2021年6月17日木曜日

対談 平良敬一・布野修司 建築ジャーナリズムの戦後50年

  建築ジャーナリズムの戦後50年,旭硝子株式会社,対談 平良敬一・布野修司,GA,1995SPRING

https://drive.google.com/file/d/10pNDJZF0IJOiBKHKI0kwxsc1nMLE46TF/view?usp=sharing




 新居ヴァサンティ  末吉先生と沖縄の暮らし       

 末吉先生と沖縄の暮らし     新居ヴァサンティ


 初めての日本

末吉先生に1985年、ドーシ事務所で初めて会った。「Okinawa is not Japan.」と言われて、日本の歴史を十分知らない私は驚いたことがあった。インドから初めて出て、新居と一緒に那覇にたどり着いたのは19866月末だった。ムンバイより暑かった。先生のおかげで事務所からすぐ海の向こうの両親と連絡が取れて、無事日本に着いたことを知らせることができた。思い掛けないスピードで、はっきりと会話ができる環境に圧倒される私を見て、

 先生は「This is Japan!」と言って笑った。先生のこの言葉は後々自分の中でよく繰り返したものだった。

 先生に挨拶した後すぐ、私たちは東京へ飛んで一年余り東京の建築設計・コンサルタント事務所でお世話になった。私にとって初めての外国での暮らしだった。日本語、漢字、木造建築、日本の会社や和風空間のしきたりに戸惑いや驚きがたくさんあった。その後、新居と一緒にもう一度沖縄で先生、後藤さんやご家族に三年間、大変お世話になった。沖縄の将来を考えながら建築を通して地域と人々のアイデンティティの意識を高める先生の地域つくりに感銘する。地域に向き合い、建築家の役割を考えるという姿勢は、私にとって貴重な経験だった。日本に暮らすアジア人として、沖縄での暮らしは自分のルーツを探るきっかけにもなった。

 

建築ジャーナリスト平良敬一さんと末吉先生。私がいた時の事務所

1989年、北田英治さん撮影

 

 先生の言葉が漢字勉強を後押し

毎日、東京の通勤時間の片道50分は日本語を勉強し、事務所の会話で言葉を耳になら

せ、帰りに英字新聞を読み、家でテレビのニュースを日本語で見ていた。この繰り返し

で日本語の会話を自流で学んだが、2000字の漢字勉強の恐ろしい壁をこえる意欲はわかなかった。

又吉家のプロジェクトを訳してインドの建築雑誌に紹介された。それ以外に石嶺中学校

に関しての文章を翻訳する時も先生の言葉の力に感動して、それが漢字の勉強     から逃げていた私の後押しとなった。全然足りないが、その頃の毎日一時間の漢字勉強が今までの生活の支えになっている。

ジェスチャーいっぱいの先生のビビッドな言葉や面白い話の中の知らない単語を必死に書き込んで、後で調べると単語が増え、建築、日本や社会文化のいろいろな要素の理解や矛盾を深めることができた。英語で翻訳されていた日本文学も紹介していただいたのが大変ありがたかった。

深く印象に残った「1フィート」の映画も知り合いのインドの映画監督夫婦パトワルダ

 
1フィート映画」をインドに送った時の沖縄の新聞記事

ンさんに送ったことがあった。インドの映画の図書館に保管されています。先生の時々優しくないユーモアが、「自分」を自覚し、活かす大切さも意識させられた。沖縄に行く途中で会った先輩の伊東さんの励ましによって理解ができたと思い、感謝している。

先生は私にインドのことを「なんでやん?」と、いろいろ聞いてくれた。はっきりした答えがほとんど持っていなかった私は機会を見つけて、十分ではないが、母国のことを勉強してきた。ヴァラナシ―や仏教遺産も見てきた。子供にインドのことを伝えることでその意識はもう一歩深まった。長男は東工大で建築を学び、インドのジャイプルをテーマに修士設計した。今はインドのプロジェクトをすることを目指して、日建設計でグローバルデザイン部に務めている。次男は東京外大国際社会学部で南アジアを専攻したことで、インドの現在情報に触れることができる。先生の視野の影響が二世代以上にわたっていると思う。

子供二人と四人で2013年に沖縄を訪ねた時、新居は途中で徳島の現場に戻ることになった。先生は私が運転するレンタカーに乗ってくれなかったので、自分で子供とひめゆりの塔などを回ったが、説明は十分できなかった。その後次男は高校修学旅行で、もう一度沖縄へ訪ねる機会ができた。「一回訪ねただけで沖縄のことが全く理解できなかった。二回目でなんとかなった。」と言ってくれた。

1997年に先生と伊東さんが徳島を訪ねてくれた時


 2013年に那覇の学校を案内して頂いた先生、長男壮真、次男宇大と

 

 自身のルーツを意識

南インドのケーララ州出身の私は転勤家族だった為、ケーララに暮らす機会がなかった。沖縄での暮らしは貴重で、自分のルーツを探る良いきっかけになった。母はヴァスコダガマがインドに入った町、コジコード出身だ。夏休みに祖父を訪ねた時、道路に並ぶ高級住宅の高い壁の両側又は鉄扉に不思議なイギリス風のライオンを沢山見かけたことがあった。

沖縄のシーサのことを調べると歴史的な繋がりが見えてきた。仏教の教えを広げるためにアショーカ王がインドのいろいろな地域に建てた石柱とその上に座る獅子(サンスクリト語で「シンハ」)を作るためにペルシアから石職人を呼びよせたそうだ。日本の神社にも

見かける門の両側に立つ獅子、一頭は口を開けてサンスクリト語の最初の母音「あ」を言い、

写真52001年にコジコードで必死に探して見つけた屋上の獅子

 

もう一頭が口を閉じてサンスクリト語の最後の母音の「アム」を言っている。門でお釈迦の教えすべてを語り、内部を守っている現しだと。その後コジコードの町を訪ねた時、屋根のシーサを子供と一緒に見つけた。

 沖縄のいくつかの方言で母を「アッマ」と呼ぶと先生に教えられた。自分の母を「アッマ」と呼んでいるので、びっくりしたことがあった。学習院大学の大野晋先生によると昔、稲作と一緒に南インドのタミル語が日本に渡ってきたそうだ。沖縄の方言に昔の日本語が結構残っているから「アッマ」の言葉もあると先生に教えられた。

ケーララ州に船の競争の「ハーリ」と同じ行事が毎年8月頃に行われる。向うの船は蛇の形に飾られていて、沖縄の方は竜で、文化の違いが現わされて面白い。私がこのような繋がりを見つけることを先生が「バッチャのジャパジャパジャポロジー」と笑っていた。あるいきさつで私は「バッチャ」と呼ばれるようになっていた。覚えにくい上に言いにくい名前だが、職人の集まりに新居と私は、「兄さん(新居)、ばあさん(ヴァサンティ)、皆家族やん!」と場面を盛り上げた先生の機転に驚かされたことがあった。

ケーララにはガジュマル、ハイビスカス、水牛や芭蕉布もあり、苦瓜、冬瓜や4時の花が懐かしかった。沖縄の暖かい気候と優しい人になじみ、思い掛けなくタクシーの運転手に与那原出身の人と間違えられたこともあった。

 

 沖縄の暮らしがインドから徳島への心準備に

インドの生活から引き継いだ「人間は大きいな自然循環の一部だ」という環境意識は那覇

 

8月頃に行うケーララ州の船の競争が(写真上)沖縄の「ハーリ」(写真下)に似ている。

 の暮らしで深めることができた。先生が柳川へ見学に行く予定が、与儀のお母様がなくなられたことによって、代わりに新居と私が行くことになった。貴重な機会を得させて頂いた。柳川で石井式合併浄化槽と設計をされた石井勲先生に出会った。その後、那覇で久茂地川を活かす活動の一部として、スタジオジブリの最初の映画「柳川」も見ることができた。川を中心とする地域づくりの物語に大変感動した。

徳島で石井式合併浄化槽の設置を自分達の家から始め、設計した六軒の住宅で使わせていただいた。道路を通りかかる人も含め、浄化槽の再生水で沢山の人々を喜ばせるビオトープも自宅以外4軒に実現できた。これが徳島の吉野川の可動堰建設反対の活動につながった。林業、漁業、農業、酪農に関わっている地域の住民から具体的に学んだ自然の循環的仕組みや働きを私たちの設計に取り込む要素にし、住まい手が生活や庭空間から地域までその意識や感性を育てるような努力を続けている。

琉球新報に順番で書いていた新聞の記事に新居が川の話、私は樹木の話を書いた。今、両方の課題が私たちの仕事の原点となった。地域の木材を活かす大切さが伝統木造の循環的な知恵からダイナミックな軸組の理解まで道を広げた。地域に根差した、身心から再生できる木造空間を作り続けたいと思う。再生住宅の「丈六の家」を完成した時、日本建築士会連合会の「建築士」に書いた記事を先生に送った。電話で先生はその方向で続けるようにと、私達にとっては大変励まされる言葉を頂いたことを今も覚えている。

 

「デザインする」とはどういうことか?

日本建築学会の四国支部徳島支所長であった新居が2010年に徳島でシンポジウム「Back to the future from Asia-アジアの視座から地域建築の将来を照らす」を催した。末吉先生が皆さんに大変印象的な講演をして頂いた。その時、高校生の長男の壮真が先生に車のデザインを学びたいと相談したことがあった。「車の時代が終わった。」と一言で済ませた返事にショックを受けた。壮真は今建築の道を楽しんで歩んでいる。その講演会で先生は自分が「ウキウキした建築空間を作りたくない。考えるための静かな空間を作りたい。」と言ってくださった。


           日本建築学会のイベントのポスター、表と裏

  その言葉が気になっていた。2014年に新居がJIA四国・中国支部環境×建築連続セミナー実行委員会委員長として環境セミナーシリーズを催したことがある。沖縄と北海道地域の気候によっての建築事情を四国の建築家に披露する機会ができた。先生が四国を訪ねた時、私がデザインするとはどう言うことかと尋ねることができた。「ちょうど時が来ると全部わかるようになる。それには執念が必要だ。」と先生が答えた。

インドで牛や樹木と身近な暮らしだったが、那覇の末吉事務所で猫と共同生活はその状況をもっと肉体的に経験できた。今徳島で親が残してくれた庭を整理しながら修景している。指導して頂いている福岡の84歳の元気な庭師の先生から樹木一本一本の存在や生命を意識して、大切に扱わないといけないと教わっている。

最近緑や木材を飾りとしての扱い、物の本質を追及していない流行の建築を見ると先生がその道を避けるように指導するだろうと心から実感する。




写真上:2013JIA四国・中国支部主催セミナーシリーズのイベントポスター、表と裏

写真下:2014JIA四国・中国支部主催のセミナーシリーズのイベントポスター、表と裏

建築は思想である -関大末吉研・インド・沖縄・徳島からの思念            新居照和

 末吉栄三先生遺稿集寄稿文                                             2021/01/18

建築は思想である

-関大末吉研・インド・沖縄・徳島からの思念

                                   新居照和

 末吉先生が突然他界されてから2年が経とうとしています。人生は安易でないからか、師の言説や存在が昨日のように生きています。建築家を天職にすることの先生の励ましによって、その後も人生の師や友人に出会ってきたことを思い起こします。尊い縁をいただいた末吉先生をはじめ多くの師、諸先輩、友人たち、家族に感謝します。同時にそれに対して自身の生きる迫力の不甲斐なさを自覚し、精一杯生かせていただかねばと思うこの頃です。

 

 学ぶ歓びを知る

 高校までは自主的に勉強することに疎遠であった者が、大学入試時に東京に向かう飛行機で不思議な出会い方をした徳島大学の添田喬先生(後に学長になられた)から大学で学ぶ刺激を与えて下さり、学生生活をなんとなくは過ごせなかった。大学三年の頃、友人がいた末吉研究室を訪ねた。

 末吉先生に出会ってから、学ぶことがとても面白くなり、向学心が芽生えた。建築を通して見る世界は広く大きく、時や場所を超えて生きる歓びが共有でき、生きがいのある仕事だという気持ちの高ぶりを持った。建築学科七期生の私たちにとって、末吉研究室の諸先輩は沖縄問題を核に社会問題意識が高く、学び実践活動をされていた。その環境は熱気があった。

 

原初に出会う

 師に出会うということは、師が築かれてきた知が、自身の成長のプロセスで、精神、思考に刻まれること。壁に当たった時、人生の選択、自身の羅針盤を考える時、出会ってきた師の言葉が思い起こされる。

 自身の中に一貫して残っている末吉先生が発してきた「建築は思想だ」という言葉とその姿勢がある。自身の仕事に向き合う時、何を考え、果たしてどれほど考えているのか、そして建築が、空間がどのような思想を発しているのか問わねばなるまい。

 「思想とは」追い込まれた時にどう行動するかに表れると言われていたと思う。困難、壁に向き合った時どの道を選択するか、どの行動を選ぶかと聞かされたように思う。さらに以下の言葉が脳裏に残っている。

・「人は瞬間瞬間を、選択している」 

・「人を観る時、その人の最高のところを評価すること」

・「地域を担うという気構え」

時々自己に問いかけている。

さらに研究室で語られていた言葉を思い出す。

・「深く掘り下げていくほど、裾が広がるものだ」

・「自身の成長に応じて相応の人に出会う。」異性の話だったが、自己を問うことになる。

・「毛沢東の実践論」という著作について触れ、内容は記憶にないが実践の大切さを語る。

 

ユーラシア建築・都市見学の旅

 1978年末吉研究室でユーラシア大陸の建築や都市を見る旅に出ようと盛り上がった。庶民が初めて国外に容易に出られるチャンスを得、世界の様々な建築とその文化は、人類と未来への遺産であるという認識が実感する時代を迎えていた。建築に歩みたいものは見る必要があると、先生が焚付け、元気な研究室の仲間と、23か月から横山君の2年という様々な旅に出た。当時小田実著の「なんでも見てやろう」に励まされていた。

 車が購入できる額、車と比べれば一生の糧になると、なんの躊躇もなく両親に旅費をせびった。あちこち寄るので分厚い航空券とトラベラーズチェックを腹巻きに入れて、行かせてもらった。カメラは先生の推薦で全員ニコンFMだったように思う。

 初の海外、パリに降り立つ。都市や風景、公共交通機関のかっこよさ。市民社会と市民生活意識、ヨーロッパの様々な街や地域の美しい風景、ゴシック、ルネサンスの歴史建築、近代建築遺産等。日本は経済発展し調子に乗った雰囲気が流れる世相に見えて、文化意識のレベルの違いに圧倒された。

 ローマから、エジプトに渡り、西アジアに。トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、そして南アジアへ。ヨーロッパをしのぐその大きな文明遺産に感動した。建築が歴史を語ってくれる。建築の中に見るすごい技術や人間の構想力。世界史が西洋史である矛盾。歴史は、現代文明覇者のストーリーであることを実感した。日本が欧米しか見ていない恥ずかしさも感じた。

 エジプト、西アジアではアメリカ合衆国に対してとても厳しく見ていることを知る。戦車の地響きの音、銃口が向けられる。戒厳令が引かれたイラン革命の真ただ中を、外国人が引き上げている最中、無邪気に入国して行った貴重な経験。アフガニスタン、オアシス都市の破壊された巨大仏跡バーミアン、パキスタン。乾燥しきった陸路でカイバール峠から緑が広がる大地インドに入る。貧困を目の当たりにする。植民地でどれほどまで搾取されてきたかがわかる。インドは豊かな緑の大地であった。首都デリーに着いてから一人旅が始まった。現代的感覚ではなかなか理解できない偉大な建築遺産が横たわっていた。

 日本に近づいたと感じたネパール。カトマンドゥに向かって、満員バスで屋根に乗せられポカラへ山中移動。その日は電気のない山村に泊まる。カトマンドゥで、川岸で死体が焼かれ、川に流される光景。人間は大地の一部だ。ルイス・カーン国会議事堂のバングラデッシュへ、旅行バッグだけがバンコックに行く事故。タイに着いて、3ヶ月あまりの旅を終えて帰国。偉大な大地、都市、土地の風景と建築空間に感動し、文明の大きさ、建築や都市の力、時間を超えた本物の建築を知る。

 当時ゼミで名著ルイス・マンフォードの文明論やギーディオンの近代建築などを読んでいたが、実感できなく難しかった。帰国してから、内容がわかること、わかること。生き生きと想像できるようになった。新聞の世界情勢にも関心が行くようになった喜び感を覚えている。先生の指導のもと、その実経験でヨーロッパ近代建築をテーマにした修士論文「近代建築集合住宅計画思想の研究」を書き上げることができた。今思えば我が身の力では大きなタイトルでナイーブな論文だが、近代建築、さらに現代建築を考える上で、今なお自身の思考の礎になっている。修士課程修了と同時に先生は沖縄に帰られ、私たち同期は関大末吉研最後の学生になった。

 

自立的思考に立つ機会

 旅行前、先生のインド留学の提案に共感し、修士課程修了後インドで学ぼうと決めていた。インドから留学依頼の返事が届かなかったので、末吉先生がこの旅の帰りに、インド・アーメダバードまで一緒に旅してドーシ先生に会ってくださるということで、頼っていた。ところがインドに着くなり、大学に早く帰らなければならないと突然先生は私に別れを告げた。自分一人で留学交渉ができると思っていなかったが、選択の余地はなかった。ドーシ先生が設立した建築学校、アーメダバードのschool of architectureがどこにあるのか、デリーの日本大使館に行って学校探しから始めた。大使館は協力してくれたが見つからず、そこからインド一人旅が始まった。不安だったがアーメダバードに行けばなんとかなると。今から振り返ると、自らの進路を見出していくのは当たり前。しっかりしなければならない出発点であった。ジャイプル、ウダイプルからアーメダバードへ、ドーシ事務所にたどり着いた。夕暮れ多忙なドーシさんに片言の英語で会えた時、今から打ち合わせがあるところに連れて行ってあげると、一緒にリキシャーに乗った。訪ねたお宅はル・コルビュジェが設計したショーダン邸であった。

 

インド留学へ

 末吉研究室でのゼミに夢中になり、週末は先生、同僚とあちこち建築見学をしていた。大学院生であったが、職に就くことは考えられず、学ぶことに興味津々であった。「他大学に進学する選択肢もあるが、建築家になりたいなら、大学の研究室のようなところで型に入って窮屈になるのではなく、海外に出て、原初的経験をすることだ。今の年齢、感性や想像力を養うことが一番大事である」と言われた。

 「日本人は欧米ばかり見ているが、第三世界と言われているところに身を置くこと。幸い費用は欧米留学のようにかからない。痛みを負った非西洋世界の観点から世界を観ること。アジアがいい。日本人はアジアに属しながらアジアを知らない。インドは素晴らしい建築・文化遺産と大きな矛盾を抱える大国。アーメダバードは建築を学ぶにおいてとてもいい環境で、ル・コルビュジェの弟子B.V.ドーシさんがクリエイティブな建築大学を創っている。この都市には20世紀巨匠のル・コルビュジェの4つの作品とルイス・カーンのインド経営大学がある。世界中から建築家や歴史家、学生が訪れている。」

 インドのことはほとんど知らなかったし、言葉も準備していなかったが、とてもワクワクする話であった。その後どのようにして両親を説得したか覚えていないが、修士課程修了後、ビザがなかなか下りず、その間沖縄に帰られた末吉先生の事務所にお世話になって、197911月、アーメダバードの建築大学のキャンパスに立っていた。いつだったか、「建築家は言葉を知らなくても眼さえあれば大丈夫」「美しいと感じた時、なぜそう感じるのかそこから分析し、考えよ」インドに発つ前の先生の言葉が残っている。

 

七年間のインド遊学

 最初の1年は酷暑と苦手な辛い食事で大変だったが、不慣れで言葉は不自由でもインドから学びたいという気持ちが助けたのか、キャンパスで多くの友達ができた。あちこちから人が集まる自由な雰囲気が漂うキャンパスで、教職員も寛容で放任的であった。インドは放置された(手がつけられていない)すごい建築遺産があちこちにあり、学生たちは休暇になれば、学校からバスが出て建築や集落の実測調査に出た。研究生だったので、積極的に参加した。

 近年、突然その頃の友人たちと日本で再会できたり、建築活動のコミュニケーションができるようになった。40年近く経っての再会。当時は日本に国際電話をするには都市の中央郵便局に行ってかけざるをえない遠い国だった。現在インドは著しく経済発展をし、日本との物価格差も相当なくなった。当時18の建築の大学しかなかったのが、都市も拡大し今は500校近くある。ICTの発達で、お世話になった家族の関係者や多くの友人と再会できるようになった。さらに子供同士の二世代交流も始まっている。

 

 留学当初2年ぐらい、わからないことが多くて何もできなかった。しかしいつも刺激的で何かがあると強く感じていた。途中、二度帰国したが、1979年から1986年まで7年間過ごした。一回目はA型肝炎を患い徳島大学病院に数ヶ月入院した。少し回復してから末吉先生を訪ね琉球大学でインド建築のことを喋った。

