si l’on examine quelles réalisations ont « fait
date » pour la revue Nikkei architecture (Nikkei ākitekuchua 日経アーキテクチュア), dans le numéro qui revient sur les trente années de
« Heisei
», presque toutes
sont des œuvres
d’« architectes » couronnées de leur nom personnel63.
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63. Les dix œuvres choisies par vingt personnalités, classées par nombre
de voix :
- la médiathèque de Sendai par Toyo Ito &
Associates, Architects (2001)
;
- le musée
d’art contemporain du xxie siècle de Kanazawa par SANAA (2004)
;
- le terminal maritime
international de passagers
de Yokohama par FOA (2002) ;
- la gare de Kyoto par l’Institut architectural Hara Hiroshi + Atelier Φ (1997) ;
- l’Institut de technologie de Kanagawa (Kanagawa
kōka daigaku KAIT kōbō 神奈川工科大学KAIT工房) par Junya Ishigami Associates, Ishigami Jun.ya* kenchiku
sek- kei jimusho 石上純也建築設計事務所 (2008) ;
- le musée d’art
de Teshima* par l’Office
of Nishizawa Ryūe,
Nishizawa Ryūe kenchiku sekkei jimusho
西沢立衛建築設計事務所 (2010) ;
- le Terminal 1 de
l’aéroport international du Kansai par Renzo Piano Building Workshop Japan (1994) ;
D’un autre côté, il est également clair que l’archi-technocrate a pris les commandes de l’époque. Si le projet
est de grande envergure, il devient de plus en plus courant de voir plusieurs
technocrates former une structure ad hoc pour en assurer
la conception. De plus, le BIM, outil
qui intègre conception et exécution, est appelé à se diffuser
toujours plus.
Le problème est
que de tels
structures et systèmes produisent une archi- tecture « médiocre et uniforme » en nombre.
En outre, pareille
orientation est
dépourvue d’objectifs déterminés. En d’autres termes, elle demeure dans le paradigme de la Haute croissance et le devoir
de critique de l’« architec-
ture moderne » reste en suspens. Dans les trente
années qui suivent
l’écla- tement de la bulle économique, une architecture nouvelle
formée à partir d’une critique fondamentale de l’« architecture moderne » n’émerge
pas. Si l’on se contente de cette architecture « médiocre et uniforme », l’intelli-
gence artificielle prendra
tôt ou tard le dessus.
Alors que l’organisation du monde connaît
des changements profonds, la « Terre » s’impose comme nouveau cadre de référence. Si l’«
architecture d’après-guerre » s’est développée dans les simples
limites du « Japon », ce sont le « monde », la « terre » et
l’« univers » qui circonscrivent désormais
le développement de l’architecture. Penser l’architecture dans ce grand cadre terrestre, c’est la penser comme un système mon- dial. Cela prend des dimensions qui dépassent l’imagination d’un seul architecte… Pièces, habitations, quartiers, régions, villes
ou territoires sont d’échelles diverses, la façon d’organiser l’espace
est le sujet des architectes et des urbanistes… A-t-on vraiment proposé une vision spécifique de l’organisation de l’espace ? N’a-t-on pas fini
par se limiter à des parties, en les traitant
selon des modèles
établis en système
? N’a-t-on pas continué à délaisser toute méthode qui connecterait dans leur récipro- cité des espaces d’échelles différentes, par exemple, qui assemblerait l’architecture et
la ville ? (Funo 1995)
![]() |
- le centre funéraire
de Kaze no oka (Kaze no oka sōsaijō 風の丘葬祭場) par Maki and Associates (Maki Fumihiko
sōgō keikaku jimusho
槇文彦総合計画事務所, 1997) ;
- le musée d’art
Hiroshige de Nakagawa-machi Batō (Nakagawa-machi Batō
Hiroshige bijutsukan 那珂川町馬頭広重美術館) par Kengo Kuma & Associates
(Kuma Kengo kenchiku toshi sekkei jimusho
隅研吾建築都市設計事務所, 2000) ;
- la rénovation de la gare de Tokyo-Marunouchi par le bureau
d’architecture de JR East
(2012).
(Naitō
Hiroshi* + Nikkei ākitekuchua 内藤廣+日経アーキテクチュア, Kenshō Heisei
kenchiku-shi 検証―平成建築史 [Examen : histoire
de l’architecture de Heisei], Nikkei BPsha 日経BP社, 2019).