 

 1年目は建築大学(CEPT)のキャンパスに居て精力的に旅に出た。2年目からはドーシ先生の研究所(SANGATH)に籍を置いた。インドに再入国した4年目からは再びキャンパスで、画家サグラ先生のもとで絵を描き始めた。ドーシ研究所で滞在許可を得ているにもかかわらず、変な日本人だと暖かく見守ってくれた。警察が私の身元を尋ねに来るようになった。2年後キャンパスで個展を開いていただき、新設の大学院美術科(KANORIA CENTER FOR ARTS)に籍をおいた。初代校長はドーシ先生であった。「修了証書に頼らない実力を備える場所だ」と言われていた。 

 

留学中、末吉先生、後藤尚美さんが訪ねて下さる。ルイス・カーン設計のインド経営大学学生寮の前で。


ドーシ先生が開催スピーチをして下さって、キャンパスの視覚芸術センターで作品展を開く。

 

インドの二人の師

 当時のCEPTは大きな樹木の下にあるドーシ先生が設計したシンプルだが素晴らしい理念のある学び舎とキャンパスで、学生数は数百人もいなかった。ドーシ先生を始めルイス・カーンの弟子やドイツのフライオットーのスタッフなど著名な事務所の人も教えていた。ペンシルベニア大学やスイス連邦工科大学など海外からの短期留学生や世界的に著名な建築家や歴史家が時々訪れていた。本で見る歴史批評家のデニス・シャープ、ウイリアム・カーティスやケネス・フランプトンがひょっこりキャンパスに現れていた。そうした環境の中で言葉を操れない一番不自由な私を拾っていただいたのが、キャンパスにいる二人の巨匠、ドーシさんとサグラさんだった。

 お二人はインド独立闘争の目撃者でもあり、その精神を持たれていることを感じていた。ドーシ先生は実質七年間のインド滞在の引受人になってくれた。サグラ先生は親しい友達のように扱ってくれ、師の傍で絵画の創作活動をしながら、様々な事を教えていただき、眼と思考の訓練をした。

 ドーシ先生はインドの現代建築教育の礎を作った一人と言える。ル・コルビュジェとルイス・カーンの師弟関係で身近に接した世界で唯一の生存者かもしれない。インドの文化、伝統や地域性を掘り下げ継承しつつ、独立後の進むべき建築を模索し、地域から国家までのスケールの建築や都市の設計をしていた。2018年、建築のノーベル賞と言われるプリッツカー賞をインドで初めて受賞した。インド帰郷時はよくアーメダバードに寄って家族でドーシ先生宅にお邪魔し、いつも歓待していただいてきた。現在93歳。最近お会いしたのは90歳の時で、お元気で、相変わらず気さくで、目は鋭く、話はハッとさせられる。

 インドに来て2年頃、徳島大学の添田先生がインド国鉄との研究プロジェクトで来印し、親から滞在費を持ってきていただいた。デリーでスリ集団にかかりその金を盗まれてしまった。その事態の重たさに途方に暮れていた時、ドーシ先生は「志を持てば諦めてはいけない。途中で諦めれば、次はその半分で諦める。最後は怖くて何もできなくなる」と諭され、住宅団地の比較研究していた研究所から設計スタジオに移りなさい。研究ビザで給料はいただけなかったが、設計スタッフとして非公式に給料をいただくようになる。バンガロールのインド経営大学やマドヤプラデッシュ州の電力公社の設計に従事させていただいた。そっと住宅の設計案を求められた時は嬉しかった。数年前、緑に覆われ大地に馴染んだ二度目のインド経営大学を訪ね、感慨深く回遊した。



サグラ先生と一緒に毎日絵を描くことに没頭していた。アトリエは、School of architectureのオープン・ベイスメントの教室だった。

  その後、無理がたたったのかA型肝炎を患うことになる。一時帰国して半年後、アーメダバードに帰ってきた。事務所に復帰する前にかねてからインドから訴えてくるものを絵にしようと、旧市街に出て絵を描き始めた。キャンパスでサグラ先生に見ていただいた時から、「もっと描け」とおだてられ、次第と絵を描く手ほどきを受けるようになった。サグラさんはキャンパスのオープン・ベイスメントでいつも絵画に打ち込みながら、ついでに学生たちを教えていた。そこに様々な学生、卒業生、教師、事業家も寄ってきて、サグラさんを囲んでいた。サグラさんはその人たちを私のモデルになってもらい、(その人たちは犠牲になり)「指に脳みそができるほどの枚数を描け」と、楽しい修行が始まった。そこを通りかかったドーシ先生が「Niiは何をしているのか?」となったが、それから暖かく見守ってくれるようになった。サグラさんは、芸術やインドの歴史、社会を語ってくれる一方、「自然から学べ」と常に言っていた。作品だけではなく、迫力と魅力ある人間性、会話も人を惹きつけていたが、ずっと師のそばにいるとその創造への格闘、唸りというか、創作への苦闘を感じていた。その後、一緒にあちこち旅もして、風景を読み、それぞれの土地の自然や建築を観察し、絵にしていった。

 

 ニューデリーの国立現代美術館を訪ねた時、サグラさんの作品の特別コーナーがあった。迫力ある眼と風貌のサグラさんは2014年他界した。以下、思い出されるサグラさんの言葉を列記したい。

・「ピカソの絵をピカソ以上に綺麗に描けても価値がない。人類が作ってきた美術の歴史に新しく1ページを増やすこと。芸術はそこに価値がある」 

・「達していくと次第と孤独になるが、時間や場所を超えた人との会話が始まる」 

・大家族を支え、大変な人生であると語られた時、「Life is hard, but I love life

・ロダンの言葉を引用して、「Live Like a King. Think like God. Work like a Slave.」 

・「考える人間は大都市から離れ、自分の時間を持っている」

・「一生懸命作ったいいキャベツは、都会で売って価値を持つ」

・「ジャンプするには棒が必要。しかしもっと高く飛ぶには棒を離さなければならない。その棒の役割が先生だ。」

 

私たちの結婚

 ヴァサンティとは、彼女がドーシ先生の事務所に就職した1980年頃に出会った。1985年、両親にインドを旅行しないかと誘い、ヴァサンティと一緒に一ヶ月間、4人でインドを旅した。早朝ボンベイに着いた時、両親は目に入るあちこちのスラムにショックを受けたが、半月後は「動物たちも生き生きしているインドは面白い。日本に帰りたくない」と母が微笑んでいた。その足でヴァサンティの親が住むバンガロールに行って、両家が会い結婚をした。

 そこに至るまでには支えてくださった方々と奇遇な縁があった。インドに来て2年ぐらい経った頃、この街で初めて日本人に出会った。東京大学でインド哲学を研究されている船津和幸さんとピアニストの恵美子さんご夫婦が留学で来られた。この土地に馴染むことに精力を使っていたので、お会いした時には日本語がスムーズに出てこなくなっていた。苗字も珍しい(徳島以外では)し、最初は日本人でないと思われていたらしい。その後とても親しくなり、兄姉のようにお世話になって、仲人にもなっていただいた。両親との旅は船津さんのアイデアだが、もう一人の立役者に医学者のラディウム・ダルワディさんがいた。

 キャンパスで知り合っていた写真家ダルワディさんの奥様で、アジアから初の助教授として日本の大学に一年間赴任された。その大学が、徳島大学医学部であった。建設業を廃業して農業をしていた両親は生まれて初めて美しいサリーをまとうラブリーなインド女性に会った。田んぼまで来てくれたそうだ。そこでインド旅行を勧められたのだ。ヴァサンティの家族や親戚は高学歴で、日本大使経験者や欧米にもいて、日本人と結婚するのはさほど抵抗感はなかったらしい。しかし田舎の両親にとってはインドに来るまでは大変なことだったようだ。今思えば、両家の親はすごい。

 アーメダバードで知り合った日本人といえばもう一人、弟分がいる。伊勢崎賢治さんで、早稲田大学吉阪隆正研究室の最後の学生で、スラムでソーシャルワークを学ぼうとアーメダバードにやってきた。タフな彼も最初は夏の酷暑に参っていて、キャンパスで一緒に過ごした。その後、彼はインド最大のスラム、ボンベイのダラビーに入っていった。伊勢崎さんは海外のNGOや国連などを渡り歩き紛争調停人として活躍され、現在、東京外大教授をしている。偶然次男がお世話になることになった。

 

帰国し、日本で生きる

 インドから学ぼうと向き合ってきたが美術科を修了し転機がきた。先に帰国された船津和幸・恵美子さんから、私たち二人を雇ってくださると東京都心にある建築設計・コンサルタント事務所を紹介していただいた。ヴァサンティは日本語を全く知らなかった。船津さんご親族からも親身な暮らし支援をいただいた。深夜終電を降りて行列になるタクシー乗り場に走る日も続いたが、日本で生きていくための、ビジネス地での貴重な経験となった。

 

再び末吉研究室で

 恵まれた師匠に支えられてきたので、自らが建築の道を歩まなければという思いがあった。二人は沖縄の末吉研究室で三年間お世話になる。ヴァサンティには、東京、沖縄、徳島と暮らし、日本を理解するいい経験となった。

当初、末吉先生からは「新居の成果はヴァサンティを連れてきたこと。私たちは難民だ」と揶揄された。インドでは学生身分で、エリート教育環境だったが、日本で実務や社会経験がほとんどない私たちが生きていくのは大変だと覚悟していた。先生の言葉は的を得ていた。

 石嶺中学校が完成したばかりで、沖縄を背負う力作を体験した。現場経験をしたいという焦りはあった。三年間学校建築や集合住宅等、設計従事させていただいたが、現場の縁はなかった。先生が初めて沖縄で住宅設計された頃、「リンゴ箱の板でコンクリート型枠を作る程度の理解しかなかったが、独学で勉強していった。現場の経験をしていなくても勉強すればできる」と言われた。

 印象に残る光景がある。石嶺中学校に森を作ろうと寄贈した苗木に水をやりに、運転手になって先生と二人で通っていた。雨が降りそうな時でも水をやりに行くことに幾分抵抗感をもった。しかし校長先生に会い、現場に立った時、戦争で首里のこの丘(本島全域だが)には樹木が一本もなかった光景が想像でき、想いを感じた。

 末吉先生は昔から「地域で頑張ること」を言われていた。東京での生活後は、意識さえもてば日本のどこでも頑張れると感じていた。一ヶ月受験勉強の休みをいただき一級建築士を取得した後、ヴァサンティは馴染んだ沖縄から新しい地に、私は郷里徳島に帰った。

 

徳島で頑張る

 処女作はアルプスの有明山と関係性を持つ高台の家で、信州大学に赴任した船津ご夫妻とご両親の二世帯住宅だった。寒冷地でかつ木造住宅は初めてだった。先輩の伊東真一さんや構造家北風幸祥さんの支援をいただき、インド留学時代建築家毛綱毅曠さんに知り合い紹介していただいた建設会社の地元下請け工務店さんが他業者の半額までコスト調節していただいて、実現した。施主の期待に応えるためにも、専門誌住宅建築に掲載していただいた。2000年新築2作目からも5作まとめて山や水、地域環境を意識した「循環型の住まいづくり」という40ページの特集を住宅建築が組んでくださった。徳島では全国誌の住宅建築に掲載されたからといって仕事がくるわけではなかったが、ふとしたご縁があって、一作一作妥協せず、師に恥じないよう精一杯頑張らせていただいた。

 その後も専門誌が少なくなる時代まで、少ない仕事数の割には、様々な本に掲載され、応募を積極的にする余裕はなかったが建築賞もいただいた。2009年鹿島出版会から「名作再生住宅」という本が出て、三作紹介された時、時代はスクラップ&ビルトからストックが意識され始めたと感じた。作品受賞は日本建築家協会環境建築賞優秀賞、 日本建築学会作品選集、そしてアルカシア(アジア建築家評議会)建築賞を香港でいただいたのが、印象深い。拙作についてはよろしければ新居建築研究所のHPをご覧ください。

 京都大学にいた布野修司先生が2002年から2年間日本建築学会建築雑誌の編集委員長になられ、編集委員に呼んでいただいた。特集「インドの建築世界」を組ませていただき励みになった。2002年エクスナレッジ社から出た「ル・コルビュジェ」の本に、インドの作品をヴァサンティと15ページ書かせていただいた。

 徳島に住み始めた頃、添田先生宅に夫婦でご挨拶に伺った。「死に物狂いで頑張って、ふつう」と優しく言われたのが印象に残る。

地域で暮らす中で

 地域に根ざし、建築を考えることは、地域の問題、課題に向き合うことで、その向こうに普遍的なテーマが横たわっている。木材生産地である徳島の山の問題、生活排水と地域の水環境を意識した設計への取り組み。地場の木材の生命力とそれを組む架構の力で、地域の風景や時間との関係性をつくり存在感ある生活空間を生み出すことを意識してきた。

 1998年頃から徳島県の吉野川で、長良川河口の可動堰を上回る巨大可動堰のダム建設計画を住民が知るようになった。長良川可動堰を住民有志と見学した時、ヘドロがたまりシジミがいなくなった川と、川に人が近寄れない近代的構造に衝撃を受けた。大河が山と海を繋ぐ自然の循環を阻害される構造に危機感を持ち、多くの有志と川とその自然の仕組み、歴史や文化、河川工学等を勉強し、住民活動をしていくようになった。崇高で稀有なリーダー、姫野雅義さんを中心に疑問を持つ多くの住民・市民が働きかけた吉野川第十堰住民投票が、2000年徳島市で実現した。巨大国家事業に対し歴史上初めて建設にストップがかかった。特筆すべきこの住民運動は、建設反対運動ではなかった。住民が国に情報公開を求め、出来うる限り勉強し、政党色を排し、圧力や障害を越え住民の意思で賛否を決めるものだった。次世代に地域の自然の価値をと、志を継承する若者たちを中心に、川遊びを通じて子どもたちに今なお環境学習を行っている。

 2017年日本建築家協会の全国大会が徳島で開催された。テーマは「建築家と土着」で、防災、環境、AIの3つのシンポジウムが核であった。その環境シンポを担わせていただいた。日本を七地域に分けるとはいえ画一化する国の省エネ法施策に対して、日本の多様性とその可能性があることを地域から発信しようした。吉野川流域の中・上流域に200あまり分布する傾斜地集落の環境の成り立ち調査を事例にし、次世代の環境建築を考えることを求めた。この調査は東工大で建築を学んでいた長男がこの地域の集落に関心を持ち行動していたことから始まった。小さい時から祖父母と田畑にでて遊び、吉野川の川遊び教室に行っていたのが、郷土や自然を思うことにつながっているようで嬉しい。

 

若い世代と接する

 非常勤講師の縁もいただき、四国大学で30年、国立阿南高専で10年続き、若者と接している。台湾の中原大学から3年間、4名の長期インターン生が来た。学生の主体性と国際性に感心した。昨年は京都大学地球環境学舎からインターン院生が来て、問題意識を育んだ。それぞれ2ヶ月程の期間、土着のポテンシャルを活かした教育支援をすると同時に元気をもらった。学生たち、事務所から独立していった四人、時々来る短期インターン生を含め若い世代に接する時、これまで世話になってきた師や友人に対し未熟なりにも恩返しのようなつもりで、様々な興味をもたせ、志を励ませるようつき合ってきた。子育て、会計、設計作業に限らず、スタッフやインターン生と食を共にし、英語が母国語と同じのヴァサンティの力は大きい。若者は彼女の料理を手伝い、自宅や地場の食材を使う料理を楽しむようにしている。長期インターン生は一回若者の実家の家庭料理を披露している。

 20年近く前、四国大学で学費と生活費稼ぎで朝方までアルバイトをする元気な元体操選手の中国人留学生、趙冲君がいた。授業で世界遺産級の世界の感動する建築を紹介していたら、ぐいぐいと授業を受けるようになった。将来はシェフと言っていた彼が大学院に進学したいと来た。滋賀県立大学に赴任された布野修司先生に相談したら、受験ができ受け入れてくださった。生活科学科に在籍していた彼は、授業についていくのに大変だっただろうが、布野先生が中国の都市や建築の調査研究を精力的にされていた時期で、博士号を取得するに至った。現在は中国国立福州大学で准教授をしている。彼の大学で行われた建築国際会議があって私たちは招待され、傾斜地集落調査にはドローンを持って応援にきてくれた。現在中国南部と東南アジアの集落調査をしながら、日本と中国の建築文化交流を頑張っている。

 

地域から新たに発信する

 読み返すと時代は大きく変貌していることを改めて感じる。19708090年半ばまでは、それなりの大変さはあっても、恵まれた時代の中にいたかもしれない。ずいぶん楽天的だったと映る拡大的成長期の余韻が残る時代から、徳島県では毎年7000人以上人口が減り続けている人口縮減と高齢化が進み、グローバル化による経済変動と一次産業を始め地域衰退が顕著になっている。世界的には大都市に人口が集中し、環境問題とともに、植民地にされてきた国々の経済は著しく発展し、人口も増え豊かさが拡がる一方、年ごと気候変動の影響は世界各地に深刻な災害をもたらし、コロナ禍でパンダミックにあえいでいる。

 日本建築学会の作品選集選定委員や日本建築家協会の環境会議委員を務め、アルカシア(アジア建築家評議会)のグリーン・サステナブル建築委員会委員で活動していると、日常業務を超えた問題や課題が垣間見えて、危機感が増幅する。

 環境危機の時代と言われ、災害、食料、格差貧困等、今後問題はますます大きくなるだろうと予測されている。どのような世を生きていくか選択が突きつけられ、新たな構想力が問われてくるだろう。ビジネスの規範がSDGsやグリーン・エコノミー、あるいは循環的成長というパラダイムシフトが強く求められている。建築においては、さらなる耐震性、脱炭素化とグリーン建築、レジリエンス、空気環境といった設計、技術課題は否応なく求められてきている。

 これまで多くのご縁や支援をいただいてきた。経験は想像力の源泉になったはずだ。キャンパスでサグラ師は「What is your sword ? −あなたの刃(闘う武器)は何か」と絵を前に語っていた。絵が描けず絵筆が止まってしまう時、「You know everything」意味深に前に進めとよく励まされた。数年前だったか、ドーシさん宅で「その土地、時代で何ができるか考えよ。ル・コルビュジェもルイス・カーンもそうであった」と語られた。インプットからもう一歩足元を掘り下げ、力強いアウトプットへ、年齢的にも正念場が来ている。パートナーと共に、「人と自然の豊かな関係性を再構築する」という問題意識と行動に磨きをかけ、建築言語としての「空間や場所に、これからの時代に対し、人が生きる新たな構想力のある世界観を生み出せるか」建築に没頭することに努めたい。

 

Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi- technocrate ou community architect ? 拡散する「建築家」像―アーティストか?アーキ・テクノクラ―トか? コミュニティ・アーキテクトか? Diffractions of the Architect: Artist, Archi-Technocrat, or Community Architect? Shūji Funo



https://journals.openedition.org/ebisu/4842


Ebisu

Études japonaises

57 | 2020

Les architectes de l’ère Heisei (1989-2019). Rôles, statuts, pratiques et productions


Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi- technocrate ou community architect ?

Diffractions of the Architect: Artist, Archi-Technocrat, or Community Architect?

Shūji Funo

Traducteur : Mathieu Capel et Amira Zegrour

 


 

Édition électronique

URL : http://journals.openedition.org/ebisu/4872 DOI : 10.4000/ebisu.4872

ISSN : 2189-1893

Éditeur

Institut français de recherche sur le Japon à la Maison franco-japonaise (UMIFRE 19 MEAE-CNRS)

Édition imprimée

Date de publication : 15 décembre 2020 Pagination : 23-81

ISSN : 1340-3656

 

Référence électronique

Shūji Funo, « Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi-technocrate ou community architect ? », Ebisu [En ligne], 57 | 2020, mis en ligne le 20 décembre 2020, consulté le 04 février 2021. URL : http:// journals.openedition.org/ebisu/4872 ; DOI : https://doi.org/10.4000/ebisu.4872

© Institut français de recherche sur le Japon à la Maison franco-japonaise


RÉSUMÉS | 要 旨 | ABSTRACTS | 483


Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi-technocrate ou community architect ?

Funo Shūji


拡散する「建築家」像―

ィスト? クノク? ュニテキテクトか?

布野修司

Diffractions of the Architect: Artist, Archi-Technocrat, or Community Architect?

Funo Shūji

Mots-clés : mafia de l’architecture internationale, CAD/CAM/BIM, community architect, réhabilitation, Fukushima, design-build, super zenekon, design de la planète

 

L’auteur : Funo Shūji est professeur in- vité à l’université Nihon et architecte ur- baniste. Après l’interruption de son doc- torat à l’université de Tokyo, il a enseigné dans les universités Tōyō, de Kyoto et préfectorale de Shiga, dont il devint vice- président et administrateur. En 1991, il reçoit le prix de l’Institut d’architecture du Japon pour son étude sur la transfor- mation du milieu de vie en Indonésie.

Résumé : L’ère Heisei définit une époque appelée les « trois décennies perdues » où la place du Japon dans le monde n’a cessé de décliner. Le passage du scrap and build (démolition-construction) à la réhabili- tation, comme la succession des catas- trophes, notamment le grand séisme de la côte Pacifique du Tōhoku, ont ébranlé les fondations mêmes du monde archi- tectural japonais le monopole gran- dissant des super zenekon ne laisse plus de place aux architectes pourtant actifs à l’international. Par ailleurs, des commu- nity architects, dont le travail se base sur le territoire local, ont émergé sans s’établir vraiment. Le concept d’« architecte », né à l’ère Meiji, perd de son autorité pen- dant cette période, diffractant plutôt le portrait de l’architecte idéal.


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484 | RÉSUMÉS | 要 旨 | ABSTRACTS


キーワード

国際建築マフィアCAD/CAM/BIM、コミュニティアーキテクト、リノーション     フクシマ、デザイン・ビルド、スーパーゼネ コン、地球のデザイン

 

著者

布野修司:日本大学特任教授。工学博士(東京大学。建築計画学。東京大学助手,東洋大学 講師・助教授,京都大学助教授,滋賀県立大学教授、副学長・理事を経て現職『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』で日本建築学会賞受賞1991 )。

 

要旨

平成は、グローバリゼーションと情報伝達技

Keywords: International Architecture Mafia, CAD/CAM/BIM, Community Architect, Rehabilitation, Fukushima, Design-Build, Super Zenekon, Design of the Planet

 

The Author: Funo Shūji is a visiting pro- fessor at Nihon University and an urban designer. After leaving his University of Tokyo PhD, he worked at the Tōyō and Kyoto universities, and the University of Shiga Prefecture where he became vice-pre- sident and administrator. He is the winner of the 1991 Architectural Institute of Japan Prize for his research on the transformation of Indonesia’s living environment.


Abstract: Known as “the three lost de- cades”, the Heisei era saw the persistent decline of Japan’s place in the world. Like the series of disasters of the time, including the major earthquake off the Pacific coast of Tōhoku, the shift from “scrap and build” to rehabilitation shook the very foundations of Japan’s architec- tural realm, as architects despite their activities abroad – no longer had their place against the growing monopoly of the super zenekon (contractor giants). Meanwhile, community architects working on Japanese soil emerged but without truly taking root. It was during this period, therefore, that the concept of “architect”, dating back to the Meiji era, lost its authority, thus diffracting the ideal portrait of the architect.


  Portrait diffracté de l’« architecte » : artiste, archi-technocrate ou community architect ?

Funo Shūji**

 

  Introduction

Lorsqu’on pose un regard rétrospectif sur les architectes de l’ère Heisei 平成(1989-2019) – leurs rôles, leurs positions sociales, leurs pratiques (leurs œuvres) et leurs productions (leurs réalisations) – la première question qui se pose est celle de la périodisation : il est difficile de segmenter l’histoire de l’architecture en fonction du règne des empereurs car elle ne peut pas toujours être décrite en fonction des vicissitudes d’un État ou d’une dynastie. Les époques historiques accompagnant le développement des techniques constructives, surtout depuis la révolution industrielle, sont plus aisément concevables dans une perspec- tive globale qu’à l’échelle d’un pays. Néanmoins, on trouve au Japon des divisions comme « l’architecture de Meiji (1868-1912) » (Meiji kenchiku 明治建築) et « l’architecture de Taishō (1912-1926) » (Taishō kenchiku 大正建築).

Les notes de la rédaction (N.D.L.R.) sont rédigées par les coordinatrices du numéro.


** Architecte urbaniste, professeur invité à l’université Nihon.

 


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p. 23-81


 

En 1972, Hasegawa Takashi1 retrace de façon vivante l’histoire de l’architec- ture moderne au Japon selon une périodisation semblable. En d’autres termes, la transition depuis l’ère Meijiqui voit les techniques architecturales de l’Occident intégrées aux objectifs nationaux (bunmei kaika 文明開化2, shoku- san kōgyō 殖産興業3) – jusqu’à la « Démocratie Taishō » (Taishō demokurashī 大正デモクラシー) – moment de l’affirmation individuelle des architectespeut être décrite en tant que période de l’histoire de l’architecture.

Cependant, l’ère Shōwa 昭 和 (1926-1989) ne peut manifestement pas être considérée d’un seul bloc. En effet, l’histoire de l’architecture connaît une coupure nette entre les périodes d’avant-guerre et de guerre. De même, l’après-guerre de Shōwa ne peut être envisagé d’un seul tenant. Les années 1960, l’architecture est en plein essor depuis la reconstruc- tion d’après-guerre et pendant la Haute croissance, et les années 1970, où se succèdent deux chocs pétroliers (1973 et 1979), présentent des aspects complètement différents. De nouveau, à partir de la fin des années 1980, la bulle économique propulse le Japon parmi les premiers rangs mondiaux (Japan as Number One4). Puis, la bulle éclate.

Le début de l’ère Heisei correspond à une phase de grande transformation dans l’histoire mondiale. Même s’il ne s’agit que de coïncidences, la chute

 


1.      Hasegawa Takashi 長 谷 川 堯 (1937-2019), architecte et historien de l’architecture, spécialiste de Murano Tōgo* 村野藤吾 (1891-1984), a publié en 1972 l’ouvrage Shinden ka gokusha ka 神殿か獄舎か (Temple ou prison ?), examen de l’architecture et de la ville modernes, qui a eu un fort retentissement dans le monde de l’architecture. Ce livre réé- value l’importance des détails, des sensations tactiles, critique la recherche d’une monu- mentalité visuelle par des architectes au service du pouvoir national (Tatsuno, Tange, Isozaki) et a été réédité en 2007. (N.D.L.R.)

2.      Expression formée avec les mots bunmei 文明 (civilisation) et kaika 開化 (ouverture), il s’agit d’un slogan utilisé pendant l’ère Meiji pour désigner le mouvement d’adoption des techniques et coutumes occidentales, considérées comme modernes. (N.D.T.)

3.      Expression qui désigne la politique de création d’activités industrielles modernes dans la première moitié de l’ère Meiji. (N.D.T.)

4.      En 1979, la sortie de Japan as Number One d’Ezra Vogel a beaucoup fait parler (Vogel 1979). L’ouvrage prend pour objet le Japon, la reconstruction d’après-guerre et le miracle économique, en saluant sa gestion dans le sous-titre : « Leçons pour les États-Unis ».


*    Les mots suivis d’un astérisque renvoient au lexique situé à la fin du dossier.


 

du mur de Berlin a lieu en 1989, première année de l’ère Heisei, puis la dis- location du Parti communiste de l’Union soviétique, en 1991. Bien sûr, fin de la guerre froide et histoire architecturale ne sont pas liées directement, mais il est certain que l’activité internationale des architectes s’est accélérée dans les années 1990. De nombreux architectes étrangers ont l’opportunité de construire au Japon, alors qu’une nouvelle génération japonaise, avec Andō Tadao* 安藤忠雄 (né en 1941) ou Itō Toyō* 伊東豊雄 (né en 1941), étend son champ d’activités au monde entier. D’autre part, Heisei subit le séisme de Hanshin-Awaji en 1995 et celui de la côte Pacifique du Tōhoku en 2011. Soixante-six ans après avoir fait face à l’anéantissement de Hiroshima par une bombe atomique, le Japon à nouveau s’est trouvé à Fukushima devant des lieux vidés de leur population à la suite d’un accident nucléaire. Des villes qui, après-guerre, se sont relevées de leurs ruines, se retrouvent de nouveau réduites à l’état de débris, ce qui remet fondamentalement en question l’activité des architectes de la période. En résumé, le début de Heisei représente une profonde rupture au Japon, et également dans une perspective globale. Nous ne pouvons pas dire à ce stade si 2019 marquera une rupture aussi profonde. La crise bancaire et financière de 2008, puis la politique menée par Donald Trump, ont peut-être déjà ouvert une nouvelle période. En promouvant « America First » dans sa politique internationale, l’administration Trump aux États-Unis a en effet inauguré une nouvelle ère de montée de l’isolationisme puis du nationalisme, qu’illustre le Brexit au Royaume-Uni.

Même si cet article se concentre sur les « architectes » de l’ère « Heisei »,

nous remonterons aux origines, à l’introduction même du concept d’« archi- tecte », et reviendrons sur l’histoire de l’architecture moderne au Japon.


 

I.  Illusoire « architecte » : un droit professionnel incomplet

L’instauration de la profession d’architecte au Japon et son histoire com- mencent avec la création de l’Institut de construction de maisons* (Zōka gakkai 造 家 学 会 ) en 1886. À la suite de la proposition d’Itō Chūta* 伊 東 忠 太 5 (1867-1954), invitant à se questionner sur la notion même d’architecture (Itō 1894), cet organisme change de nom en 1897 pour devenir l’Institut d’architecture* (Kenchiku gakkai 建築学会), avant de prendre en 1947 son nom actuel, l’Institut d’architecture du Japon*


5.      Pour plus d’informations sur Itō Chūta et l’histoire mondiale de l’architecture ja- ponaise, voir Jacquet Benoît 2015, « Itō Chūta et son Étude architecturale du Hōryūji (1893) : comment et pourquoi intégrer l’architecture japonaise dans une histoire mon- diale », Ebisu. Études japonaises, 52 (Patrimonialisation et identités en Asie orientale). https://journals.openedition.org/ebisu/1615 (dernière consultation en mars 2020). (N.D.T.)


 

(Nihon kenchiku gakkai 日本建築学会) ; nous pouvons donc penser qu’à ses débuts, le Zōka gakkai visait à devenir une association professionnelle d’« architectes ». Le comité fondateur6, composé de quatre membres dont Tatsuno Kingo, est rejoint par vingt-six personnes ayant quitté la Société d’ingénierie (Kōgakukai 工学会, 1879). Son règlement prend pour modèle celui du Royal Institute of British Architects (RIBA, 1835) et de l’Ameri- can Institute of Architects (AIA, 1857). Bientôt, l’Institut d’architecture du Japon change complètement d’orientation. L’affirmation selon laquelle « les architectes japonais devraient être principalement et nécessairement des techniciens à vocation scientifique » s’impose. Néanmoins, il s’agit d’une organisation relative à l’architecture unique au monde, qui promeut à la fois la science, la technique et l’art.

Renforçant son caractère académique, l’Institut d’architecture est à

l’origine de la création d’une association professionnelle des architectes indépendants au Japon : l’Association nationale des architectes (Zenkoku kenchikushikai 全国建築士会), fondée en 1914 par douze personnes dont Tatsuno Kingo7, avant de devenir l’année suivante l’Association des architectes du Japon (Nihon kenchikushikai 日本建築士会). C’est Josiah Conder qui établit le premier bureau d’architecture au Japon en 1888. Il est connu pour avoir dispensé une formation architecturale extrêmement pragmatique à l’École supérieure d’ingénierie (Kōbu daigakkō 工部大学校). Pour être précis, c’est en fait Tatsuno Kingo, son élève, qui a créé cette

 


6.      Ces membres fondateurs sont Kawai Kōzō 河合浩蔵 (1856-1934), Tatsuno Kingo* 辰野金吾 (1854-1919) et Tsumaki Yorinaka 妻木賴黄 (1860-1916), anciens étudiants de Josiah Conder* (1852-1920) à Tokyo ayant fait des séjours d’étude à l’étranger (respec- tivement en Allemagne, en Angleterre et aux États-Unis). Ils ont dessiné les bâtiments abritant les nouvelles institutions du Japon moderne. Kawai était actif à Kobe et Osaka, Tatsuno a dessiné la Banque du Japon (1890) et la gare de Tokyo (1914), Tsumaki, le pont Nihonbashi (1911). Le quatrième, Matsugasaki Tsumunaga 松ヶ崎萬長 (1895-1921) a étu- dié l’architecture à Berlin, est rentré au Japon en 1895, puis s’est installé en 1907 à Taiwan, alors sous domination japonaise depuis 1895, dont il a dessiné les gares. (N.D.L.R.)

7.      Avec Tatsuno, on trouve Sone Tatsuzō 曾禰達蔵 (1853-1937), disciple de Josiah Conder, architecte au service de l’université Keiō et de Mitsubishi ; Chūjō Seiichirō 中條精一郎 (1868-1936) qui a conçu des immeubles de bureaux ; Nagano Uheiji 長野宇平治(1867-1937), disciple de Tatsuno et concepteur de nombreux établissements bancaires ; et Mitsuhashi Shirō 三橋四郎 (1867-1915), concepteur de nombreux consulats du Japon et autres bâtiments de l’administration impériale. (N.D.L.R.)


 

première agence. Après avoir travaillé au Royaume-Uni, Tatsuno loue le deuxième étage d’une fabrique artisanale de papier à Kyōbashi Yamashitachō (Tokyo), pour y commencer en 1886 des activités de concep- tion architecturale. Il est immédiatement accueilli comme professeur invité au département d’ingénierie de l’université impériale (Teikoku daigaku 帝国大学) – dont il devient plus tard président –, ce qui le conduit à fermer son agence. Il démissionne de son poste en 1902 et fonde, à Tokyo, Tatsuno and Kasai Architects en 1903 avec Kasai Manji 葛西万司 (1863-1942), puis à Osaka, Tatsuno and Kataoka Architects en 1905 avec Kataoka Yasushi 片岡安 (1876-1846)8. L’Association des architectes du Japon voit le jour dans ce contexte.

Elle a pour objectif, direct et concret, l’adoption de la loi sur les archi- tectes (kenchikushi 建築士法), qui cependant n’est pas promulguée avant la guerre du Pacifique. Soumise à plusieurs reprises à la Diète impériale dans les premières années de Shōwa, cette loi rencontre en effet l’opposi- tion des zenekon* ゼネコン (entreprises de construction générale), qui reven- diquent le cumul des travaux de conception et de construction9. Elle est finalement promulguée en 1950, mais en tant que loi de certification pro- fessionnelle, et non cadre légal d’exercice du métier. Aujourd’hui, il n’existe encore aucune définition légale de la fonction d’architecte au Japon.

 

 

 


8.      Taki Daikichi 滝大吉 (1861-1902) et Yokogawa Tamisuke 横川民輔 (1864-1945) ont pris la suite à l’agence de Josiah Conder en 1890. Des années 1890 au xxe siècle, Chūjō Seiichirō, Sone Tatsuzō, Kawai Kōzō ou encore Mitsuhashi Shirō, ainsi que d’autres comme Yamaguchi Hanroku 山口半六 (1858-1900), Itō Tamekichi 伊藤為吉(1864-1943) ou Endō Oto 遠藤於菟 (1866-1943), ont établi des bureaux d’architecture indépendants.

9.      Le projet de loi sur les architectes, visant à donner un fondement institutionnel à la profession, est présenté pour la première fois en 1925, à la 50e assemblée de la Diète impériale, il est rejeté en raison de nombreuses oppositions. Par la suite, il est présenté à nouveau et rejeté onze fois de 1926 à 1940. Le problème principal résidait dans l’article 6, interdisant le cumul des travaux de conception et de construction :

« Les fonctions d’un architecte sont les suivantes, sans y être limitées dans le cas de l’approbation de l’Association des architectes du Japon : 1) entrepreneurs en génie civil ;

2) commerce et industrie liés aux matériaux de construction ». La plus grande force d’opposition était celle des entreprises de construction (Funo 2000).


 

II. Architectes du monde et industrie globale du bâtiment : les débuts des architectes de l’après-guerre

II. 1. À partir des ruines : l’architecture humaniste

Hiroshima et Nagasaki, ravagées en un instant par les bombes atomiques, deviennent les symboles du Japon en ruine d’après-guerre (fig. 01). À Tokyo, cible de plus de cent bombardements à partir de novembre 1944, plus d’un million de personnes sont sinistrées à la suite du raid du 10 mars 1945, suivi de quatre attaques aériennes massives en avril et en mai. Dans tout le Japon, 430 municipalités sont frappées.


 

Fig. 01

Tokyo en ruine, 10 mars 1945.

Photo : Ishikawa Kōyō 石川光陽 (1904-1989) 1945.

 

Afin de comprendre les objectifs que les architectes se sont fixés face aux ruines, on peut se référer à l’ouvrage du critique Hamaguchi Ryūichi 浜口隆一(1916-1995) publié en 1947 : L’architecture humaniste. Retour réflexif sur l’architecture moderne du Japon et perspectives, ainsi qu’à la charte de l’Union nouvelle des architectes du Japon (Shin Nihon kenchikuka shūdan 新日本


 

建築家集団, New ArchitectsUnion of Japan [NAU], fondée en 1947), à la formulation aussi limpide qu’un slogan.




  Hamaguchi, dont l’ouvrage est rapidement perçu par de nombreux architectes comme un guide pour l’architecture d’après-guerre10, détaille en quatre points les idéaux de l’architecture moderne : 1) être pour le peuple ;

2)  être produite conformément au fonctionnalisme (kinō shugi 機能主義) ;

3)  posséder un haut niveau technique (métal, verre, béton, etc.) ; 4) être nécessairement belle et de style international. Ensuite, en mettant l’ac- cent sur le logement et les bâtiments publics, il questionne le logement

 


10.   Dans l’ensemble, on pourrait dire que cet ouvrage est une affirmation simple du fonctionnalisme et de l’humanisme en architecture mais, après avoir présenté la position historique de l’architecture japonaise moderne, la question de son style et de l’archi- tecture commémorative pendant le régime militaire (chapitre 1), le développement historique de l’architecture moderne en Europe (chapitre 2) et celui de l’architecture moderne japonaise (chapitre 3), l’auteur se penche sur l’architecture de l’après-guerre et ses perspectives (chapitre 4).


 

minimum et la production industrielle des logements11. Les règles de l’ar- chitecture moderne selon Hamaguchi (soit une architecture fonctionnaliste et pour le peuple) ont ouvert un débat sur l’opposition entre « marxisme » et « modernisme » en architecture, plus tard appelé « controverse de l’ar- chitecture moderne12 ». Les revendications de Hamaguchi semblaient peu énergiques du point de vue des réformes des systèmes de production et de contrôle de l’architecture (Charte de la NAU). La question de la continuité ou discontinuité entre l’avant et l’après-guerre dans le cadre de l’architecture japonaise moderne est réexaminée à partir des années 1970. Cependant, aux débuts de l’architecture d’après-guerre, de nombreux architectes par- tagent les orientations de Hamaguchi et ses objectifs, qui concrétisent selon eux « l’architecture moderne ».

La pénurie de logements est alors estimée à 4,2 millions, dont 2,3 mil-

lions d’habitations endommagées, une situation aggravée par le retour des rapatriés depuis les zones de conflits et la croissance démographique. Une grande part du travail des architectes concerne la construction de loge- ments, donc d’abord leur conception. Un certain nombre de courants appa- raissent : des architectes élaborent divers modèles de maisons individuelles minimum13 ; d’autres14 se préoccupent d’industrialiser la production du logement ; ou bien de planifier l’habitat collectif (shūgō jūtaku 集合住宅) dans le but d’offrir des logements publics tels que le « 51C » (1951nen C-gata 1951C[type C de 1951]) 15 ; on trouve aussi des tentatives pour

 

 


11.   Pour une analyse critique détaillée de Hamaguchi (1947), voir Funo (1981), dont on peut trouver un résumé dans les vingt premières pages de Hamaguchi (1994).

12.   À la sortie de son livre, il y avait déjà eu débat entre Hamaguchi et Zushi Yoshihiko 図師喜彦 (1904-1981) autour de la définition de l’architecture moderne dans la Revue architecturale de la NAU. Par la suite se sont joints aux discussions Satō Saburō 佐藤三郎(1912-2006), le critique et historien de l’architecture japonaise Kōjiro Yūichirō 神代雄一郎 (1922-2000) ou encore Nishiyama Uzō 西山夘三 (1911-1994), professeur à l’université de Kyoto.

13.   Tels que le logement minimum (saishōgen jūtaku 最小限住宅) de Masuzawa Shun 増沢旬 (1925-1990) ou le logement minimum en volume (rittai saishōgen jūtaku 立体最小限住宅) d’Ikebe Kiyoshi 池辺陽 (1920-1979).

14.   Comme Hirose Kenji 広瀬鎌二 (1922-2012).

15.   Yoshitake Yasumi 吉武泰水 (1916-2003) ou Suzuki Shigebumi 鈴木成文 (1927- 2010) élaborent divers modèles de logements dont le plus petit : le « 51C » (12 tsubo,


 

organiser l’offre de logements par les habitants eux-mêmes, grâce à des coo- pératives d’habitations soutenues par les mouvements de mal-logés.