L’avenir des « architectes » se dessinera
sans doute à travers les tâtonne-
ments de réalisations concrètes. Si, de façon très pratique,
l’on revient aux fondamentaux, à supposer que « la conception du logement est le premier
bastion », un thème commun
serait « le moyen de conférer à des fragments une expression du lieu, du territoire, avec la perspective de parvenir à un
« tout » composé de ces parties plus
riches » (Hara 1967).
Comme nous l’avons constaté dans cet article, le
Japon n’est vraiment plus dans l’époque
du scrap and build. Inventer un mécanisme durable (sasutinaburu サスティナブル) qui contrôle et entretient notre
environne- ment immédiat, le restaure
ou le préserve, n’est pas le problème des seuls
architectes. Au Japon,
pays où les catastrophes naturelles sont fréquentes et où le déclin démographique se poursuit, il devient clair
que ceux qui détiennent l’une des clés pour créer ce mécanisme au niveau local,
sont les
« community architects ».
Chaque lieu, chaque
territoire, exige un « architecte » et ses compétences.
Récemment, nous avons
visité les agences
et chantiers de jeunes praticiens à la recherche
d’une nouvelle architecture de proximité (Funo 2019)64. Leur problème majeur
est l’immense mur existant au sein du monde de la construction, qui fait obstacle
à l’essor de ces jeunes
« architectes », à cause de
systèmes de « proposal
competition » (appel
d’offres) où seules
comptent les
réalisations déjà effectuées, au détriment de la créativité.
Traduit du japonais par Mathieu Capel et Amira Zegrour.
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64. Y sont
cités : Watanabe Kikuma
渡辺菊真; Fujimura Ryūji 藤村龍至; Ōshima Yoshi
+ Blue Studio
大島芳彦+ブルースタジオ; Hirata Akishisa 平田晃久; Itō
Mari 伊藤麻里;
Alpha Ville アルファヴィル
(Takeguchi Kentarō 竹口健太郎 et Yamamoto
Asako 山本麻子) ; Morita Kazuya
森田一弥; Saitō Tadashi 斎藤正; Yamaki Hidefusa
八巻秀房 et Iijima Masayuki 飯島昌之; Ōi Tetsuya 大井鉄也; Niwa Tetsuya
丹羽哲矢; Mizutani Toshihiro
水谷俊博 et Mizutani Reiko 水谷玲子; Uoya Shigenori 魚谷繁礼 et Uoya Miwako 魚谷みわ子; Yamamoto Yūsuke 山本雄介; Matsumoto
Daisuke 松本大輔; Aoyama Shūhei
青山周平; Okamoto Keizō 岡本慶三; Ikegami Aoi 池上碧; Okabe Tomohiko 岡部友彦; Mokuchin kikaku モクチン企画 (Muraji Yūtarō 連勇太朗, Kawase Eiji 川瀬英嗣, Nakamura Kentarō 中村健太郎 et
Yamada Rick 山川陸) ; 403architecture[dajiba] (Yada Tōru 彌田徹, Tsuji Takuma 辻琢磨 et
Hashimoto Takeshi
橋本健史) ; Tsubame architects ツバメアーキテクツ (Sandō Takuto 山道拓人, Chiba Motō 千葉元生, Saikawa Himari, 西川日満里 et Ishigure
Masakazu 石榑督和) ; Katsuki Masahiro 香月真大; Ashizawa Ryūichi 芦澤竜一; Oka
Keisuke 岡啓輔.
Fujimori Terunobu 藤森照信
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fin de l’architecture d’après-guerre : notes sur la théorie de
l’architecture
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Isozaki Arata no shikōryoku 磯崎新の
思考力―建築家はどこに立っているか(Quelle place pour les
architectes ? Le Pouvoir de penser d’Isozaki Arata), Matsudo, Ōkokusha 王国社.
itō Chūta 伊東忠太 1894
«
“Ākitekuchūru” no hongi o ronshite sono yakuji o sentei shi waga Zōka gakkai no
kaimei o nozomu »
「アーキテクチュール」の本義を論して其譯字を撰定し我か造家學會の改名を望む
(Réfléchir
au vrai sens de l’architecture
pour
modifier le nom du Zōka gakkai), Kenchiku
zasshi 建築雑誌,
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