L’architecture japonaise d’après-guerre démarre véritablement grâce au « boom de la construction » dans le contexte de forte demande due au déclenchement de la guerre de Corée en juin 1950. Ainsi, dans les années 1950 et 1960, une architecture moderne est concrètement édifiée au Japon. Le musée du mémorial de la Paix à Hiroshima de Tange Kenzō* 丹下健三 (1913-2005), inauguré en 1955, en symbolise le point de départ. Ce bâtiment, construit à l’hypocentre de l’explosion atomique, signale, à l’intérieur comme à l’extérieur du pays, la reconstruction du Japon et son retour dans la communauté internationale. Après la proclamation par Le Livre blanc de l’économie (Keizai hakusho 経 済 白 書 ) en 1955 que le pays « est désormais sorti de l’après-guerre », le Japon entre alors dans une période de forte croissance économique.

C’est dans les cinq années qui ont suivi la défaite que le cadre institution-

nel régulant en grande partie l’architecture après la guerre est mis en place. Avec les efforts pour améliorer les capacités des entreprises du bâtiment et ajuster les contrats de travaux de construction, leur exécution convenable est assurée, tout en protégeant les entrepreneurs et les sous-traitants grâce à différentes lois : sur l’industrie du bâtiment (kensetsugyō 建設業法), promulguée en 1949 dans le but de promouvoir le bien-être public ; sur les normes de construction (kenchiku kijun 建築基準法) en 1950, révisant radicalement la loi sur les bâtiments urbains (shigaichi kenchikubutsu 市街地建築物法) de 1919 ; et enfin sur les architectes, promulguée en 1950. En réalité, il aurait été également concevable qu’une loi sur les archi- tectes selon un modèle occidental soit promulguée sous le contrôle du Commandement suprême des forces alliées (General Headquarters) après la défaite. Le projet de loi sur les architectes et sur la gestion de la construction de bâtiments (kenchikushi oyobi kenchiku kōji kanri ni kansuru meirei an 建築士及び建築工事管理に関す命令案) d’octobre 1946 proclame clai- rement l’« interdiction du cumul des activités entrepreneuriales » (kengyō

 

 

 


soit environ 35 m²), est le plus largement adopté. Sa caractéristique est de séparer la pièce cuisine/repas l’origine du dining-kitchen [DK] actuel) et les pièces de nuit.


 

no kinshi 兼業の禁止)16. Cependant, au cours des délibérations, la suppres- sion de cette mention empêche la promulgation de la loi sur la profession d’architecte, laissant place à une version concernant uniquement les qua- lifications requises pour obtenir une certification professionnelle. Cela a mis un point final aux mouvements en faveur d’une législation régissant la profession, qui émanaient de l’Association des architectes du Japon depuis l’avant-guerre17.

Les architectes japonais se divisent alors en plusieurs associations. L’Association des architectes du Japon est une organisation fondée en préalable à la loi sur les architectes. Pendant la guerre, le Syndicat japonais de supervision et de contrôle de la conception architecturale (Nihon ken- chiku sekkei kanri tōsei kumiai 日本建築設計監理統制組合), formé en 1944 principalement par des membres célèbres de l’Association des architectes du Japon, est réorganisé en 1947 pour devenir l’Association japonaise de ges- tion de la conception architecturale (Nihon kenchiku sekkei kanri kyōkai 日本建築設計管理協会). De cette dernière est l’Institut japonais des architectes en 1955. En résumé, la structure actuelle en quatre ou cinq organisations professionnelles (Institut d’architecture du Japon, Fédération japonaise des architectes [Nihon kenchikushikai rengōkai 日本建築士会連合会], Institut japonais des architectes, Association japonaise des bureaux d’architecture [Nihonkenchiku jimusho kyōkai 日本建築事務所協会] et, éventuellement, Association japonaise de l’industrie de la construction [Nihon kensetsugyō kyōkai 日本建設業協会]) a pris forme pendant et dans l’immédiat après-guerre.

 

 

 

 

 


16.   La question est de savoir si l’entreprise de construction peut ou non tenir le rôle de maître d’œuvre, c’est-à-dire concevoir le projet, et cumuler les fonctions de conception et de construction, ce qui retire toute prérogative aux architectes. (N.D.L.R.)

17.   Depuis la promulgation de la loi sur les architectes, le problème de la régulation de la profession est seulement posé par l’Institut japonais des architectes* (Nihon kenchi- kuka kyōkai 日本建築家協会), à l’exception de la Gokikai 五期会 (association fondée en 1956, principalement par de jeunes employés des bureaux d’études et des laboratoires universitaires).


II. 2. La décennie dorée des années 1960

Les années 1960 représentent l’âge d’or de l’architecture japonaise. Des Jeux olympiques de Tokyo en 1964 à l’Exposition universelle de 1970* à Osaka (Expo’70), dans un Japon s’affirmant comme un acteur incontour- nable de la communauté internationale, apparaissent des architectes d’en- vergure mondiale, comme Tange Kenzō, avec, à la tête du mouvement du Métabolisme*, Maki Fumihiko* 槇文彦 (né en 1928), Kikutake Kiyonori* 菊竹清訓 (1928-2011), Kurokawa Kishō* 黒川紀章 (1934-2007) ou Ōtaka Masato* 大高正人 (1923-2010).

Dans les années 1960, les architectes commencent à se consacrer réso- lument à la ville, comme l’illustrent, par exemple, le « Plan pour Tokyo 1960 » (Tōkyō keikaku 1960 東 京 計 画 1960) de Tange ou divers projets urbains du mouvement métaboliste18. Si Kikutake écrit : « Nous ne faisons nous-mêmes aucune proposition. Ce sont la confusion et la paralysie de la ville, ainsi que les contradictions et l’inertie des architectes qui amènent les propositions19 » (Kawazoe 1960), « fabriquer la ville » implique d’élargir le domaine de l’architecture (en augmentant ainsi les opportunités de travail), et l’on pense que placer la ville au centre des préoccupations offre un nouvel avenir pour l’architecture. Ce style, imaginant le nouveau domaine de l’ur- ban design pour repenser l’agencement physique des villes selon le pouvoir projectuel des architectes, en interroge la faisabilité sociale, économique et technique, et relève de celui des grands maîtres des temps héroïques de l’architecture moderne. L’image de l’architecte devient celle d’un penseur qui plus est praticien, un être humain total, « architecte du monde » dont il est un dieu ordonnateur.

A contrario, c’est également dans les années 1960 que l’on commence

à prendre conscience de la « crise des architectes » (kenchikuka no kiki

建築家の危機). Il devient de plus en plus évident que des projets toujours

 


18.   Dont par exemple : « Marine City » (Kaijō toshi 海上都市), « Tower City » (Tōjō toshi 塔状都市) et « Ocean City » (Kaiyō toshi 海洋都市) de Kikutake Kiyonori, « Ville spatiale » (Kūkan toshi 空間都市), « Ville agricole » (Nōson toshi 農村都市) et « Ville mur vertical » (Suichoku kabe toshi 垂直壁都市) de Kurokawa Kishō, « Plan du sous-centre de Shinjuku » (Shinjuku fukutoshin keikaku 新宿副都心計画) de Maki Fumihiko et Ōtaka Masato.

19.   われわれが提案するのではない。都市混乱麻痺が,そして建築矛盾停滞提案させるのだ


 

plus complexes et colossaux ne peuvent être menés par un seul architecte. Au début de la décennie, l’historien Muramatsu Teijirō 村松貞次郎 (1924- 1997) soulève plusieurs questions extrêmement provocantes au sujet des fonctions de l’architecte et du système de conception. Après plusieurs articles et enquêtes publiés dans des revues spécialisées, il conclut qu’il faut

« favoriser la conception avec la construction20 » (Shinkenchiku, juin 1962). Une fois comparés plusieurs systèmes de conceptionservices de concep- tion au sein d’entreprises de construction, bureaux d’architecture privés, agences publiques, divers types d’entreprises de construction, laboratoires universitairesil affirme que les bureaux d’architecture privés et les asso- ciations d’architectes ne font qu’idéaliser les architectes libres de « l’ère de la Renaissance qui a moisi en l’état » (kabi no haeta runesansu jidai sono mama カビのえたルネンス時代そのまま) ; quant aux entreprises qui cherchent à développer un service de conception et de construction en cohésion : est l’avenir de l’architecture. Cela confirme que le conflit préexistant depuis l’avant-guerre entre les associations défendant la profession d’architecte et les entreprises du bâtiment se poursuit après-guerre. Une grande partie des affirmations de Muramatsu est contestée (Funo 1981), mais l’opposition structurelle entre les services de conception des zenekon et les architectes (agences d’architecture) persiste jusqu’à aujourd’hui.

20.   Cette affirmation conclut les articles suivants : « Ashita o ninau kenchikuka » 明日建築家 (Architectes responsables de demain, Kenchiku bunka 建築文化, février 1961) ; « Kensetsu-gyō no kenchikuka : karera koso ashita no kenchiku-kai no chanpion dearu » 建設業建築家―彼らこそ明日建築会のチャンピオンである (Architectes de la construction : les champions des organisations professionnelles de demain, Shinkenchiku 新建築, novembre 1961) ; ainsi que la série de reportages qui a suivi :

« Sekkei soshiki o saguru » 設計組織を探る la recherche des systèmes de conception, in

Hamaguchi Ryūichi & Muramatsu Teijirō, Shinkenchiku, novembre 1961-juin 1962).


II. 3. L’affaire de la Japan Fair Trade Commission (JFTC, Kōsei torihiki iinkai 公正取引委員会)

Les temps changent fortement dans les années 1970. Les deux chocs pétro- liers provoquent la stagnation du secteur du bâtiment jusqu’aux années 1980. La courbe des constructions de logements au Japon montre clairement cette tendance. Les logements construits au début des années 1960 étaient d’environ 600 000 unités par an (690 000 en 1963). Pendant la période de Haute croissance, ce nombre augmente d’année en année pour atteindre, à la veille de la première crise pétrolière, 1,91 million en 1973, avant de retomber à 1,14 million dès l’année suivante. Le léger rétablissement des années 1980 n’aboutit qu’à seulement 1,24 million en 1985. Comme écrit plus haut, si l’on estime à 4,2 millions de logements la pénurie dans l’im- médiat après-guerre, le nombre de logements dépasse celui des ménages en 1968, ce qui se vérifie dans tous les départements en 1973. On avait estimé que 600 000 logements construits par an seraient suffisants pour résorber la pénurie en moins de dix ans, mais, en raison de la croissance de la popula- tion après la guerre, puis du nombre des ménages du fait de la décohabita-

tion familiale, vingt années ont été finalement nécessaires.

Dans un sens, il est normal que la morosité dans les activités de la construc- tion change amplement le paradigme architectural. Les années 1960 sont portées par plusieurs vagues de modernisations, touchant l’urbanisation, l’industrialisation, la bureaucratisation, l’essor économique, l’innova- tion technologique et la rationalisation21, mais par contrecoup, pendant les années 1970 se manifestent des réactions critiques. Le changement de paradigme est communément évoqué ainsi : du progrès au retour aux sources ; des villes vers les territoires, et vers la nature ; de l’espace vers l’en- vironnement, et vers le lieu ; du développement vers la préservation ; d’un mode de décision non plus du haut vers le bas, mais de la base vers le haut ; de la quantité vers la qualité.

Au Japon, le changement de paradigme architectural est symbolisé par

Kenchiku no kaitai 建築の解体 (La Démolition de l’architecture, 1975)

 


21.   Quelques thèmes majeurs dans les années 1960 étaient la rationalisation de la conception, des systèmes de conception et de construction. Le mouvement TQC (Total Quality Control) se développe au sein des services de conception des zenekon et des grands bureaux d’étude.


 

de l’architecte Isozaki Arata* 磯崎新 (né en 1931) et Temple ou prison ? de Hasegawa Takashi (1972). Par la suite, ce courant critique contre l’archi- tecture moderne engendre dans le monde les diverses tendances postmo- dernes22. L’ouvrage d’Isozaki forme les architectes de la génération suivante, des années 1970 aux années 1980. Nous avons décrit dans quelle mesure Andō Tadao et Itō Toyō en sont représentatifs : c’est l’architecte en tant qu’individucelui qui s’exprimequi devient leader dans l’architecture postmoderne (Funo 2011).

Cependant, pour les architectes japonais ou, pour être plus exact, l’Ins- titut japonais des architectes, les fondements de leur existence sont remis en question au niveau social : c’est ce que l’on appelle l’affaire JFTC (kōtori mondai 公取問題). Le 19 septembre 1979, la Japan Fair Trade Commission rend une « décision de justice sur les déclarations illégales23 » (ihō sengen shinketsu 違法宣言審決) visant l’Institut japonais des architectes. Elle statue sur plusieurs points contestés depuis 1976 : les architectesc’est-à-dire les fondateurs des agencessont désormais considérés comme des hommes d’affaires en vertu de la loi antitrust, et l’Institut japonais des architectes, dont les membres sont fondateurs d’agences d’architecture, comme une organisation commerciale.

L’affaire prend son origine dans le « concours truqué24 » pour la salle muni- cipale du village de Yame en 1970, suivi d’un problème d’appels d’offres lors

 


22.   Isozaki détermine ses propres orientations en classant le travail des créateurs contemporains des années 1960 (Hans Hollein [1934-2014], Archigram, Charles Willard Moore [1925-1993], Cedric Price [1934-2003], Christopher Alexander [né en 1936], Robert Venturi [1925-2018], Superstudio, Archizoom Associati), situées dans un mouvement réciproque entre deux niveaux de démolition : négation et développe- ment du concept d’« architecture » (introduction de langages d’autres domaines, exten- sion du concept architectural à tous les environnements) et démolition des normes de l’« architecture moderne » (style international et mode fonctionnaliste).

23.   Décision de la JFTC déclarant qu’une entreprise ou une institution a violé la loi antitrust, même si ce n’est plus applicable. Une mise en demeure n’est pas requise, mais cette décision vise à révéler qu’il y a eu une activité illégale. (N.D.T.)

24.   On entend par « concours truqué », à l’occasion de l’attribution d’un projet public, un concours aux apparences équitables, alors que le concepteur lauréat est déjà désigné. En d’autres termes, un « truquage des offres ». Les « appels d’offres de conception » consistent en un concours dont le lauréat est choisi en fonction de son devis. Normalement, lorsque l’État ou un gouvernement local acquiert un bien, le principe de « l’appel d’offres » prime,


 

de la conception d’immeubles de grande hauteur (sekkei nyūsatsu mondai 計入札問題) pour le complexe résidentiel de Takinogawa à Tokyo (Toei kōsō jūtaku Takinogawa danchi 都営高層住宅滝野川団地, 1972) (Funo 2000).

 

II.  4. Tokyo, ville postmoderne25

On a tendance à penser que le Japon, dont la période de Haute croissance a inévitablement été interrompue par les chocs pétroliers, s’est orienté vers une organisation sociale impliquant des « limites à la croissance » et des « res- sources limitées » (Meadows, Meadows & Randers 1972). Cependant, ce n’est pas cette direction qui a été choisie. En effet, dans la deuxième moitié des années 1980, survient une embellie économique faisant croire au retour de la croissance économique.

Le principal catalyseur en est l’accord sur la stabilisation des taux de change (appréciation du yen par rapport au dollar) lors de la rencontre des ministres des Finances du G5 (États-Unis, Royaume-Uni, France, Allemagne et Japon) et des gouverneurs des Banques centrales en septembre 1985 (accords du Plaza). Juste avant les accords du Plaza, le Japon a connu une grave récession due à un taux élevé de sa monnaie, affectant durement les exportations et entraînant nombre de faillites chez les petites et moyennes entreprises. L’engagement international du gouvernement et de la Banque du Japon consiste en des mesures fiscales effectives pour accroître la demande intérieure, comme l’augmentation des investissements publics, ainsi que l’assouplissement monétaire à long terme. En résulte la bulle économique. L’achat d’actifs américains et l’essor des trans- ports internationaux entraînent une augmentation des délocalisations dans des


et, jusqu’à aujourd’hui, les gouvernements locaux l’appliquaient pour les projets d’« équi- pements publics », choisissant les moins-disants. L’article 29 de la loi sur les comptes (kai- kei 会計法) et l’article 234 de la loi sur les collectivités locales (chihō chiji 地方自治法) en sont la base. Cependant, la conception architecturale n’est pas un bien. Même si on applique le principe de l’appel d’offres pour l’« exécution », c’est-à-dire pour les coûts de construction, en ce qui concerne la « conception » cela n’est pas habituel. « La qualité des bâtiments publics doit dépasser la simple logique économique » ; « La qualité et le contenu du projet ne sont pas garantis selon le coût de la conception » ; « Il faut sélectionner les pro- jets selon leurs plans » : telles sont les revendications des « architectes » (Institut japonais des architectes). « L’abîme d’incompréhension » concernant les commandes publiques est profond, c’est cela qui a provoqué le problème JFTC.

25.   Voir Funo (1998b).


 

pays aux salaires inférieurs, et font de l’investissement dans l’immobilier et les marchés boursiers une tendance majeure. Le lundi noir (19 octobre 1987) voit un effondrement mondial des cours; puis, alors qu’autour de 1988 se géné- ralisaient les signes concrets de la reprise économique, l’indice Nikkei 225 atteint le 29 décembre 1989 le record de 38 957, 44 yens (cours de clôture de 38 915,87 yens le même jour), avant que les cours chutent fortement dès le 4 janvier 1990, première séance de l’année. Les 51 mois de décembre 1986 à février 1991 représentent rétrospectivement une période d’économie de bulle (dite bulle ou conjoncture Heisei). Après cela, commence une période de déclin prolongé : « les trois décennies perdues » (ushinawareta 30 nen 失われた30).

L’économie de bulle a stimulé l’activité du bâtiment. Si l’on regarde les chiffres de la construction de logements neufs, on passe de 12,36 millions d’unités en 1985 à 16,85 millions en 1988, puis 17,07 millions en 1990 et enfin 14,03 mil- lions en 1992. Il paraît évident que la Haute croissance des années 1960 a fait émerger une société de forte consommation de masse. Durant cette période, l’habitat au Japon change de façon décisive. Les toits de chaume disparaissent et le taux de diffusion des menuiseries de fenêtre en aluminium passe de 0 % à 100 %. Cela signifie par conséquent une plus grande étanchéité à l’air et une généralisation des climatiseurs. Surtout, l’apparition des maisons préfabriquées a permis le développement de l’industrie du logement. Autrement dit, la maison n’est plus construite in situ, mais fabriquée en usine pour être assemblée sur place. Habitations et bâtiments deviennent des biens de consommation durables, les biens immobiliers sont rendus mobiles, c’est-à-dire que terrains et bâtiments sont transformés en marchandises : c’est la « marchandisation de l’espace social » telle que décrite par Henri Lefebvre (1974). Ce qui apparaît pendant la période de la bulle économique, c’est l’intensification de cette tendance. Le postmoder- nisme en architecture est ainsi porté, non pas par une opposition à la société industrielle, mais au contraire par la radicalisation de celle-ci.

À la suite des accords du Plaza, le yen devient une devise importante dans

le monde et Tokyo, en tant que centre financier international, prend une position privilégiée parmi les villes japonaises. Dans le même temps, dif- férentes études de restructuration de Tokyo (Tōkyō kaizōron 東京改造論26)

 

 


26.   Dans les domaines de l’architecture et de l’urbanisme, jouent un rôle d’instigateur : Matsuyama Iwao 松山巌 (né en 1945, architecte, critique et écrivain) en 1984 ; Jinnai


 

sont proposées. Toute cette production de Tōkyō-ron 東京論 (tokyolo- gie27), jouit d’une extraordinaire prospérité du milieu des années 1980 aux années 1990. Tokyo, ville postmoderne, attire alors l’attention du monde entier28. Cependant, alors que s’accélére toujours davantage l’hyperconcen- tration, la ville atteint clairement un état de sursaturation. Il faut trouver des cibles pour investir l’argent surabondant, mais l’offre en biens immobiliers au Japon est alors limitée. S’il semble clairement impossible de faire des acqui- sitions à l’étranger, s’impose l’obligation de créer des espaces générant des retours sur investissement élevés. L’archipel connaît à nouveau une période de développement effervescent du territoire, dont l’un des enjeux majeurs est le réaménagement de la capitale et sa restructuration29. Kurokawa Kishō annonce ainsi un « Plan de remblaiement de la baie de Tokyo » (Tōkyō-wan

 


Hidenobu 陣内秀信 (né en 1947, historien de l’architecture) en 1992 ; Fujimori Terunobu

藤森照信 (né en 1946, architecte, histoirien de l’architecture japonaise) en 2004.

27.   Mot emprunté à Berque Augustin, La qualité de la ville, MFJ, 1987, p. 9. (N.D.T.)

28.   Ce qu’on appelle Tōkyō-ron peut être divisé selon trois grands axes temporels : ré- trospectif, postmoderne et de restructuration. La tokyologie rétrospective exhume avec ardeur le passé disparu Edo –, jusqu’au Tokyo des années 1920, ou encore le relief, les rives et rivages, la verdure, la nature. Ainsi, s’opère un retour nostalgique vers un Tokyo disparu. A contrario, la tokyologie postmoderne encense avec ardeur la Tokyo ac- tuelle : aujourd’hui, Tokyo est intéressante ; la ville la plus excitante du monde s’appelle

« Tokyo ». Ces deux théories ont cependant les mêmes racines : des fragments de styles architecturaux du passé couvrent la ville en surface. En d’autres termes, il s’agit de de- sign historiciste et superficiel. Vis-à-vis de l’architecture moderne, les décors et les styles que prône le postmodernisme contrastent aisément. Le passé ou la nature sont exhumés avec facilité, et la ville alors se pare de simulacres. En conséquence, ces deux tokyologies ont recouvert et obscurci [l’histoire de la ville], ce qui a soutenu et favorisé la proliféra- tion des restructurations dans Tokyo. La nostalgie semble impuissante à elle seule, mais la redécouverte du passé, de la nature et des bords de l’eau dans les villes fut habilement connectée au redéveloppement des waterfronts et à la rénovation urbaine.

29.   Réaménagement et restructuration visent d’abord des terrains publics inutilisés dans le centre-ville, ainsi que des secteurs résidentiels dans les quartiers populaires (shi- tamachi 下町). Ces deux localisations étaient d’une grande commodité avec un potentiel élevé d’utilisation grâce au réaménagement. Pour résumer, en tant que limite, la pre- mière posée fut aérienne. Ensuite, l’objectif de développement suivant est le front de mer. On met en avant la redécouverte des littoraux et l’importance des terrains en bord de mer ou de cours d’eau, mais en vérité, l’attention a surtout été attirée par des ter- rains que le déclin de l’activité portuaire avait rendu obsolète, et dont les prix n’avaient donc pas augmenté. De plus, le remblaiement, offrant la possibilité de produire de


 

umetate keikaku 東京湾埋立計画), et Tange Kenzō un « Plan pour Tokyo 1986 » (Tōkyō keikaku 1986 東京計画1986), comme la révision de son « Plan pour Tokyo 1960 ». C’est une résurrection du Métabolisme, et la frénésie autour du remodelage de Tokyo apparaît comme la renaissance de l’âge d’or des années 1960. La question de la critique de l’architecture moderne semble en tout cas s’être envolée. Les villes des régions d’Asie en voie de développe- ment entament également un essor surprenant (Funo 2003, 2005).

Environ trois mois avant la mort de l’architecte Maekawa Kunio* 前川國男 (1905-1986) qui a sans doute marqué la fin d’une époque30, Tange Kenzō est choisi comme concepteur du nouveau siège du gouvernement métropolitain de Tokyo (Tōkyō-to shintochōsha 東京都新都庁舎). Au début des années 1980, Tange, leader avec Maekawa de l’architecture de l’après- guerre au Japon, et qui avait critiqué le postmodernisme pour « son absence de porte de sortie », adopte des éléments historiques évoquant nettement le style gothique, ce qui fait scandale. Ce bâtiment est-il un monument

 

 


nouveaux terrains, devient aussi un objectif. L’espace souterrain est aussi l’objet d’atten- tion. L’usage de l’espace aérien donne en outre accès à son sous-sol.

30.   Maekawa meurt le 26 juin 1986 à 81 ans. Sa vie se compose de deux parties de qua- rante années de part et d’autre de la défaite de 1945. Beaucoup de choses se passent en un demi-siècle. La transformation de la société japonaise a été spectaculaire. La maturité de la société industrielle atteinte, devenue une société mondialisée, le Japon devient l’une des principales puissances économiques. Les divers flux de la modernisation, de la rationalisation, de l’industrialisation dans la production du bâtiment semblaient avancer en ligne droite. Cependant, pour Maekawa, l’architecture de la modernité ne s’était sans doute pas encore accomplie, parce que l’idéalisme naïf qui soutenait l’idée de cette architecture moderne, était toujours forcé à un compromis dans le milieu japo- nais (Nihonteki fūdo 日本的風土). En réalité, ce sont les principes économiques et la logique de l’industrialisation qui tenaient le pouvoir. Les architectes avaient beau insis- ter sur la nécessité de la libre indépendance, ils avaient beau hisser haut ces idées : la réalité trahissait toujours leurs idéaux. En outre, les structures spécifiques qui régissent le monde de l’architecture japonaise ne changeaient absolument pas, et cela constituait un autre problème majeur. Dumping des coûts de conception, concours truqués, cor- ruption des zenekon, sous-traitance en cascade, etc., la nature de ce monde du bâtiment reste inchangée. À la lumière des débuts de Maekawa et de l’architecture de l’immédiat après-guerre, ce scénario non seulement perdure, mais il se pourrait que cette situation se poursuive à jamais. Cependant, l’histoire de l’architecture de l’après-guerre, même en un demi-siècle seulement, permet déjà d’examiner le cours des événements.


 

commémoratif de l’architecture moderne, ou bien sa pierre tombale ? La question a longtemps continué d’être débattue.

 

III. Les trois décennies perdues : le Japon en déclin

D’abord, d’un point de vue global, la transition de Shōwa à Heisei, autre- ment dit des années 1980 aux années 1990, correspond à la fin du modèle de la guerre froide après la chute du mur de Berlin (novembre 1989) et la dislocation du bloc communiste (décembre 1991). Après l’échec des gran- dioses tentatives de l’humanité pour construire un système socialiste depuis la Révolution russe (1917), la suprématie du monde capitaliste devient incontestable. Depuis lors, les États-Unis dominent le monde entier. L’ère de la globalisation arrive pour de bon.

Deuxièmement, cette période marque l’avènement d’une société de réseaux, grâce à la révolution des technologies de l’information et de la communication. L’histoire d’Internet remonte aux années 1960, mais l’uti- lisation du réseau Internet mondial (suite TCP/IP), créé en 1989, débute en 1995. Elle se standardise rapidement dans le monde entier, puis les pro- grès et la diffusion des ordinateurs personnels et des téléphones portables contribuent grandement à la réalisation de cette société des réseaux. Ces premier et second points sont, bien entendu, étroitement liés.

Cependant, le monde, désormais soumis, semble-t-il, à la domination amé- ricaine, ne va pas nécessairement vers la stabilisation. Le développement du capitalisme mondial, c’est-à-dire l’implantation des lois du marché partout dans le monde, creuse les inégalités. Par la suite, le refus de cette hégémonie conduit à la montée de nationalismes ethniques. Les attentats terroristes du 11 septembre 2001 en sont un symbole et, depuis lors, le terrorisme fonda- mentaliste islamiste s’est amplifié. Autrement dit, après 1991, 2001 constitue l’autre moment majeur de l’histoire du monde. Dans l’histoire de l’architec- ture mondiale, la démolition en 1972 de la Cité Pruitt-Igoe31 (Saint-Louis), conçue en 1951 par Minoru Yamasaki (1912-1986) est considérée comme

 


31.   Pruitt-Igoe est un ensemble de trente-trois immeubles de douze niveaux regroupant 5 800 logements sociaux, construits en béton à partir de 1955 à Saint-Louis, dans l’État du Missouri. C’est un des premiers grands ensembles appliquant d’une manière très


 

la fin de « l’architecture moderne » ; l’effondrement brutal du World Trade Center, également conçu par Minoru Yamasaki, en 1973, marque quant à lui la fin des « gratte-ciels parallélépipédiques ». Depuis lors, les tours tordues ou vrillées participent de l’« architecture iconique » (aikon kenchiku アイコン建築). De plus, les questions environnementales planétaires et l’explosion de la population mondiale en sont venues à définir le monde depuis les années 1990. Déjà d’actualité depuis les années 1970, ces problèmes s’aggravent, tout comme ceux liés à la préservation de la planète, tels que la pauvreté, les phénomènes météorologiques extrêmes, les déchets nucléaires, sans entraîner nécessairement un changement de paradigme à même de les résoudre. Le manque de mesures radicales pour lutter contre le réchauffement climatique a été sévèrement mis

en accusation par la jeune militante écologiste suédoise Greta Thunberg.

Au début des années 1990, le PIB nominal par habitant du Japon dépasse celui des États-Unis, devenant ainsi le premier au niveau mondial. Cependant, après l’éclatement de la bulle, le taux de croissance du PIB passe à partir de 1992 à une moyenne annuelle d’environ 1 %. Après avoir atteint au cours de la période de 1955 à 1973 environ 10 %, la croissance se maintient autour de 4 % de 1975 à 1991. Il est clair que les trente années de « Heisei » ont consti- tué une ère complètement nouvelle dans le Japon d’après-guerre.

Le sociologue Yoshimi Shun.ya 吉見俊哉 (né en 1957) qualifie Heisei d’« époque de l’échec ». Il parle aussi des « trois décennies perdues » (Yoshimi 2019). Si nous pouvons nous questionner sur ce qui a été perdu et ce qui a échoué32, il est clair que la position du Japon dans l’économie mondiale n’a cessé de décliner et que le Japan as Number One fait maintenant partie du passé. Par ailleurs, les changements dans l’industrie sont importants. Le Japon de l’immédiat après-guerre était une nation agricole. Le nombre de salariés du secteur primaire a fortement chuté, sous les seuils des 20 % en 1970 (13,8 %) puis des 10 % en 1985 (9,3 %). En 2017, il est de 5,1 %. Le secteur secon- daire, qui représentait quant à lui 34,1 % des salariés en 1975, est resté dans la fourchette basse des 30 % jusqu’en 1995 (31 %), mais tombe à environ


radicale et austère les règles de l’urbanisme et de l’architecture modernes, conçu par Minoru Yamasaki, architecte américain d’origine japonaise. (N.D.L.R.)

32.   Yoshimi Shun.ya a comparé les classements de capitalisation boursière des entre- prises mondiales entre 1989 et 2018. En 1989, première année de l’ère Heisei, 33 des cinquante premières entreprises étaient des entreprises japonaises, mais trente années plus tard, seule Toyota y figurait et en 35e position.


 

25 % au xxie siècle (25,9 % en 2017). La proportion des salariés du secteur tertiaire, de 39,6 % en 1950, n’a cessé d’augmenter et dépasse désormais les deux tiers (67,3 % en 2017). Le Japon est ainsi passé d’une société majoritai- rement agricole à une société industrielle, puis postindustrielle.

La transition démographique est directement liée aux changements structu- rels de la société japonaise. La population totale du Japon, d’environ 72 mil- lions en 1950, a augmenté d’une dizaine de pourcents par décennie entre 1950 et 1980 (environ 117 millions), d’un peu plus de 5 % entre 1980 et 1990

(124 millions) et de plus de 3 % entre 1990 et 2000 (127 millions). Cependant, la tendance a changé au xxie siècle, avec un taux désormais négatif depuis 2005. On prévoit une population de 95 millions en 2050 et de 48 millions en 2100. Sur une population totale de 124,44 millions d’habitants en 2018, les plus de 65 ans en représentent 35,58 millions (28,1 %). Le nombre des 15-64 ans a commencé à décliner après le pic de 8,716 millions atteint en 1995, tombant en dessous des 60 % (59,7 %), soit à 7,545 millions. Le Japon d’après-guerre peut être divisé selon les tendances économiques et démographiques, avec des moments clés en 1955, en 1973, en 1991 et en 2005 (fig. 02).




Fig. 02

Évolution de la pyramide des âges au Japon

Source : Rapport intermédiaire « Perspectives à long terme du territoire national » (Kokudo no chōki tenbō 国土の長期展望), commission sur les perspectives à long terme, ministère du Territoire, des Infrastructures, des Transports et du Tourisme (Kokudo kōtsūshō 国土交通省, MLIT), février 2011.

Traduction : Amira Zegrour.


 

Le Japon subit les mouvements de l’économie politique mondiale depuis l’éclatement de la bulle économique en 1991, et une série de catastrophes natu- relles a profondément affecté la société. En particulier, les séismes de Hanshin- Awaji en 1995 et de la côte Pacifique du Tōhoku en 2011 en ont ébranlé les fondements. Mais revenons à l’architecture de « Heisei » et à ses architectes.

 

III. 1. Mafia de l’architecture internationale et conception assistée par ordinateur (CAD/CAM/BIM)

L’essor de la globalisation a offert à d’éminentes figures de l’architecture un espace d’activité au-delà des frontières de leur pays. Les architectes japo- nais qui avaient montré au monde leurs capacités dans les années 1960, ont eu de plus nombreuses opportunités pour travailler à l’étranger33 ; en retour, l’économie de la bulle a attiré de nombreux architectes étrangers au Japon. De la fin de Shōwa au début de Heisei, plusieurs projets ont ainsi été réalisés au Japon par des architectes étrangers34.

 


33.   Tange Kenzō, architecte majeur du Japon dans les années 1960, a travaillé sur le plan de reconstruction après le séisme de 1963 à Skopje (aujourd’hui en République de Macédoine du Nord). À partir des années 1970, il a concentré ses travaux dans des pays en développement, avec par exemple l’aéroport international du Koweït (1979), le Palais présidentiel de Damas (1981), le Palais national d’Arabie saoudite (1982) et l’Overseas Union Bank Centre de Singapour (1986).

34.   On peut citer, de manière non exhaustive : Hotel il palazzo (1989) d’Aldo Rossi (1931-1997) ; Immeuble à Momochihama (1989) de Michael Graves (1934-2015) ; le musée d’Art contemporain Watari (1990) de Mario Botta (né en 1943); Century tower (1991) de Norman Foster (né en 1935); Sierra Resort Hotel Hakuba (1994) de Charles Willard Moore ; Sea Hawk Hotel and Resort (1995) et Abeno Harukas (2014) de Cesar Pelli* (1926-2019) (fig. 03) ; Tokyo International Forum (1996) de Rafael Viñoly (né en 1944).




Fig. 03

Abeno Harukas [harukasu] あべのハルカス, Osaka, 2014.

Conception : Takenaka kōmuten* 竹中工務店 et Cesar Pelli (supervision extérieure).

Photo : Oilstreet.


 

À partir des années 1990, les premiers à étendre leurs activités à l’échelle mondiale appartiennent à la génération du Métabolisme qui a succédé à celle de Maekawa Kunio et Tange Kenzō. On retient surtout Isozaki Arata, pour ses œuvres très discutées dans le monde architectural globalisé, dont le Palau Sant Jordi (enceinte sportive et multifonctionnelle construite pour les JO de 1992, Barcelone, 1990)35.

Isozaki Arata, curator, organisateur, théoricien de l’« architecture post- moderne », a participé aux premiers jurys du prix Pritzker*36, organisé les « Conférences Any* », et occupé ainsi une position essentielle dans la première communauté d’architectes leaders dans le monde, qu’il appe- lait lui-même la « mafia de l’architecture internationale ». Pour les divers projets d’immeubles Nexus World* (Nakusasu wārudo ネクサスワールド) à Kashiihama 香椎浜 (Fukuoka, 1992), en tant qu’organisateur, c’est lui qui a désigné Steven Holl (né en 1947), Ishiyama Osamu 石山修武 (né en 1944), Rem Koolhaas (né en 1944), Mark Mack (né en 1949), Christian de Portzamparc (né en 1944) et Oscar Tusquets (né en 1941). Il a également été commissaire pour le projet « Kumamoto Artpolis* » (Kumamoto ātoporisu 熊本アートポリス, fig. 04), et juré de nombreux concours interna- tionaux, jouant un rôle majeur dans l’avènement d’une jeune génération d’architectes. Par exemple, lors du concours du « Peak Leisure Club » au sommet du Victoria Peak à Hong Kong en 1983, qui a marqué les débuts de Zaha Hadid* (1950-2016), ou bien au Japon pour le concours du musée commémoratif Sakamoto Ryōma (1991), qui a confirmé ceux de Takahashi Akiko* 高橋晶子 (née en 1958).

 

 

 

 


35.   Autres réalisations internationales d’Isozaki : le Palladium (1985), vieux cinéma de New York transformé en discothèque ; le musée d’Art contemporain de Los Angeles (1986) ; le musée de l’Art et de la Technique japonaise Manggha (Cracovie, 1995) ; le National Wetland Museum (Hangzhou, 2009).

36.   Les lauréats japonais sont au nombre de sept (équipes) : Tange Kenzō (1987), Maki Fumihiko (1993), Andō Tadao (1995), Sejima Kazuyo* 妹島和世 (née en 1956) et Nishizawa Ryūe* 西沢立衛 (né en 1966) de SANAA* (2010), Itō Toyō (2013), Ban Shigeru* 坂茂 (né en 1957) (2014) et Isozaki Arata (2019). Les États-Unis en comptent huit, ce qui met en évidence la reconnaissance internationale des architectes japonais.


Fig. 04

Ensemble départemental de logements collectifs Hotabuko no 1 保田窪第一団地, départe- ment de Kumamoto, 1991.

Conception : Riken Yamamoto & Field Shop (Yamamoto riken sekkei kōjō 山本理顕設計工場), participation au projet « Kumamoto Artpolis ».

Photo : Yamamoto Riken* 山本理顕 (né en 1945).

 

Après Isozaki, ont suivi Andō Tadao, Itō Toyō, Sejima Kazuyo et Nishizawa Ryūe (SANAA), Kuma Kengo* 隈研吾 (né en 1954), entre autres. À l’orée du xxie siècle, les architectes japonais actifs à l’étranger deviennent plus nombreux, contribuant notamment à la réussite de la Chine, en plein essor économique, grâce aux Jeux olympiques de Pékin (2008) ou à l’Expo 2010 de Shanghai. Le développement des technolo- gies de l’information et de la communication soutient grandement leurs activités internationales. En effet, l’échange instantané de grands volumes de données, tels que plans et images, facilite à l’extrême la communication entre clients, entrepreneurs, chantiers et bases régionales (succursales).

Les progrès des technologies informatiques, de la CAO (conception assis- tée par ordinateur), la FAO (fabrication assistée par ordinateur), la synthèse d’images tridimensionnelles, à la fabrication numérique, changent radica- lement non seulement la réalisation des plans, dessins et descriptifs, ainsi que les moyens d’expression graphique, mais élargissent considérablement


 

les possibilités des techniques structurelles et d’exécution, c’est-à-dire l’ensemble des techniques de production de l’architecture. De nouvelles méthodes de conception dites algorithmiques émergent également. De plus, est mis en pratique un système de gestion collective, de la conception à la construction, à l’aide d’un logiciel de modélisation 3D appelé BIM (Building Information Modeling).

Zaha Hadid incarne la figure de l’architecte n’ayant cessé de présenter sous forme de réalisations concrètes le développement des technologies informatiques. C’est elle qui a remporté le concours pour la construction du nouveau stade national de Tokyo, principal site des Jeux olympiques de 2020, sans que cela aboutisse37. Sa vision inédite semble avoir grande- ment contribué à sa désignation, mais pour des raisons aussi diverses que le dépassement du budget prévu, l’ambiguïté du programme lui-même, ainsi que le doute concernant l’équipe d’exécution et le processus décisionnel, Zaha Hadid a malheureusement été exclue de la maîtrise d’œuvre. Cette affaire révèle un problème inhérent au monde de l’architecture au Japon. Il se dit que son décès est à l’accumulation de tracas causés par l’agitation entourant le nouveau stade olympique.

Au Japon, on ne réalise guère cette architecture qui semble se jouer des

formes novatrices, comme celle de Zaha Hadid ou de Frank Gehry (né en 1929, architecte du musée Guggenheim de Bilbao en 1997 ; du Walt Disney Concert Hall, Los Angeles, 2003, etc.), à l’exception de la médiathèque de Sendai* (2001, fig. 05), de la bibliothèque Minna no mori de Gifu (Minna no mori Gifu Media Kosumosu みんなの森  ィアコス,

 


37.   Ses débuts restent longtemps sans une seule œuvre construite, car ses audacieux projets ne sont pas réalisés, si bien que Zaha Hadid est surnommée la « Reine du non-construit » (Anbirudo no joō ンビの女王), mais, à partir de l’an 2000, elle achève diverses réalisations architecturales les unes après les autres. En Asie, on peut par exemple citer l’opéra de Canton (2010), rendu possible par l’émergence de nouveaux clients : des entreprises globales demandant un design « novateur », mais surtout par les progrès de l’informatique, passée de la CAO en trois dimensions au BIM ; en d’autres termes, par la mise au point de systèmes qui permettent de fabriquer, d’assembler et de bâtir de manière intégrée, depuis la phase de création de formes variées jusqu’à la production effective de composants et d’éléments constructifs. Son agence, Zaha Hadid Architects, a également été désignée comme le bureau d’architecture et d’ingénierie le plus avancé au monde.


 

2015) ou de l’opéra métropolitain de Taichung (2016), tous conçus par Itō Toyō, à la recherche de structures et formes nouvelles38.

 


Fig. 05

Médiathèque de Sendai, 2001. Conception : Itō Toyō.

Photo : Kataoka Nanako.

 


38.   À la pointe du développement de la technologie numérique en architecture, se trouve Ove Arup and Partners (Arup), bureau de conseil en ingénierie spécialisé dans la construction, fondé en 1946 par Sir Ove Arup (1895-1988), ingénieur anglais. Basée à Londres, avec plus de 14000 employésdont des ingénieurs, des chefs de projet et des consultants –, cette entreprise internationale compte 89 bureaux dans le monde, avec des projets dans plus de 160 pays, dont les États-Unis, l’Australie, ou au Moyen-Orient, en Asie, en Europe et en Afrique. Leur filiale japonaise a été créée à Tokyo en 1989 et est actuellement dirigée par Oguri Arata 小栗新.


 

La médiathèque de Sendai est portée par des structures tubulaires, consti- tuées d’un assemblage de fins poteaux en acier, qui réunissent les systèmes d’approvisionnement (eau, électricité, etc.), ainsi que les gaines des ascen- seurs et des escaliers, et jouent aussi le rôle de puits de lumière et d’aération. De plus, ces structures tubulaires, disposées de façon irrégulière, torses de haut en bas, transpercent le plancher de chaque étage, créant un espace hétérogène. Ce bâtiment est perçu comme une tentative pour surpasser la maison Dom-Ino de Le Corbusier*, construction à ossature rigide plan- chers-poteaux. Quant à l’opéra métropolitain de Taichung, il est l’abou- tissement d’essais pour concevoir des espaces complètement nouveaux, possibles grâce au calcul par ordinateur de structures tridimensionnelles complexes. Sasaki Mutsurō* 佐々木睦郎 (né en 1946) en a été l’ingénieur responsable. Il a travaillé sur la plupart des œuvres d’Itō Toyō, de Sejima Kazuyo de l’agence SANAA39, d’Isozaki Arata40 ou de Hara Hiroshi* 原広司(né en 1936)41.


39.     Par exemple : studios d’art multimédia à Ōgaki*, 1996, prix de l’Institut d’archi- tecture du Japon; maison Umebayashi (Umebayashi no ie 梅林の家), 2003, prix de l’architecture japonaise ; musée d’Art contemporain du xxie siècle de Kanazawa*, 2004, prix de l’Institut d’architecture du Japon [fig. 06]).

40.    Par exemple : Centre de convention des arts de Shizuoka (Shizuoka ken konbenshon ātsu sentā 静岡県コンンションアツセンタ), 1998 ; Centre d’information sur les arts de Yamaguchi (Yamaguchi geijutsu jōhō sentā 山口芸術情報センタ), 2003.

41.     Par exemple : Umeda Sky Building à Osaka, 1993 ; Sapporo Dome, 2001 (fig. 07a et 07b).



Fig. 06

Musée d’Art contemporain du xxie siècle de Kanazawa, 2004. Conception : SANAA.

Photo : Funo Shūji.




Fig. 07a


 

Fig. 07b

Fig. 07a et fig. 07b

Sapporo Dome, 2001.

Conception : Hara Hiroshi, Laboratoire d’architecture Atelier Φ [Atorie Fai kenchiku ken- kyūjo アトリエ・ファイ建築研究所], Atelier Bunk [Atorie Bunku アトリエブンク].

Photos : Funo Shūji.


III. 2. Du scrap and build (démolition-construction) à la réhabilitation

Dans un contexte les géants globalisés tels que les GAFA (Google, Apple, Facebook et Amazon) imposent leur domination, propulsent la mondiali- sation et les réseaux interconnectés, la place de l’économie, de l’industrie et des entreprises japonaises s’est, en comparaison, considérablement dépré- ciée. Le secteur de la construction, fondamentalement régional, a perdu son ancienne vigueur avec le ralentissement de l’économie japonaise. Dans les années 1960 et 1970, il représentait 20 % à 25 % du total des inves- tissements. On considère que le Japon est passé d’une « nation agricole » à une « nation de travaux publics » après la guerre. Les investissements dans la construction, stabilisés à environ 50 000 milliards de yens après la crise pétrolière, ont progressivement diminué après le pic de la bulle éco- nomique, passant de 84 000 milliards de yens en 1992 à 66 000 milliards

en 2000 puis 51 000 milliards en 2005. Ces dernières années, les investis-

sements consacrés à la reconstruction après le séisme de la côte Pacifique du Tōhoku, et aussi à l’aménagement des installations pour les Jeux olym- piques de Tokyo, ont atteint environ 50 000 milliards de yens, mais le nombre d’employés dans le bâtiment, de 6,19 millions en 1992 après un maximum de 6,85 millions en 1997, n’a cessé de diminuer pour passer sous la barre des cinq millions. Quant au nombre d’entreprises de construction agréées, il a culminé à 600 000 en 1999, pour retomber à 470 000 en 2018. Le nombre de techniciens du bâtiment42 est passé de 390 000 en 2000 à 220 000 en 201043. Et surtout, leur vieillissement et les difficultés pour assurer la relève deviennent extrêmement préoccupants.

Les habitations ordinaires montrent clairement un changement dans l’environnement architectural de l’ère Heisei. Le nombre de mises en

 


42.   Les techniciens du bâtiment (kensetsu gijutsusha 建設技術者), selon la terminologie utilisée par le recensement national, sont principalement des ingénieurs exerçant dans la construction, la rénovation et l’entretien de bâtiments tels que les habitations, des ingénieurs en génie civil et des géomètres s’occupant de la construction, de la rénova- tion et de l’entretien des routes, ponts et rivières. Les chiffres cités correspondent à cette dénomination.

43.     Même après une augmentation de la demande due à la reconstruction en 2015 après le séisme de la côte Pacifique du Tōhoku, le nombre d’ingénieurs reste stable à environ 240 000.


 

chantier (flux) de logements neufs s’était rétabli à 1,67 million par an pen- dant la bulle (1989, 1990), mais il a chuté fortement à 1,34 million après son éclatement (1991) ; après le rebond au séisme de Hanshin-Awaji et à la ruée avant la hausse de la taxe à la consommation (1,63 million en 1996), il est retombé à 1,18 million en 1997. Estimé par la suite entre 1,1 et 1,3 million, il a de nouveau chuté, d’abord à 1,04 million (2008) à cause du scandale des données parasismiques falsifiées (Taishin gisō jiken 耐震偽装事件) et de la révision de la loi sur les normes de construction (kenchiku kijun 建築基準法), puis à 780 000 après la faillite de la banque Lehman Brothers (2009). S’il était remonté en 2003 à 990 000 avant une nouvelle hausse de la taxe à la consommation, entraînant un brusque afflux de la demande, il n’a plus jamais dépassé le million. Il devrait progressivement diminuer et atteindre environ 550 000 d’ici 2030 (fig. 08).





Fig. 08

Tendances et prévisions du nombre de constructions de logements.

« Statistiques de mises en chantier », ministère du Territoire, des Infrastructures, des Transports et du Tourisme.

Source : Nomura Research Institute (Nomura sōgō kenkyūjo 野村総合研究所).

Traduction : Amira Zegrour.

 

La fin de l’ère de la construction se manifeste nettement par les évolutions du nombre de logements (stocks) et de celui des ménages. Comme dit plus haut, si la pénurie de logements était très importante dans l’immé- diat après-guerre, le nombre de logements a dépassé celui des ménages en



 

1968 (25,59 millions de logements pour 25,32 millions de ménages, avec un taux d’inoccupation de 4 %). Ensuite, le nombre de logements vacants a continué d’augmenter, passant de 2,68 millions (7,6 %) en 1978 à 8,2 mil- lions (13,5 %) en 2013, puis à 10,83 millions (17 %) en 2018, et il ne cesse de s’accroître avec la rapide diminution du nombre de ménages : on prévoit 21,66 millions de logements vacants en 2033.

Le passage de l’ère du scrap and build à l’ère de la réhabilitation est donc inévitable. Un premier exemple au Japon est Kurashiki Ivy Square (Kurashiki aibī sukuea 倉敷アイビースクエア), ancienne usine de la filature de Kurashiki (1889) reconvertie en installation touristique par Urabe Shizutarō 浦辺鎮太郎 (1909-1991) en 1973. Il s’agit d’une tentative, pendant la période de glorification de l’« architecture postmoderne », de restaurer et préser- ver une construction d’avant-guerre. De même, à Ochanomizu Square (Ochanomizu Sukuea お茶の水スクエア, 1987), Isozaki Arata a réhabilité les bâtiments de la maison d’édition Shufu no tomo 主婦の友 de William Merrell Vories (1880-1964). Toutefois, en pleine bulle économique, démo- lir l’ancien pour construire du neuf (scrap and build) devient la tendance générale, et ce même si on prétend préserver les bâtiments historiques. Parce que la préservation coûte du temps, des efforts, donc de l’argent. L’opération remarquée qui nous amène au courant actuel de réhabilitation architecturale a été conduite, à la fin du xxe siècle, par Aoki Shigeru 青木茂(né en 1948) sur le bâtiment de l’hôtel de ville d’Umechō, département d’Ōita (1999)44. La rénovation de la gare de Tokyo où, à de nombreuses reprises, des projets de tours furent envisagés, a été achevée en 2015. Désormais, la réhabilitation a pris de l’importance et constitue une grande partie du travail des jeunes architectes, qui débutent en règle générale avec ce type de travail.

 


44.    D’autres exemples du même architecte : réhabilitation de la Place pour toutes les gé- nérations, à Nozuhara (Nozuhara-chō tasedai kōryū puraza 野津原町多世代交流プラザ), département d’Ōita ; du Centre pour toutes les générations à Yame (Yame ta sedai kōryūkan 八女多世代交流館), département de Fukuoka ; de la salle de sport du collège municipal Fukushima à Yame (Yame shiritsu Fukushima chūgakkō okunai undōjō 八女市立福島中学校屋内運動場), département de Fukuoka ; du siège de la coopérative agri- cole de la ville de Fukuoka (Fukuoka-shi nōgyō kyōdō kumiai honten biru 福岡市農業協同組合本店) ; de l’immeuble Libera Hōshō (Ribera Hōshō うしょう) à Chita- gun, Taketoyo-chō, département d’Aichi.


 

Cette nette évolution ne signifie pas que la ligne politique du dévelop- pement change, comme le prouve l’accueil des Jeux olympiques de Tokyo 2020 et de l’Exposition universelle à Osaka en 2025. Il convient de souli- gner que la situation au Japon n’est pas, dans son ensemble, uniformément dégradée, mais que les disparités entre régions se sont accrues. Même après l’éclatement de la bulle économique, la tendance à la surconcentration à Tokyo ne s’est pas atténuée et le déclin régional est devenu de plus en plus apparent. En outre, l’augmentation des emplois précaires a accentué la disparité des revenus. Durant l’ère Heisei, les architectes ont déployé mondialement leur activité dans les régions la richesse s’est concentrée (Moyen-Orient, Chine, etc.), alors qu’au Japon, lieux et opportunités se raréfiaient.

Les voies que peuvent prendre les jeunes architectes au Japon sont :

1) rechercher des opportunités de travail dans les régions il y a une demande de construction ; 2) se concentrer sur des travaux d’entretien, de restauration et de réhabilitation de bâtiments existants ; 3) ouvrir une troisième voie. Le cœur de cette troisième voie, c’est l’engagement dans l’urbanisme participatif (machizukuri* まちくり) en tant que community architects dans les régions.

 

III. 3. De Hiroshima à Fukushima : un second après-guerre

Après l’éclatement de la bulle, aucun projet de développement urbain d’en- vergure n’a été lancé, exceptés ceux élaborés auparavant. Rétrospectivement, il était inévitable que les questions de renaissance urbaine et de revitalisa- tion régionale ne deviennent les thèmes les plus courants. Cependant, afin de promouvoir de manière coordonnée et forte des projets modèles et une politique d’utilisation efficace des terrains, tant du point de vue de l’envi- ronnement, de la prévention des catastrophes, que de l’internationalisation, un bureau de la revitalisation urbaine est institué par le Cabinet du Premier ministre Koizumi 小泉 en 2001, après « un vide de dix ans » ; puis, en 2014 le deuxième gouvernement Abe 安倍, bien trop tardivement après le séisme de la côte Pacifique du Tōhoku, met en place une politique de revitalisation régionale visant à corriger la surconcentration à Tokyo, à freiner le déclin démographique en province, ainsi qu’à accroître la vitalité du Japon dans son ensemble.


 

À la stagnation économique s’ajoutent les catastrophes naturelles de grande ampleur qui ont frappé l’archipel les unes après les autres. Durant les années 1970 et 1980, la plus importante concerne des pluies torren- tielles sur Nagasaki (1978), qui font 345 morts et disparus. Le séisme de Hanshin-Awaji à Kobe (1995) fait 6 433 victimes, bilan qui dépasse celui du typhon de la baie d’Ise 伊勢 (plus de 4 697 morts en 1959). De sur- croît, ce séisme ayant frappé en pleine zone urbaine, des autoroutes se sont renversées et nombre de bâtiments se sont effondrés, ce qui a provoqué un grand choc dans la société japonaise comme dans le monde du bâtiment.

L’année 1995 est, avec la défaite de 1945 dont elle marque le 50e anni- versaire, une année particulièrement mémorable de l’après-guerre. En plus du séisme de Hanshin-Awaji, une secte religieuse du nom d’Aum (Oumu shinrikyō オウム真理教) a perpétré un attentat au gaz sarin dans le métro de Tokyo. Ces deux événements majeurs remettent fondamentalement en question les cinquante années d’après-guerre du Japon. Ils mettent à nu les périls de la reconstruction physique et morale du pays. De plus, à la fin de cette même année est mis au jour le scandale des créances douteuses (jūsen mondai 住専問題), dont on peut dire qu’elles sont la note à payer de la bulle économique. C’est donc en 1995 que les fondements de notre quoti- dien sont questionnés et les assises de la société japonaise de l’après-guerre fortement ébranlées. Le séisme de Hanshin-Awaji en particulier a révélé l’impuissance des « architectes » dans la construction des villes (fig. 09).

Des décombres d’habitations méconnaissables. Des ruines calcinées à perte de vue. Une autoroute renversée sur un kilomètre. Ou les piliers écroulés d’un pont. Une gare écrasée et des rails tordus comme de la guimauve. Des bâtiments penchés, vril- lés, effondrés, jetés à terre. C’est une vision incroyable. Est-il seulement permis que les poutres soutenant le pont du shinkansen s’effondrent ? Ne dirait-on pas les ruines de l’immédiat après-guerre ? Nous sommes partis des ruines pour, cinquante ans plus tard, nous retrouver à nouveau face à ces mêmes ruines. (Funo 2000)


 


Fig. 09

Immédiatement après le séisme de Hanshin-Awaji, Nagata-ku, Kobe, 1995.

Photo : Funo Shūji.

 

 

À la suite de précédentes recherches, nous avons tiré sept leçons du séisme de Hanshin-Awaji, en soulignant l’importance du bénévolat et de l’autonomie territoriale : 1) la force de la nature… l’importance de l’équi- libre écologique des territoires ; 2) l’échec de la logique du dépassement des limites (technologiques, territoriales, etc.) ; 3) la nécessité de structures décentralisées et multipolaires ; 4) la pauvreté (et l’importance) des espaces publics ; 5) l’autonomie des quartiers… le rôle du volontariat ; 6) l’accumu- lation des techniques de renouvellement des stocks ; 7) la continuité de la mémoire urbaine (Funo 2000).

L’impuissance face à une maison qui brûle sous nos yeux est étrange. Quel système est utile en cas d’incendies multiples et simultanés ? Les quar- tiers les secours ou la protection contre les incendies ont bien fonctionné sont ceux dont les communautés étaient les plus solides. l’on atten- dait simplement l’arrivée des ambulances ou des pompiers, les dégâts se sont amplifiés. Il semble ironique que la principale leçon à tirer du séisme de Hanshin-Awaji soit l’évidente inutilité de l’administration, mais les


 

fonctionnaires locaux en sont également les victimes. Il est alors évident que dépendre uniquement de l’administration ne peut fonctionner effica- cement. Les problèmes résident dans les mécanismes de la gestion locale et sont d’autant plus grands que le degré de dépendance, que ce soit à un système administratif ou industriel, est élevé.

Le besoin d’autonomie locale est manifeste. Et le soutien des bénévoles indispensable. Après ce séisme, la loi sur les organisations à but non lucratif (tokutei hieiri katsudō sokushin 特定非営利活動促進法, 1998), qui permet leur reconnaissance institutionnelle au Japon, était une nécessité. Les cir- constances de ce séisme ont fait émerger peu à peu la figure de l’architecte tel qu’il devrait être, appelé community architect, dont le territoire local est la base de l’activité. Aussi peut-on considérer ce séisme comme le point de départ de l’architecture de l’ère Heisei.

Depuis, l’archipel est frappé chaque année ou presque par de nouvelles catastrophes, subissant ainsi en 2004 un typhon et un tremblement de terre à Niigata. Avant que ne se produise le plus gigantesque séisme du Japon : celui de la côte Pacifique du Tōhoku le 11 mars 2011 (fig. 10), de magni- tude 9, provoquant un énorme tsunami qui entraîne la fusion des cœurs des réacteurs 1, 2 et 3 de la centrale nucléaire de Fukushima Daiichi. Le nombre de morts et disparus s’élève à 18 429, et 404 890 bâtiments sont reconnus comme complètement ou partiellement détruits. Immédiatement après le tremblement de terre, plus de 8 millions de foyers sont privés d’électricité, plus de 1,8 million d’eau courante, et plus de 400 000 per- sonnes évacuées. Les conséquences de l’accident nucléaire sont toujours en cours de traitement, la contamination de l’eau, le niveau de pollution et l’évacuation des combustibles usagés exigeant un temps inimaginable. À la fin de l’ère Heisei (30 avril 2019), le nombre de personnes déplacées dépas- sait toujours les 50 000.


 

Fig. 10

Immédiatement après le séisme de la côte Pacifique du Tōhoku le 11 mars 2011, Ishinomaki, 2011.

Photo : Funo Shūji.

 

De Hiroshima le 6 août 1945 à Fukushima le 11 mars 2011, le Japon, puis le monde, ont à nouveau pris conscience du danger d’un système qui place en ses fondements l’énergie nucléaire. Comparée à une plaine détruite par le feu d’une bombe atomique, une plaine désertée après un accident nucléaire n’a clairement plus aucune perspective. Les dégâts de cet accident qui a ébranlé les fondations mêmes du Japon, sont incommensurables.

Concernant l’avenir des architectes, le prompt soutien apporté par les plus jeunes d’entre eux offre une lueur d’espoir. Immédiatement après le 11 mars, nombreux sont ceux qui se sont déplacés. Si les activités des archi- tectes du groupe ArchiAid* (Ākieido アーキエイド) et le projet « Maison pour tous » (Minna no ie みんなの家) mené par Itō Toyō, en sont les plus symboliques, de nombreuses équipes ont porté assistance aux zones sinis- trées, avec la construction d’urgence de logements temporaires, jusqu’à des projets de reconstruction de villes. Leurs actions ne sont pas sans rappeler celles des architectes qui ont conçu le logement minimum peu après la


 

guerre : partition des lieux de refuge (souvent des gymnases), construc- tion de bains publics temporaires, par l’équipe de Takeuchi Yasushi 竹内泰(architecte, professeur à l’université de technologie du Tōhoku) ; construc- tions d’abris pour les pêcheurs (ban.ya 番屋) par le groupe de charpenterie de l’université départementale de Shiga (fig. 11) ; « Lieu de rencontre aux bambous » (Take no kaisho 竹の会所) et « Lieu de rencontre de la plage » (Hama no kaisho 浜の会所) par l’équipe de Tōki Hirokazu 陶器浩一 (né en 1962, architecte spécialiste de structures, professeur à l’université de Shiga) (fig. 12), etc.

 


Fig. 11

Construction d’un abri utilisé par les pêcheurs pour se reposer, se rencontrer,

déposer des affaires, nécessaire à la reprise de leur activité économique, par le groupe de Takeuchi Yasushi et l’atelier de charpenterie de l’université départementale de Shiga, Minamisanriku-chō, 2011.

Photo : Takeuchi Yasushi.



Fig. 12

« Lieu de rencontre aux bambous » par l’équipe de Tōki Hirokazu, Minamisanriku, 2011.

Photo : Tōki Hirokazu.

III. 4. L’émergence des community architects

L’un des problèmes posés immédiatement après le séisme de Hanshin- Awaji concerne la loi sur les normes de construction qui règlemente la sécurité des bâtiments. Celles-ci étant remises en question à chaque séisme et catastrophe majeure, les révisions s’ajoutent les unes aux autres. À la suite du séisme de 1978 à Miyagi, qui a complètement détruit 4 385 bâtiments et partiellement 80 000, la loi est considérablement révisée en 1981, impo- sant de nouvelles normes antisismiques, toujours en vigueur aujourd’hui.

On a prétendu, après le séisme de Hanshin-Awaji, que les bâtiments observant ces nouvelles normes avaient été moins endommagés que ceux qui suivaient les règles anciennes et présentaient un ratio de dégâts élevé, mais les dommages étant de nature variée, on ne peut parler pour ces normes de sécurité absolue. Notamment, des autoroutes et des viaducs se sont effon- drés. En 2000, la loi sur les normes de construction est révisée afin de rendre obligatoire pour les habitations en bois très endommagées une étude de sol et l’adjonction d’un système porteur métallique. Cependant, respecter la loi et les normes ne suffit pas : certains bâtiments conformes subissent des dégâts. En fait, de nombreuses maisons en bois gravement endommagées étaient vétustes. À cause des termites, de la condensation ou d’infiltrations d’eau, des pièces structurelles étaient pourries. Cela ne se limite pas aux


 

maisons en bois. Il est normal que tout bâtiment, même s’il répond aux normes au moment de sa construction, se dégrade progressivement. En résumé, la sécurité n’est pas absolument garantie par la loi.

Ensuite, une bizarrerie persiste avec le bâti « existant mais non conforme » (kison futekikaku 既存不適格), construit selon les anciennes normes sis- miques, c’est-à-dire qui ne pourrait pas être construit aujourd’hui car non conforme à la loi actuellement en vigueur. À qui donc revient la responsa- bilité de dénoncer son irrégularité ? De plus, même si un projet (d’après les documents) respecte la loi et les normes, cela n’est pas synonyme de travaux bien faits. Qui pour les contrôler ? Naturellement, la nécessité d’organismes d’inspection est devenue criante après le séisme.

On connaît la déclaration fameuse du maire de la ville de Tangshan en Chine, victime d’un séisme d’une intensité identique à celui de Hanshin- Awaji, disant que les terrains vagues résistent à une secousse sismique de degré 7 ou 8 (sur l’échelle dite shindo 震度 utilisée au Japon). Dans le cas où un bâtiment s’effondre, certains peuvent sauver leur vie s’ils parviennent à gagner un terrain inoccupé à proximité. C’est donc la concentration du bâti dans un quartier ou une ville qui constitue un problème. Même lorsqu’on ne conçoit qu’un seul bâtiment, il faut le considérer en relation avec ses alentours. En d’autres termes, à travers la conception d’un seul bâtiment, l’« architecte » est inévitablement lié à l’ensemble de la ville son urbanisme). À la suite du séisme de Hanshin-Awaji, surtout après la promulgation de la loi sur les organisations à but non lucratif de 1998, les activités d’aménagement urbain participatif, ancrées localement, se déve- loppent sensiblement. 1995 est ainsi appelée « première année du volonta- riat », mais aussi du community planning (komyuniti puranningu コミュニティ・プランニング).

L’ouvrage Community Architecture de Nick Wates et Charles Knevitt, qui

présente le mouvement du même nom mené par l’anglais Ralph Erskine (1914-2005), a été traduit en japonais en 199245. Mais même au Japon, avant le séisme de Hanshin-Awaji, se formait déjà un mouvement en faveur d’un système de master architect (masutā ākitekuto マスターアーキテクト) ou de town architect (taun ākitekuto タウンアーキテク). Le « Groupe d’étude sur la culture architecturale et la question du paysage » (Kenchiku bunka


45.   Voir Knevitt & Wates (1987).


 

keikanmondai kenkyūkai 建築文化・景観問題研究会, 1992-1995), composé d’architectes46 et de membres du ministère de la Construction (Kensetsushō 建設省), responsables du logement auprès de départements et de villes dési- gnées, a été créé en 1992 par le Centre de promotion des savoirs techniques du bâtiment (Kenchiku gijutsu kyōiku fukyū sentā 建築技術教育普及センター, 1982). En effet, le ministère de la Construction (devenu ministère du Territoire, des Infrastructures, des Transports et du Tourisme en 2001) est bien conscient qu’une administration dont la seule fin serait d’empêcher les « violations des règles de construction47 » (ihan kenchiku 違反建築) ne permet pas d’embellir le paysage urbain japonais. Est donc élaboré le sys- tème des « urban architects », selon lequel « la participation continue d’un “architecteest nécessaire à la formation d’un riche paysage urbain ». Le principe consiste à intégrer au sein de l’administration la participation des architectes pour conduire une meilleure conception du paysage48.


46.   Parmi lesquels Motokura Makoto 元倉真琴 (1946-2017), Yamamoto Riken, Ashihara Tarō 芦原太郎 (né en 1950), Hirakura Naoko 平倉直子 (née en 1950), Dan Norihiko 團紀彦 (né en 1956), Kuma Kengo, Kojima Kazuhiro 小嶋一浩 (1958-2016), Takahashi Akiko, Suzuki Edward [Edowādo] 鈴木エドワード (1947-2019), Hara Hisashi 原尚 (né en 1949), etc.

47.   L’affaire de la « violation des règles de construction » révèle une certaine attitude vis-à-vis de l’architecture et des règles de construction, non seulement de la part des

« architectes », mais aussi du grand public. Par exemple, les dépassements des coeffi- cients d’emprise au sol (kenpeiritsu 建蔽率) et de surfaces hors œuvre brutes (yōsekiritsu 容積率) sont courants, afin d’obtenir autant d’espace (constructible) que possible sur un terrain limité. En revanche, on ne peut pas dire que la loi ne pose pas de problème : la réglementation uniforme dans tout le pays ne tient pas compte des conditions locales. Ainsi, dans une zone de maisons traditionnellement construites en bois, pour des rai- sons de protection contre les incendies, on ne peut plus utiliser ce matériau. De facto, il existe donc des situations la loi ne peut être respectée, et c’est pour cette raison qu’elle est qualifiée de loi passoire (zaru hō ザル法).

48.   Le système d’« urban architect » du Centre de promotion des savoirs techniques du bâtiment est le suivant : 1) l’urban architect enregistre les informations nécessaires, y compris ses propres activités, auprès du centre, qui construit une base de données des urban architects (financée par le Centre) ; 2) lorsqu’un organisme public local, ou autre, recherche un expert en architecture pour contribuer à un projet de paysage ou d’amé- nagement urbain, le Centre fournit des renseignements à partir de sa base de données (rémunération du Centre) ; 3) les projets d’aménagement urbain machizukuri auxquels participent des urban architects sont définis avec le soutien et la collaboration des ser- vices de la construction (des administrations locales).


 

Cependant, le séisme de Hanshin-Awaji a lieu juste au moment de la mise en place de ce système d’« urban architects », et la priorité est donnée à une stricte observation de la loi sur les normes de construction49. En 1998, celle-ci est partiellement révisée pour permettre « l’ouverture au sec- teur privé du contrôle et de l’inspection des bâtiments ». Jusque-là, seuls les responsables des organismes publics locaux étaient chargés de ces tâches, mais leur nombre devenant insuffisant par rapport au nombre de mises en chantier, les inspections pouvaient être bâclées, voire omises, et de nom- breux logements construits étaient défectueux.

L’introduction de ce système d’inspection par des tiers a conduit au scandale des « documents falsifiés de calcul des structures, 2005-2009 » (kōzō keisansho gizō 構造計算書偽造)50. Dans son ouvrage L’ère Heisei (2019), Yoshimi Shun.ya montre, à travers notamment la faillite délibérée de la société d’investissement Yamaichi Securities en 1997, les échecs des banques, des sociétés de courtage et des fabricants d’appareils électroména- gers, mais il fait remarquer que l’industrie du bâtiment a aussi connu en ses fondements des déchirures et des effondrements51.

 


49.   Il existait beaucoup d’autres problèmes en matière d’institutionnalisation. Les prin- cipaux étaient le système de qualification prévu par la loi sur les architectes, le système de validation des projets de construction défini par la loi sur les normes de construction, et les relations avec les dispositifs existants tels que la loi sur l’autonomie locale. En outre, les intérêts des organismes concernés étaient intriqués. La mise en place de nou- veaux dispositifs crée souvent de nombreux conflits car elle implique la réorganisation des systèmes existants.

50.   En 2005, à la suite de publications par des blogueurs, le ministère de la Construction a annoncé qu’Aneha Architectural Design Office, l’agence dirigée par Aneha Hidetsugu 姉歯秀次 (né en 1957) à Chiba, avait falsifié des documents de calculs parasismiques de nombreux grands bâtiments (résidences de logements collectifs, hôtels) afin de faire valider par les autorités les plans d’exécution. En réalité, sur le chantier, les structures étaient sous-dimensionnées pour réaliser des économies, par rapport aux documents enregistrés officiellement. Plusieurs entreprises de construction ont fait faillite après la découverte de cette escroquerie et une dizaine de personnes ont été arrêtées. (N.D.L.R.)

51.   En outre, un grand nombre de pots-de-vin ont été versés par des zenekon à des membres du milieu politique central et local : lors de l’affaire de « corruption des zene- kon » (zenekon oshoku ゼネコン汚職, 1993-1994), le ministre de la Construction, les gou- verneurs des départements de Miyagi et d’Ibaraki, ainsi que le maire de Sendai ont été arrêtés, tandis que le président et le directeur adjoint de Shimizu kensetsu, le directeur adjoint, le directeur gérant et le directeur d’une filiale de Kashima kensetsu 鹿島建設, le


 

Même après le système mort-né des « urban architects », divers mou- vements de machizukuri se sont développés dans tout le pays. Je me suis moi-même directement impliqué en tant que community architect dans les activités de la Kyoto Community Design League52 (2000-2006), avec la création d’un « cours sur la revitalisation régionale à Ōmi Kanjin 近江環人 » (un programme de formation continue) à l’université départementale de Shiga, quand d’autres architectes urbanistes, comme Hayashi Yasuyoshi 林泰義 (né en 1937) ou Endō Yasuhiro 延藤安弘 (1940-2018), ont soutenu des initiatives à l’échelle nationale.

Puis, en 2004, la loi sur le paysage (keikan 景観法) fixe un mode de production du paysage selon certaines lignes directrices. Cette loi, juridi- quement contraignante, s’ajoute aux arrêtés de chaque collectivité locale. Elle définit plusieurs structures paysagères remarquables. En sa qualité d’organe administratif, le gouvernement local (les municipalités) décide d’une zone de projet paysager53, lui donne une orientation visant à former

 


directeur adjoint d’Ōbayashigumi 大林組, le président, le directeur et le directeur d’une filiale de Hazama ハザマ, le directeur adjoint de Nishimatsu kensetsu 西松建設, le direc- teur adjoint de Mitsui kensetsu 三井建設, et le président honoraire de Tobishima kensetsu 飛島建設 ont tous été condamnés pour corruption. Depuis lors, on pensait que cha- cune de ces entreprises encourageait la réforme de conformité aux procédures, mais en 2017, un cas de collusion avant adjudication des travaux impliquant un zenekon majeur dans la construction de la ligne de shinkansen Chūō (Rinia Chūō shinkansen リニア中央新幹線, [ligne de train à sustentation magnétique qui doit relier Tokyo et Nagoya en 40 minutes]) a été découvert. Alors que cette affaire n’est toujours pas réglée, le monde de la construction peine à maîtriser sa nature corrompue.

52.   La Kyōto komyuniti dezain rīgu 京都ニティ・デザ・リ(CDL) monte des groupes d’architectes qui observent au quotidien l’environnement local, en prennent soin et proposent des projets : c’est une tentative à proprement parler de mise en place des town architects ou bien des community architects. Les activités de cet organisme sont consignées dans la revue Kyōto genomu 京都げのむ (nos 1 à 6).

53.   Dans la loi sur le paysage, elles sont définies comme suit : 1) zones il est reconnu nécessaire de conserver le paysage de qualité existant ; 2) zones il est reconnu nécessaire de former un paysage de qualité approprié aux caractéristiques nature, his- toire, culture, etc. de la région ; 3) zones servant de bases d’échanges entre régions, où l’on reconnaît la nécessité de former un paysage de qualité qui contribue à la promotion de ces échanges ; 4) zones des opérations de développement résidentiel ou d’autres constructions, des aménagements, sont en cours de réalisation ou ont été réalisés, et il est reconnu nécessaire de créer un nouveau paysage de qualité ; 5) zones il est


 

un paysage de qualité et propose un projet, mais il peut également mettre en place une structure dédiée au soin du paysage (organisation à but non lucratif ) et instituer un Conseil du paysage. En d’autres termes, le système de l’urban architect, un individu ou un collectif défini peut prendre en charge le projet paysager d’une ville (ou d’un quartier) après clarification des compétences, des rémunérations et des durées de mission, a été rendu possible grâce à l’institution de ces deux structures54.

En 2007-2008, une Commission d’évaluation des « Directives en matière de projets de paysage architectural et urbain » est créée au ministère de la Construction (président Yamamoto Riken) pour veiller à l’application de cette loi. L’objectif est de mettre en place une version japonaise du CABE (Committee of Architecture and Built Environment) britannique, tout en héritant du « Groupe d’étude sur la culture architecturale et la question du paysage » actif de 1992 à 1995 (cf. supra). Un système est mis en place pour subventionner tous les ans plusieurs dizaines d’équipes établissant ces directives : il fonctionne de 2009 à 2010, mais doit être suspendu en raison du séisme de 2011 de la côte Pacifique du Tōhoku.

 

III.  5. Conception-construction et super zenekon : diversification des systèmes de commande

Le Kasumigaseki Building (Kasumigaseki biru 霞が関ビル, 156 mètres de haut, 36 étages, maître d’ouvrage : Mitsui fudōsan, architecte : Yamashita Toshirō 山下寿郎 [1888-1983]) inaugure en 1968 l’ère des gratte-ciels au Japon55. Ces immeubles reflètent l’orientation de l’économie japonaise au


reconnu qu’un paysage de médiocre qualité peut se former compte tenu des tendances existant dans l’utilisation des terrains de ce secteur.

54.   Pour plus de précisions, voir Funo (2015).

55.   Après lui, les plus fièrement érigés furent : le World Trade Center (Sekai bōeki sentā biru 世界貿易センタービル, 163 mètres, 40 étages, 1970, Nikken sekkei, Institut de méca- nique des structures dirigé par Mutō Kiyoshi [Mutō kōzō rikigaku kenkyūjo 武藤構造力学研究所]) ; le Keiō Plaza Building (Keiō Puraza biru 京王プラザビル, 179 mètres, 47 étages, 1971, Nihon sekkei) ; le Shinjuku Sumitomo Building (Shinjuku Sumitomo biru 新宿住友ビル, 210 mètres, 52 étages, 1974, Nikken sekkei) ; le Shinjuku Mitsui Building (Shinjuku Mitsui biru 新宿三井ビル, 225 mètres, 55 étages, 1974, Mitsui fudōsan, Nihon sekkei) ; le Sunshine 60 (Sanshain 60 ンシャイン60, 240 mètres, 60 étages, 1978, Mitsubishi jisho sekkei 三菱地所設計, bureau d’étude de Mitsubishi) ;


 

cours de cette période. Sur quarante tours de plus de 200 mètres de haut, six ont été construites dans les années 1970 contre zéro dans les années 1980. On en compte treize dans les années 1990, dont huit avant 1995, puis douze dans les années 2000 et dix dans les années 2010. Bien que Tokyo ne soit pas aussi densément peuplée que New York, Chicago, Shanghai ou Hong Kong, les tours de bureaux ou résidentielles y sont devenues plus nombreuses d’année en année, de même que dans les grandes villes telles qu’Osaka, Yokohama, Nagoya, Fukuoka, et même certaines métropoles régionales.

Avec la tour, le dôme est un autre symbole de la ville en tant qu’environ- nement toujours plus artificiel. Achevé en 1988, le Tokyo Dome (Tōkyō dōmu 京ドーム, Takenaka kōmuten, Nikken sekkei) est un stade de base- ball climatisé qui permet de jouer en toutes circonstances, quelle que soit la saison ou la météo. D’autres constructions de ce type ont vu le jour par la suite dans les plus grandes villes du Japon56.


le bâtiment no 1 de l’hôtel de ville de Tokyo (Tōkyō tochō daiichi honchōsha 東京都庁第一本庁舎, 243 mètres, 48 étages, 1991, bureau d’étude en architecture et urbanisme de Tange Kenzō [Tange Kenzō toshi kenchiku sekkei kenkyūjo 丹下健三都市建築設計研究所)) ; la Yokohama Landmark Tower (Yokohama randomāku tawā 横浜ランドマークタワー, 296 mètres, 70 étages, 1993, Mitsubishi jisho sekkei, The Stubbins Associates) ; Abeno Harukas (300 mètres, 60 étages, 2014, Takenaka kōmuten, Pelli Clarke Pelli Architects).

56.       Le Fukuoka Dome (Fukuoka dōmu 岡ド, Takenaka kōmuten, Maeda kensetsu kōgyō 前田建設工業, 1993) ; le Nagoya Dome (Nagoya dōmu ナゴヤド, Mitsubishi jisho sekkei, Takenaka kōmuten, 1997) ; l’Osaka Dome (Ōsaka dōmu 阪ドーム, Niken sekkei, avec Takenaka kōmuten, Ōbayashigumi, Dentsū 電通, 1997) ; le Seibu Dome (Seibu dōmu 西武ドーム, projet : Laboratoire Ikehara de l’université Waseda [Waseda daigaku Ikehara kenkyūshitsu 早稲田大学池原研究室], conseiller en conception : Ishiyama Ken.ichi 石山健一, construction du dôme : Kashima kensetsu, 1999) ; le Sapporo Dome (Sapporo dōmu 札幌ドーム, Atelier Φ de Hara Hiroshi, Atelier Bunk, 2001). Le Seibu Dome est un stade de baseball unique en son genre, constitué seulement d’un toit, sans murs (non clos sur l’extérieur). Le Sapporo Dome, grâce à un dispositif de changement de terrain, sert à la fois de stade de baseball et de foot- ball. Tous ces dômes peuvent bien sûr avoir divers usages. Outre ces stades, nous pou- vons encore citer : l’Ōdate Jukai Dome [à Akita] (Ōdate Jukai dōmu 大館樹海ドーム, Takenaka kōmuten, Toyo Ito & Associates, Architects 1997); le Shellcom Sendai (Sendai-shi okunai guraundo 仙台市屋内グラウンド, Satō sōgō keikaku 佐藤総合計画, 2000) ; l’Izumo Dome (Izumo dōmu 出雲ドーム, Kashima Design, 1992). Hormis les dômes, d’autres bâtiments couverts de grande envergure sont construits dans l’Archipel,


 

Le développement des techniques structurelles ne concerne bien sûr pas seulement les constructions de grande envergure. À l’instar de Zaha Hadid Architects et de son système BIM de pointe, le développement des CAO, FAO et BIM57 représente une arme puissante, même pour une petite agence58. Cependant, il va sans dire qu’une logistique importante est nécessaire pour la conception et l’exécution de très hautes tours et de vastes dômes.

Dans les années 1960, le débat sur la « dissociation ou l’association de la conception et de l’exécution » a évolué en une « controverse sur les constructions géantes », discutant leur bien-fondé après les chocs pétro- liers des années 197059 ; toutefois, la vraie question qu’elle posait était : un

 


comme l’Ariake Coliseum (Ariake koroshiamu 有明コロシアム) et son toit coulissant ou le Toyota Stadium (Toyota sutajiamu 豊田スタジアム), capables d’accueillir de nombreux sports de ballon.

57.   Voir à propos des CAO, FAO et BIM, l’article de Yamanashi Tomohiko, « Thème : technologies de l’information. Architecture et technologies de l’information : les ten- dances au cours des trente années de l’ère Heisei », dans la traduction du dossier Kuwahara Yūki (dir.), « L’ère Heisei et l’architecture », p. 83-146, de ce numéro. (N.D.L.R.)

58.   Saitō Masao 斎藤公男 (né en 1938, ingénieur en structure, professeur et directeur de Nihon kenchiku bunka hozon kyōkai 日本建築文化保存協会, ARCHI-DEPOT Corporation, institution fondée en 2015 à Tokyo, qui conserve et présente un riche fond de maquettes d’architecture, et organise diverses activités culturelles autour de l’architecture) résume en 2018 les différentes possibilités des techniques structurelles de

« Heisei ». L’évolution des bâtiments de très grande hauteur du point de vue des struc- tures antisismiques peut se diviser en cinq périodes : « Tayōna kakō keikaku to seinō shikō-gata e no tenkan » 多様な架構計画性能志向型への転換 (Divers plans de struc- tures et transition vers des modèles orientés sur la performance), 1990-1999 ; « Shiyō kitei-gata no sekkei kara seinō sekkei e » 仕様規定型の設計から性能設計へ (De la concep- tion de modèles de normes spécifiques vers une conception performante), 2000-2004 ;

« Tayōka suru menshin/seishin shisutemu » 多様化する免震・制震システム (Diversification des systèmes d’amortissement des vibrations sismiques), 2005-2009 ; « Takasa 300m o koeru sūpātōru jidai no makuake » 高さ300えるスーール時代幕開(Prélude à l’ère des tours de très grande hauteur supérieures à 300 mètres), 2010-2014 ;

« Chōshūki jishindō to kizon chō kōsō no seishin kaishū » 長周期地震動と既存超高層の制震改修 (Séisme de longue durée et réhabilitation parasismique d’immeubles de grande hauteur existant), depuis 2014.

59.   Kōjiro Yūichirō écrit « Kyodai kenchiku ni kōgi suru » 巨大建築に抗議する(Contester l’architecture géante) dans le numéro de septembre 1974 de Shinkenchiku, auquel ré- pondent Ikeda Takekuni 池田武邦 (né en 1924), architecte et dirigeant de Nihon sekkei,


 

« architecte », est-ce une structure ou un individu ? La distinction entre

« bureau d’étude au sein d’une structure » et « architecte indépendant » (atelier) devient plus claire. Il est inévitable que les bureaux des grandes structures s’occupent des « constructions géantes ». Et on ne compte plus les cas d’agences, de petite dimension à leurs débuts, qui sont devenues d’importants bureaux d’étude.

Cependant, si l’on regarde qui a conçu les bâtiments de grande enver- gure tels que tours ou dômes depuis les années 1990, plutôt que des anta- gonismes entre services de conception des zenekon, bureaux d’étude, et architectes indépendants, on constate la création de nouvelles organisations de conception issues de combinaisons diverses (sociétés à vocation spéci- fique, entreprises en partenariat, supervision/coopération/conseil, etc.). Avec la mondialisation, la société japonaise s’internationalise, la nature de la commande architecturale change considérablement et le monde de l’ar- chitecture éprouve également le besoin de structures adaptées.

Ce qui a occasionné un changement dans le mode de commande des bâtiments publics a été l’introduction de la loi PFI (Private Finance Initiative60), mettant à profit les fonds, les capacités de gestion et les compé- tences techniques du secteur privé non seulement dans la conception et la construction, mais aussi dans la gestion et la maintenance des bâtiments. La loi de promotion pour l’utilisation de fonds privés dans l’entretien des équi- pements publics (minkan shikin nado no katsuyō ni yoru kōkyō shisetsu nado no seibi nado no sokushin ni kansuru hōritsu 民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律, dite loi PFI) est promulguée au Japon en 1999 sur le modèle de son homologue britannique. L’année suivante, le


par « Kenchiku hyōron no shiten o tou » 建築評論の視点(Questionner le point de vue de la critique architecturale), et Hayashi Shōji 林昌二 (1928-2011), architecte en chef chez Nikken sekkei, par « Sono shakai ga kenchiku o tsukuru » その社会が建築をつくる (Cette société qui produit l’architecture) dans le numéro d’avril 1975 de la même revue ; ensuite, Kōjiro écrit « Saiban no kisetsu » 裁判の季節 (La saison des juge- ments) dans le numéro de mai 1976 et Muramatsu Teijirō « Busū no kisetsu » 部数の季節(La saison des tirages d’articles) dans le numéro d’août de la même année. Kōjiro, en écrivant que les réponses à sa « contestation » sont sans valeur, ferme la discussion.

60.   Cette loi cadre un système contractuel qui correspond au partenariat public-privé, dit « PPP » en France, qui regroupe en un seul marché conception, construction, entre- tien, maintenance et gestion d’un équipement public, avec une maîtrise d’ouvrage pri- vée. (N.D.L.R.)


 

cadre de base des projets « PFI » est mis en place par une Commission de promotion pour l’utilisation des fonds privés (Commission de promotion PFI), mais les approximations se succédent, provoquant des faillites61.

Les fonctions des architectes, qui intègrent désormais des activités de management et de maintenance, vont au-delà de leurs limites tradition- nelles. Dans le cadre des concours avec un partenariat PFI, une méthode d’évaluation globale a été introduite, qui non seulement inclut les coûts de construction mais également un plan financier lié à l’exploitation et à la gestion du bâtiment. Le principe de séparation entre conception et exécu- tion ne s’applique donc pas au préalable. Il existe de nombreuses modalités de partenariat PFI : BTO (Build, Transfer, Operate), BOT (Build, Operate, Transfer), BOO (Build, Own, Operate) et RO (Rehabilitate, Operate). Dans ce contexte, le principe de séparation conception/exécution, défini par le ministère de la Construction en 1959, selon lequel « les cosignataires d’un projet de conception ne peuvent en principe pas participer à l’appel d’offres pour les travaux de construction », a été revu. La loi sur la promotion de la garantie de qualité dans les travaux publics (kōkyō kōji no hinshitsu kakuho no sokushin ni kansuru hōritsu 公共工事の品質確保の促進に関する法律) mise en application en avril 2005 a ainsi instauré de manière précise un système de conception et de construction cohérent, appelé design-build en Occident (contrat de conception-construction). L’adoption de ce type de contrat est également une tendance mondiale.

Après avoir reçu une « notification de déclarations illégales » dans le

cadre de l’affaire « JFTC » et avoir été requalifié en organisation commer- ciale, l’Institut japonais des architectes a été contraint de se réorganiser pour adopter un fonctionnement plus ouvert. Après le décès en 1986 de son pilier, Maekawa Kunio, cet institut prend un nouveau départ en 1987 sous la direction de Tange Kenzō et fort de nouveaux membres et d’un

 


61.   Nous avons participé à l’examen du PFI pour l’hôtel de région d’Ōtsu 大 津 , et à celui de l’école de police départementale d’Osaka. Des partenariats PFI ont été entrepris pour divers bâtiments gouvernementaux : bureaux du gouvernement central, bureaux de la direction générale des impôts de Tokyo, entre autres, et étendus à la mairie de l’arrondissement de Chiyoda et à des bâtiments administratifs régionaux. Nous pou- vons citer comme exemples de faillites : Thalasso (Taraso) Fukuoka タラソ福岡, le village italien du port de Nagoya (Nagoya-kō Itaria mura 名古屋港イタリア村, centre commer- cial et de loisirs) et l’hôpital municipal d’Ōmihachiman 江八幡.


 

changement de nom : Nouvel Institut japonais des architectes (Shin Nihon kenchikuka kyōkai 新日本建築家協会). En 1996, il reprend son ancien nom, avant de devenir en 2013 une société civile d’intérêt public (kōeki shadanhōjin 公益社団法人). Plus de 8 000 aux premiers temps du Nouvel Institut japonais des architectes, ses membres sont aujourd’hui environ 4 500. Les membres réguliers justifient de plus de cinq ans d’expérience pratique après l’obtention d’une licence d’architecte de première catégo- rie, attestant leur expertise dans la conception de tous types de bâtiments. Les présidents successifs de l’Institut ont été alternativement des architectes issus de bureaux d’étude intégrés à une entreprise ou bien d’agences renom- mées, mais avec la diversification actuelle des modalités de la commande, qui incluent désormais le design-build, les architectes travaillant pour un bureau d’étude intégré hésitent entre plusieurs statuts.

Par ailleurs, l’Institut japonais des architectes a tenté, avec notamment

la Fédération japonaise des architectes, de mettre en place un nouveau sys- tème de « licence d’exercice en architecture (kenchikushi 建築士) », prenant modèle sur celui de l’Union internationale des architectes (UIA), lui-même fondé sur un idéal classique du métier d’architecte (kenchikuka 建築家). Cependant, le scandale des « documents falsifiés de calcul des structures » (2005-2009) a fortement freiné ce mouvement. À cause de cette affaire, le ministère du Territoire, des Infrastructures, des Transports et du Tourisme, a été obligé de revoir entièrement, non seulement la loi sur l’exercice des architectes mais aussi la formation en architecture62 ; cela a abouti à la créa- tion de nouvelles qualifications : après une formation suivie d’examens, les architectes de première catégorie justifiant de plus de cinq années d’ex- périence professionnelle peuvent obtenir une qualification en conception de structures ou en conception d’équipements (révision de la loi sur les architectes de 2006, application en 2008). Ce système de qualification va dans une direction différente de celle visée par une certification générale des architectes qui supervisaient la conception architecturale dans son ensemble : il renforce au contraire les spécialisations et différenciations professionnelles.

 


62.   Cela a eu pour conséquences la mise en place de formations régulières obligatoires et la révision des conditions d’admissibilité aux examens ; ainsi, les « matières fixées » étudier) sont depuis devenues des matières désignées (reconfirmées tous les quatre ans).


 

Les tenants et aboutissants de la construction du nouveau stade olympique ont révélé l’ampleur des changements intervenus dans l’environnement des

« architectes » au Japon, ainsi que la structure du monde architectural actuel en tant que telle. En 2012, après avoir décidé une reconstruction totale en vue de créer un dôme utilisable par tous les temps (zentenkō-gata dōmu kōsō 全天候型ドーム構想), le « Concours international pour le concept de base du nouveau stade national » est lancé, mais beaucoup d’éléments du programme nécessaires au concours demeurent indéterminés (y compris la décision d’ac- cueillir les Jeux olympiques). Andō Tadao, le président du jury, a déclaré par la suite qu’il s’agissait d’un « concours d’idées », mais la révocation totale du projet de Zaha Hadid (fig. 13), la réalisation d’un nouveau concours (design- build), l’organisation des entreprises candidates, les modes de décision, etc., ont montré crûment les problèmes rencontrés par les concours d’architec- ture au Japon. En outre, cela a clairement confirmé que les super zenekon contrôlaient les projets de construction de grande envergure.



Fig. 13

Proposition pour le nouveau stade national à Tokyo, Zaha Hadid, 2015.

Source : Funo (2015).


 

IV. Design de la planète et des régions. Tout est architecture et nous sommes tous architectes : un point de départ

À partir de 1966, pendant cinq années, Isozaki Arata s’est profondément impliqué dans le projet du site pour l’Exposition universelle de 1970 à Osaka, et il a été pris dans le « tourbillon » des dynamiques politiques en jeu. Il a déclaré :

J’ai fait le constat d’une rupture absolue entre le radicalisme du changement social et le design. […] Il n’est pas impossible que le radicalisme capable d’unir à la fois le design et le changement social n’apparaisse que dans la sphère des illusions. Inversement, si l’on se focalise sur le radicalisme du changement social, il existe toujours, même de manière dissidente, un processus d’exercice du design, et donc de réalisation. […] Renoncer au design, ou bien le nier, n’est-ce pas l’unique moyen de garder une attitude radicale ? (Isozaki 1975)

 

De même, à la fin des années 1960, Maekawa Kunio, fer de lance de l’architecture japonaise moderne, a déclaré qu’« aujourd’hui, les meilleurs architectes sont ceux qui ne construisent rien ».

Isozaki a opté pour « l’architecture comme art ». Son intention était de libérer l’« architecture » de ses jougs ordre temporel (l’histoire), contexte social (le lieu), style, technique –, et d’élaborer des fictions sur des sur- faces planes autonomes (Isozaki 1974). Cependant, lorsque l’architecture postmoderne a commencé à se répandre, portée par la vague de la bulle économique, les réalisations consécutives de bâtiments, relevant d’un

« historicisme postmoderne » (posutomodan hisutorishizumu ポストモダン・ヒストシズム), l’ont rendu perplexe : « J’ai donc cessé d’y contribuer comme dessinateur de styles historiques… En tant que postmoderne, je n’ai pas voulu participer à cet historicisme qui pille les archives histo- riques » (Isozaki 2005). Quand toutes les différences deviennent des objets de consommation, le privilège des architectesIsozaki Arata ou un autre – perd tout fondement. Désormais Isozaki n’est plus qu’« un parmi d’autres » (one of them). En 2019, il est devenu, de façon très convenable, membre de l’Académie japonaise des arts (Nihon geijutsuin 日本芸術院).

Dans l’immédiat après-guerre, les architectes avaient cherché à réformer l’ensemble du système de la production architecturale, comme le montre le plan d’action de la NAU. Maekawa Kunio gardait constamment à l’esprit ce que devait être le système des techniques de construction et le système


 

général de conception et d’exécution. Le « radicalisme capable de rassembler le design et le changement social » dont parle Isozaki trouve ainsi son point de départ dans l’architecture de l’après-guerre. Cependant, ce sont les super zenekon, considérés comme le summum de l’industrie de la construction, qui ont pris les commandes de la conception et de l’exécution, comme de tout le système de production, et il était donc impossible pour un architecte seul de superviser l’ensemble du processus de la production architecturale. Isozaki Arata constate cette rupture absolue. Cela signifie que « l’architec- ture, c’est la société qui la fabrique » (Hayashi 1975), autrement dit, que

« l’architecture est fabriquée à 99 % par la société (le rôle de l’architecte est de 1 %) » (Murano 2011).

Comme on vient de le voir, une des voies qui s’offre à l’« architecte » pour survivre est celle de l’« architecte artiste ». En effet, vis-à-vis du design systématisé effectué par les firmes géantes, il existe une demande certaine pour l’« architecture en tant qu’art ». De fait, dans la constitution de diverses équipes de conception, la participation d’« architectes » est recher- chée (besoin d’un « nom »). Saitō Masao a proposé le concept intéressant d’archi-neering (ākiniaringu アーキニアリン), mais chaque projet, même si on distingue l’architecte de l’archi-technocrate, demande au moins une figure capable de faire une synthèse. Si l’on examine quelles réalisations ont « fait date » pour la revue Nikkei architecture (Nikkei ākitekuchua 日経アーキテュア), dans le numéro qui revient sur les trente années de

« Heisei », presque toutes sont des œuvres d’« architectes » couronnées de leur nom personnel63.

 


63.   Les dix œuvres choisies par vingt personnalités, classées par nombre de voix :

-  la médiathèque de Sendai par Toyo Ito & Associates, Architects (2001) ;

-  le musée d’art contemporain du xxie siècle de Kanazawa par SANAA (2004) ;

-  le terminal maritime international de passagers de Yokohama par FOA (2002) ;

-  la gare de Kyoto par l’Institut architectural Hara Hiroshi + Atelier Φ (1997) ;

-  l’Institut de technologie de Kanagawa (Kanagawa kōka daigaku KAIT kōbō 神奈川工科大学KAIT工房) par Junya Ishigami Associates, Ishigami Jun.ya* kenchiku sek- kei jimusho 石上純也建築設計事務所 (2008) ;

-  le musée d’art de Teshima* par l’Office of Nishizawa Ryūe, Nishizawa Ryūe kenchiku sekkei jimusho 西沢立衛建築設計事務所 (2010) ;

-  le Terminal 1 de l’aéroport international du Kansai par Renzo Piano Building Workshop Japan (1994) ;


 

D’un autre côté, il est également clair que l’archi-technocrate a pris les commandes de l’époque. Si le projet est de grande envergure, il devient de plus en plus courant de voir plusieurs technocrates former une structure ad hoc pour en assurer la conception. De plus, le BIM, outil qui intègre conception et exécution, est appelé à se diffuser toujours plus.

Le problème est que de tels structures et systèmes produisent une archi- tecture « médiocre et uniforme » en nombre. En outre, pareille orientation est dépourvue d’objectifs déterminés. En d’autres termes, elle demeure dans le paradigme de la Haute croissance et le devoir de critique de l’« architec- ture moderne » reste en suspens. Dans les trente années qui suivent l’écla- tement de la bulle économique, une architecture nouvelle formée à partir d’une critique fondamentale de l’« architecture moderne » n’émerge pas. Si l’on se contente de cette architecture « médiocre et uniforme », l’intelli- gence artificielle prendra tôt ou tard le dessus.

Alors que l’organisation du monde connaît des changements profonds, la « Terre » s’impose comme nouveau cadre de référence. Si l’« architecture d’après-guerre » s’est développée dans les simples limites du « Japon », ce sont le « monde », la « terre » et l’« univers » qui circonscrivent désormais le développement de l’architecture. Penser l’architecture dans ce grand cadre terrestre, c’est la penser comme un système mon- dial. Cela prend des dimensions qui dépassent l’imagination d’un seul architecte… Pièces, habitations, quartiers, régions, villes ou territoires sont d’échelles diverses, la façon d’organiser l’espace est le sujet des architectes et des urbanistes… A-t-on vraiment proposé une vision spécifique de l’organisation de l’espace ? N’a-t-on pas fini par se limiter à des parties, en les traitant selon des modèles établis en système ? N’a-t-on pas continué à délaisser toute méthode qui connecterait dans leur récipro- cité des espaces d’échelles différentes, par exemple, qui assemblerait l’architecture et

la ville ? (Funo 1995)

 


-  le centre funéraire de Kaze no oka (Kaze no oka sōsaijō 風の丘葬祭場) par Maki and Associates (Maki Fumihiko sōgō keikaku jimusho 槇文彦総合計画事務所, 1997) ;

-  le musée d’art Hiroshige de Nakagawa-machi Batō (Nakagawa-machi Batō Hiroshige bijutsukan 那珂川町馬頭広重美術館) par Kengo Kuma & Associates (Kuma Kengo kenchiku toshi sekkei jimusho 隅研吾建築都市設計事務所, 2000) ;

-  la rénovation de la gare de Tokyo-Marunouchi par le bureau d’architecture de JR East (2012).

(Naitō Hiroshi* + Nikkei ākitekuchua 内藤廣+日経アーキテュア, Kenshō Heisei kenchiku-shi 検証―平成建築史 [Examen : histoire de l’architecture de Heisei], Nikkei BPsha 日経BP, 2019).


 

L’avenir des « architectes » se dessinera sans doute à travers les tâtonne- ments de réalisations concrètes. Si, de façon très pratique, l’on revient aux fondamentaux, à supposer que « la conception du logement est le premier bastion », un thème commun serait « le moyen de conférer à des fragments une expression du lieu, du territoire, avec la perspective de parvenir à un

« tout » composé de ces parties plus riches » (Hara 1967).

Comme nous l’avons constaté dans cet article, le Japon n’est vraiment plus dans l’époque du scrap and build. Inventer un mécanisme durable (sasutinaburu ィナブル) qui contrôle et entretient notre environne- ment immédiat, le restaure ou le préserve, n’est pas le problème des seuls architectes. Au Japon, pays les catastrophes naturelles sont fréquentes et le déclin démographique se poursuit, il devient clair que ceux qui détiennent l’une des clés pour créer ce mécanisme au niveau local, sont les

« community architects ».

Chaque lieu, chaque territoire, exige un « architecte » et ses compétences. Récemment, nous avons visité les agences et chantiers de jeunes praticiens à la recherche d’une nouvelle architecture de proximité (Funo 2019)64. Leur problème majeur est l’immense mur existant au sein du monde de la construction, qui fait obstacle à l’essor de ces jeunes « architectes », à cause de systèmes de « proposal competition » (appel d’offres) seules comptent les réalisations déjà effectuées, au détriment de la créativité.

 

Traduit du japonais par Mathieu Capel et Amira Zegrour.

 


64.   Y sont cités : Watanabe Kikuma 渡辺菊真; Fujimura Ryūji 藤村龍至; Ōshima Yoshi

Blue Studio 大島芳彦+ブルースタジ; Hirata Akishisa 平田晃久; Itō Mari 伊藤麻里; Alpha Ville アルファヴィ(Takeguchi Kentarō 竹口健太郎 et Yamamoto Asako 山本麻) ; Morita Kazuya 森田一弥; Saitō Tadashi 斎藤正; Yamaki Hidefusa 八巻秀房 et Iijima Masayuki 飯島昌之; Ōi Tetsuya 大井鉄也; Niwa Tetsuya 丹羽哲矢; Mizutani Toshihiro 水谷俊博 et Mizutani Reiko 水谷玲子; Uoya Shigenori 魚谷繁礼 et Uoya Miwako 魚谷みわ子; Yamamoto Yūsuke 山本雄介; Matsumoto Daisuke 松本大輔; Aoyama Shūhei 青山周平; Okamoto Keizō 岡本慶三; Ikegami Aoi 池上碧; Okabe Tomohiko 岡部友; Mokuchin kikaku チン企画 (Muraji Yūtarō 連勇太朗, Kawase Eiji 川瀬英嗣, Nakamura Kentarō 中村健太郎 et Yamada Rick 山川陸) ; 403architecture[dajiba] (Yada Tōru 彌田徹, Tsuji Takuma 辻琢磨 et Hashimoto Takeshi 橋本健史) ; Tsubame architects ツバメアーキテ(Sandō Takuto 山道拓人, Chiba Motō 千葉元生, Saikawa Himari, 西川日満里 et Ishigure Masakazu 石榑督和) ; Katsuki Masahiro 香月真大; Ashizawa Ryūichi 芦澤竜一; Oka Keisuke 岡啓輔.


 


 

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